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20代編 1
目覚めの気配にふわりと身体感覚が蘇る。頬が冷たい空気に触れる。鼻が湿った朝の匂いをかぐ。鼓膜が遠い霧笛の音に震え、神経を伝わる刺激は脳だけでなく身体中すみずみまで走り回り、瞼が開いた。薄暗い部屋。カーテンを開けると、街が白い霧に満たされている。通りの向こうに見えるはずのイェータ川も、霧の下でまだ眠っているようだ。 それまで毛布に包まっていた身体が急に忍び寄った寒さにぶるりと震えた。ジンはベッドに掌を滑らせる。まだ少し生温かかった。彼はガウンを羽織って寝室を出た。 狭い台所に長い黒髪の後ろ姿。まだブラシもかけていない髪は寝癖で乱れている。 「おはよう」 背中に向けてジンは声をかけた。 「…おはよう」 振り返ったユウヤが挨拶を返した。 「お茶、もう少し待って」 「ああ。ありがとう」 ジンは玄関から新聞を取ってくると、キッチンテーブルにかけた。そこへユウヤが紅茶を出す。ジンはもう一度、ありがとう、と言った。新聞を広げると紙とインクの匂い、配達されるまでに吸い込んだのだろう通りの霧の匂いが広がる。紅茶を飲むと芳しい香りがそれらを包み込み、混じりあって朝の匂いとなった。 ユウヤが向かいの席に座る。ジンは一面にだけ目を通し、テーブルの上に相手に向けて新聞を広げた。ユウヤは両手でティーカップを支えたまま、ありがとう、と小さく言った。 台所にジンは立つ。トーストを焼く傍ら、フライパンに卵を二つ割る。一つは黄身が割れてしまった。しかしジンはスクランブルエッグで誤魔化すことをしない。今日はサニーサイドアップだ。 「ユウヤ、何か面白いニュースはないか」 声をかけると、ユウヤはジンの背中に向かって新聞を読み始める。何が面白いのか、ユウヤにはまだよく分からない。しかしジンが何に興味を持つかは知っている。経済のこと。工業のこと。そして何よりLBXのこと。 記事を読み上げるユウヤの声を聞きながら、ジンは冷蔵庫からハムとベーコンを取り出す。ベーコンは目玉焼きの隣に。ハムはレタスと一緒に食パンの間に。ハムサンドを二枚。ジャムの違うサンドイッチを一枚ずつ。まな板の上で対角線に包丁を入れる。半分ずつに分けられたサンドイッチを彼は丁寧にハンカチで包んだ。 「ジン」 ユウヤが呼んだ。焦げくさい。ジンは慌ててフライパンの火を止める。トースターが音を立てた。 トーストの出来上がるタイミングとはちょうどよかったが、ベーコンはこんがりと呼ぶには硬すぎた。サニーサイドアップが小さく固まってしまっている。ジンは黄身の崩れていない方をユウヤに出した。 「いただきます」 「いただきます」 ジンが言うのにユウヤが唱和し、二人は手を合わせる。 広げた新聞の上で朝食を摂る。ちらりと目を落とすとLBXの安全会議のことが大きな見出しで載っていた。十年ぶりに日本で開催されるらしい。イノベイター事件からもう十年が経つのだ。さっきまでユウヤが読んでいたのは隣のページの記事だった。意図的にこれを避けたのだろうか。その真意までは窺うことができない。 が、構わない。今ではこういう話はほとんどしないのだから。 食事の最後にもう一杯の紅茶を飲んだ。 「美味しかった」 「…冷めてる」 「君の淹れる紅茶は冷めても美味しい」 お世辞ではなく本心から、ジンはそれを美味しいと思うし、この紅茶が好きだ。 「今日も水筒に入れておくよ」 「頼む」 片づけをするのはユウヤ。その間にジンが洗面台を使う。冷たい水で顔を洗い、歯を磨いてうがいをする。さっぱりとした気分だ。 バスルームにかけた洗濯物はまだ乾いていなかった。昨日はにわか雨の予報で外に干すことができず、換気扇を回しながらここに干していた。今日の天気を確認しようと浴室から出て、狭い廊下をユウヤと擦れ違った。 「今日は晴れると思うか」 と尋ねてみた。 「分からない」 素直にそう答えられた。 中古のテレビをつけると朝は霧深いが今日は晴れとの予報。