10代編 6
小鳥の囀りが聞こえる。カーテンを開け放した窓から朝日が射し、頬の上に落ちた。ジンは目を細めソファから起き出した。外の景色は湖から立ち昇る霧が晴れ、爽やかな朝の空気に満たされていた。窓を開けると一陣の冷たい風が吹き込み、肌蹴たシャツの隙間から覗く肌が驚く。彼は胸いっぱいに冷たい空気を吸い込んで全身を目覚めさせた。骨の奥から肌の表面へ震えが伝わる。鳥肌が立ち、じんわりと収まる。 ジンは部屋を振り返った。広いリビング。火の気配のない暖炉。部屋の中央に敷かれた楕円形の絨緞の上に、ユウヤが横たわっていた。横向きになり、ジンには背を向けている。白い足の裏が見えた。泥に汚れてはいないのを見て、ジンは安堵の溜息をついた。 湖畔の別荘での休暇は、もう半分が過ぎていた。しかし二人の日々は休暇と呼ぶには冷たく、安らぎを得るには厳しく、二人でいるには寂しい。 最初の夜に起きた事件以来、毎夜が格闘だった。自らベッドに入るユウヤは、しかし真夜中に必ず目を覚まし夢遊病のように彷徨った。湖を探している。引き留めようとするジンと取っ組み合いになり、大体リビングのソファに押し付けられたまま、疲れ果てて眠るのだった。そのままの格好で目を覚ますこともある。今朝のように絨緞の上に丸くなっていることもある。しかしベッドに戻ることはなかった。 ジンはパンを温め、自分で淹れたコーヒーを飲んだ。コーヒーマシンの説明書の通り淹れているのに、いつも濃すぎて苦い。加減をすれば薄すぎる。休暇に入ってこちら、まともなコーヒーを飲んでいない。 戸棚には何種類かのジャムの壜が並んでいた。ジンはそれを目の前に小さく溜息をついた。自分の耳にも聞こえる溜息だった。ユウヤにはこれらの味の区別もつかないという事実。トレイの上にパンと選んだジャム――暗いオレンジ色、杏だ――、湯気を立てるコーヒー、それからミルクと砂糖を添えてリビングに運ぶ。 「ユウヤ」 目覚めているのは分かっている。しかし背中は向けられたまま。その丸まった背中にジンは声をかける。 「朝食だ。食べてくれ」 二日目からユウヤはハンガーストライキを始めた。最初は殴られた頬のせいかと思ったが、それがユウヤの意志だった。彼は決して食事に手を付けようとしなかった。それなのに夜の取っ組み合いで出す力は凄まじい。 ――本当なら倒れている。 強化人間故だろうか。そうとしか考えられない。 祖父に端を発する所業の末。自分はLBXの部品だといたわりを拒絶し、感情は必要ないと涙を流し、自分の全てを壊してくれと乞う。しかしそれらユウヤの心から生まれたものだ。身体は心配だが、このハンストだってユウヤから自分にぶつけられた感情だと、ユウヤの我儘であり意思表示だと思うと、ジンは捩じれた喜びを感じずにはいられなかった。黒木でも目黒でもない、灰原ユウヤが感情を、我儘をぶつける相手は僕だけだ。 ジンは玄関前の石段に腰かけて待った。空は今日も雲が少なく、よく晴れている。凍てついた夜の空気、森を漂う冷たい空気は草地の陽だまりでほどけ、風さえ優しく感じた。しばらくすると扉が開いてユウヤが姿を現す。亡霊のように静かな足取りでジンの横を通り抜け、湖に降りる小径を行く。ジンは窓からリビングを振り返った。パンは手が付けられないまま、テーブルの上に載っている。開けっ放しにされた扉を閉め、ジンはユウヤの後を追いかけた。 岸辺にユウヤは跪いていた。水面に向かって大きく身体を倒す。まるで落ちるかと思われる寸前のところで傾きは止まった。 まるで口づけでもするかのように見えた。ユウヤは湖の水面に直接口をつけて水を飲んでいた。 以前、ジンはこの別荘で鹿を見たことがある。やはり湖面に口をつけ水を飲んでいた。同じく穏やかな光景だが、それと比べるとユウヤの行為に野生じみた雰囲気はない。人の形をしているからこその美しさがそこにはあった。まるで人形作家が芸術のために人形をそこに配置したかのような人とも、生物ともつかない、無機質な冷たさが感じられる行為だった。 