信じることにした。窓の外に洗濯物を干していると隣にユウヤがやって来た。 「晴れるの?」 「予報ではそう言っている」 霧の向こうが強烈に明るくなる。白く染まった空気そのものが発光するかのような瞬間。霧が晴れて街の姿が明らかになる。 北海から吹きつける風でにわか雨の多いスウェーデン南西の都市、イェーテボリ。 窓から見えるのは狭い裏通り、古いビル。立体視どころか電光でさえない昔ながらの看板。労働者向けの食堂が店を開け、いかにも海の男らしい日焼けした男たちが大声で喋りながらそこへ向かっていた。更にその先には夜の一賑わいを終えてやっと眠りについた酒場や賭博場。石畳の道には何かゴミが落ちていて、野良犬が匂いだけかいでよたよたと歩いて行った。それらの風景をジンとユウヤは、この古いアパートの三階から眺めた。 「晴れ」 ユウヤが呟いた。 「なら安心だ」 ジンは窓から首を引っ込めた。 着替えようとパジャマを脱ぐ。隣に立つユウヤもそうした。まだ髪が乱れている。ジンはユウヤをリビングの椅子に座らせ、ブラシで髪を梳いた。穏やかな朝の時間を贅沢に使ってユウヤの髪を梳くのはジンの一番の仕事だ。 長い髪を邪魔にならないよう結ってやり、ぽんと背中を叩く。ユウヤは立ち上がって身支度を始める。ジンも窓に自分の顔を映して軽く簡単に髪を梳く。 背後ではユウヤが薄い水色のシャツに晴れた日の北海の色のような深いブルーのズボンと同じ色のネクタイを締めていた。ジンはクローゼットから自分の仕事着を取り出す。灰色のつなぎの作業着。肩から袖口にかけて濃い紫ラインが入っていて、同じ色の糸で工場の名前が縫い取りされていた。それはちょっと目を惹くデザインだった。しかし袖はもうほとんど油で真っ黒になってしまい、せっかくのデザインもあまり目立たなかったけれど。 ジンは同じく灰色の帽子を被る。 ユウヤもズボンやネクタイとお揃いの色の上着を羽織り、ケピ帽を被る。 キッチンテーブルの上で待っていたサンドイッチの包みと水筒をジンは小さなリュックと肩掛け鞄にそれぞれ入れた。玄関でユウヤが待っている。ジンは包みを二つとも持って出る。 玄関に停めていた自転車を持ってユウヤは狭い階段を下りる。ジンはその後をついてゆく。アパートから出ると、ようやく自由になれたとでも言うように自転車が車輪を光らせる。ユウヤがサドルに跨がる。ジンは荷台に座った。 自転車はゆっくりと走り出した。裏通りを抜けて川沿いの道を目指す。イェータ川まで出たら川上に向かって走る。平坦に見えるがわずかに傾斜があって長距離の上り坂はきついはずだが、ユウヤの表情は変わらない。 道がトラムの走る大通りと交叉する四つ角、自転車は止まった。ジンが荷台から下り、ユウヤに肩掛け鞄を手渡す。ユウヤはそれをたすき掛けにかけてジンを見た。 「いってきます」 ジンが言う。 「いってらっしゃい」 ユウヤが応える。 それからちょっと沈黙。ユウヤが眩しそうにしながらケピ帽を脱ぎ、ジンに頭を下げる。 「…いってきます」 ジンはユウヤが顔を上げるのを待って応える。 「いってらっしゃい」 二人はお互い反対側の角に曲がる。イェーテボリの街が活動を始める、朝。それぞれの姿は出勤する人波にまぎれて見えなくなる。 この街に来て一年になる。ジンが小さな町工場に働いて一年。ユウヤが自転車で坂の多い街を廻る郵便配達夫の仕事を始めて一年。 裏通りの古いアパートの一室で息を潜めるように生きて、一年。 シュヴァルツヴァルトの別荘を焼き払ってからは四年だ。ヨーロッパを転々とし、北へ、北へと逃げて、とうとう海まで渡った。今のところ、一番長居のできている街だ。郵便配達夫の仕事をユウヤは彼なりに気に入っているらしい。観光の目玉になるような都市でない分、二人にとっては暮らしやすく、できればこまだここにいたいとジンは思っていた。 それにこの仕事も気に入っている。 旋盤の音。鉄の削れる音。ジンは指先の神経を研ぎ澄ませる。 作っているのは小さな小さなネジ。ピンセットで摘み、玩具のように小さなドライバーを使うネジ。