「ユウヤ」 水面から口を離したユウヤに、ジンは声をかけた。ユウヤには水を飲むところを見られたという羞恥も見えない。身体を起こし、ジンを見た。口の端から透明な水が一筋、顎へ流れ落ちる。 「話をしたい」 顔を湖に向けたその仕草は明確な拒否ほどに強くはない。ジンはそっと、わずかに距離を置いてユウヤの隣に座った。近くで見ると、こぼれ落ちた水がシャツの襟を濡らしていた。 「あと数日で休暇も終わる」 ジンも湖面に視線を投げた。波はほとんどなく、森の景色が鏡のように映る。澄んだ冷たい水。深い湖。 「僕は君との約束を果たそうと思う」 ユウヤが小さく首を振った。 「約束なんかしていません」 「定められたことだ。海道ジンとしての、僕の責任だ」 この話を始めればまた堂々巡りになる。口に出した瞬間から、僕は…、とジンは顔を顰めた。 「…ユウヤ」 心を鎮め、ゆっくりと名前を呼ぶ。 「君は、どうしたい」 「どう……」 「このままCCMスーツの、サイコスキャニングモードの被験者として生きることを良しと思っているのか」 「僕にはジャッジしかいない」 ユウヤの右手が前に向かって真っ直ぐ伸びる。 「僕の今は…、僕が生きているということはジャッジが動くことだから。僕はジャッジがなければ存在しないのと変わらない」 「しかし君は現にここにいる。僕と言葉を交わしている」 「僕は…」 掌が上を向く。明るい陽の光を受けとめる。 「分からない、何も…。人間が何を感じて生きているのか…」 「そんなことを言うな」 ヤマメの味も、ジャムの味も、掌に受ける陽のぬくもりさえ分からないというのか。 「分からないと感じる心なんか、僕はもう…」 ユウヤの手がぱたりと落ちた。 「ジャッジを操っている間、僕がジャッジである間は、僕は僕の存在を忘れられる。僕はこの世界から消えることができる。…だから、僕は、それでいい」 「今のままで…?」 「あなたが」 ちらりとユウヤの視線が刺さった。 「そうさせないんだろうけれども」 「君は…」 ジンは冷静なまま、ユウヤの目を見て尋ねた。 「僕が、嫌いか?」 「あなたが…?」 感情のない声がかすかに戸惑いに揺れた。視線が頼りなく落ちて、ユウヤは俯いた。 わからない、と小声で呟くまで長い時間がかかった。 自問するように、尋ね返すように、本当にこの言葉が正しいのか躊躇うような呟きだった。ワカラナイ、と意味も分からず音だけ繰り返すようにユウヤは呟いた。 「わから、ない」 「君は僕を拒絶する」 「あなたといると疲れる」 ユウヤは目をそばめ、ぶつぶつと呟く。 「あなたといると、つらい。身体が重い。心が引き摺り戻される。胸が痛い。肩が、僕には大きな傷が、とても痛い。だって、きみ、は…」 大きな瞳が見開かれ、ジンを見る。 「ジン…」 痛みに耐えるように顔が歪む。 「きみを、きらいだ、と」 おもったことはないのに、とユウヤは囁いた。 湖面を渡って冷たい風が吹いた。ユウヤの長い髪が揺れ、伸びた前髪が表情を隠した。 僕は、とジンは囁いた。 「君を忘れられなかった」 崩れ落ちる橋。沈む自動車。両親の腕。冷たい川の水。暗い夜。 真っ白な病室。真っ白なカーテン。真夜中の泣き声。 両親を失った記憶。痛み。悲しみ。 二人は互いの消えない過去の象徴だ。 「君を思っている。横暴と感じるかもしれないが…」 ジンは手を伸ばさず、視線だけでユウヤの頬をいたわった。 「先日は殴って悪かった。すまない」 ユウヤの手は自分の頬を撫でた。 溜息をつくように長く長く息が吐き出された。ユウヤは座り込んだ膝に顔を埋め、それきり動かなくなった。ジンはユウヤを起こさないように立ち上がり、別荘に戻った。その呼吸を聞いただけで彼が眠ったのだと、もう分かるようになっていた。 日の暮れる前に、ジンは早めの夕食を準備した。湖の畔で眠るユウヤを木陰から見守って一日が過ぎた。