小さいのにとても頑丈なネジ。 これはLBXの部品だ。 街の一角、川に近いそこは工場地帯と呼ぶにはシュトゥットガルトで見下ろした風景のような壮観さはない。それはボルボの本社がある更に上流で、その外れに位置するここは町工場が軒を連ねていた。その内半分以上がLBXの部品を手がけていたが、その中でもジンの勤める工場はLBXの部品を専門にもう十年以上前から操業を続けていた。 街のサイレンが鳴る。続いて工場内のベルがけたたましく鳴った。昼休みだ。ジンは工場の外に積まれた古タイヤに腰掛け、リュックの中から弁当を取りだした。ユウヤと半分に分けたサンドイッチと、魔法瓶の中の紅茶。 今頃、ユウヤも郵便局に戻って昼食を摂っている頃だろう。今日のサンドイッチはどうだろうか。料理の下手なジンだが、サンドイッチならなかなか失敗することもない。 一息ついていると同じ作業服を着た男が近づいてきた。髪が真っ白で、もう何年もすれば定年の齢になる、この小さな工場の工場長だ。 「いいか」 訛りのある英語で男は尋ねた。ジンは黙って頷いた。 「その格好も板についてきたじゃないか」 「ありがとうございます」 「さっき削ってたやつは直しが必要だが、まあいい。一年で大したもんだ…」 一年だな、と男は繰り返した。 「お前がここに働かせてくれと来てから一年、だろう」 「はい」 「あの日は雪だった。寒かったな」 「…そうでしたね」 「こんな坊ちゃん面の若造が役に立つかと思ったが、いや、うん、馬鹿にしちゃあいない。お前さんの目を見れば分かったさ、本気だってな」 男は一人で勝手に納得して頷いた。 「これからもよろしく頼むぜ」 それだけ言って離れてゆく。男の姿が工場内に消えると、ジンはホッと溜息をついた。 ここで生活をしたい。 ここでなら生きた人間の生活ができるかもしれない。 逃げ、隠れ、息を潜める生活にピリオドを打たれるかもしれない。別段、派手な生活を送ろうとは思っていなかった。普通の生活だ。働いて、金を稼ぎ、飯を食い、ベッドで眠る…。 不意にユウヤに会いたくなったがCCMも携帯電話も持っていない。ジンも、ユウヤもだ。ジンはサンドイッチに食いついた。今、ユウヤもこれを食べていることを想像しながら。 夕方はそれぞれに家に帰る。玄関にはもう先に自転車が到着していた。 「ただいま」 ジンは暗い部屋の奥に声をかける。 ひたひたと裸足の足音が近づいてくる。 「おかえりなさい」 思いの外、近距離でユウヤが言った。 「どうして明かりを…?」 「窓の外を見ていた」 ユウヤが指さす。窓辺に寄せられた椅子。 「ジンが帰ってくるから」 腕によりをかけた夕食はやはりそこまで美味しくなくて、ジンは小さな声ですまないと言うが曖昧に頷くユウヤは味が分かっていない。 夕飯の後は入浴にたっぷり時間をかける。真っ白な、大きめの浴槽にユウヤは長い時間浸かる。時々心配になってジンはノックをした。ユウヤは天井を見上げて瞼を閉じている時も、浴槽の縁にもたれかかっている時もあった。ジンが近づくと冷たい手が腕を掴んだ。 「風邪を引くぞ」 水だけの浴槽にジンはたっぷりと熱い湯を満たす。シャワーをかけてやると長い黒髪が雪崩れて右肩の傷が露わになった。 「痛くないか?」 ジンは久しぶりにその質問をしてみる。 「痛くない」 傷の上に置かれたジンの手に、ユウヤはそっと自分の手を重ねる。 同じ食事をして、一つの浴槽を使って、夜は一つのベッドで寝る。シーツは子供用の柄物で、ムーミン一家がプリントされていた。もう絶対に白いシーツでは眠らない。柔らかなシーツと、互いの肌の匂いに包まれて眠る。 仰向けになったジンの腕にユウヤの手が絡みついた。ユウヤはジンの腕を抱きしめて眠った。呼吸の音で、もう眠ってしまったと分かる。 ジンはもう少し起きていた。ユウヤの右肩をそっと撫で、パジャマ越しに唇を押し当てた。眠る前の小さな秘密。四年間、そっとジンの中に仕舞われ続ける秘密だった。 「おやすみ、ユウヤ」 囁き、ジンは瞼を閉じる。 |