昼食を摂っていないと気づいた途端に空腹が身に染みた。 冷蔵庫の中にあったものを温めただけの食卓。しかしそこにユウヤは現れて、初日以来初めて席に着いた。 「…こんなものしかない」 冷凍されていたグラタンと温めただけのパン。ジャムを何種類か並べる。ユウヤが何を選ぶだろうかと見ていると、ユウヤはジンをじっと見つめていた。待っているのだった。ジンは今朝と同じ杏のジャムを取った。ユウヤもそれを真似してパンに塗った。 二人の目の前に空っぽの皿が並ぶ頃、傾いた陽が山の向こうに沈もうとしていた。夕景は鮮やかに照らし出され、そしてあっという間に夜の闇と冷たさが山間の湖に、別荘の上に舞い降りた。ジンはランプを灯し、テーブルの上に置いた。 「できる限り、君を助けたい」 ジンは言った。 「君がもう傷つけられないように、つらい目にあわないように。そのために僕の存在が邪魔なのだとしたら、君の前に姿を現すのはやめよう。この休暇が終わったら…」 暗い瞳がジンを見た。 「君の望むようにしたい」 ジンはその瞳を見つめ返し、かすかに苦笑した。 「君はつらい記憶も、僕のことも忘れていい。でもユウヤ、僕は君のことを忘れない」 「ジン…?」 急にユウヤの顔が歪んだ。 「う…うぅ……」 「ユウヤ?」 「だから僕は、嫌だった。心なんか…」 「ユウヤ…」 「やっぱり君もいなくなる。また、いなくなってしまう…」 ユウヤは頭を抱えた。苦悶に歪むその表情をジンは見たことがあった。 サイコスキャニングモード。あの暴走。行き場のない悲しみと苦しみと混乱。 「どうせ一人になるくらいなら…」 歪んでしまって、嗤いにさえ見える顔がジンを向く。 「また苦しむくらいなら、こんな涙が流れるくらいなら…」 爪が頬に食い込む。 「君が壊してくれればよかったのに」 血が滲む。 「全部終わりにしてくれればよかったのに」 手を掴んで引き離そうとする。ジンが触れるとユウヤは暴れた。ランプの明かりに照らされて、大きく膨らんだ二人の影が縺れ、床の上に倒れた。 「いやだ…!」 真夜中と同じようにユウヤが暴れる。床に押さえつけると悲鳴が上がった。 「僕は…もうあのベッドには戻りたくない…!」 強烈な痛みがジンの胸を貫いた。孤独に耐えきれず涙をこぼして蹲った病院の真っ白なシーツ。神谷重工の実験施設で暴れる手足を拘束した黒いベルト。ジンは知っている。助けてくれる人間はいなかった。全てモニターされ記録されているのに、差し伸べられる手は一つもなかった。実験動物のように青白い液体の中で眠っていた。そこにいたのは傷だらけの身体に傷ついた心を閉じ込めた少年だったのに。彼には灰原ユウヤという、呼ばれるべき名前があるのに。 「ユウヤ!」 暴れる身体を抱きしめると、ユウヤが芯から震えているのが分かった。 「…ジン……」 震える声が囁く。 「もう一人は嫌だ……」 手が縋るように、強く背中に食い込んだ。 「終わりを、与えて」 夜の静寂で満たされた森に、突如爆音が響き渡った。暗闇に真っ赤な火柱が立ち上る。湖の畔に伸びる小径から、ユウヤは呆然とその様子を見上げた。 炎を背にジンが歩いてくる。別荘が燃えている。ただの火事ではない。LBXの攻撃を受けて。エンペラーランチャーから放たれたミサイルの雨により。ジンの頬はわずかに煤で汚れていた。手の中にはCCM。しかし何の信号も表示されない。『NO SIGNAL』の文字が点滅する。彼は振り返り、炎の中にそれを投げ込んだ。 「エンペラーが最後の仕事をしてくれた」 空っぽになった右手を見下ろす。 「海道ジンの、最後の仕事を」 「ジン……」 「これで君のジャッジも、僕のエンペラーも炎の中だ」 ジンはポケットから別荘の鍵を取り出すと、それも炎に向かって投げ込んだ。 「これで僕が海道ジンであるための全ては失われた。あの炎の中で燃えてしまった。必要なものの何もかも。僕にはもう何もない」 顔を上げる。真剣な瞳がユウヤを見る。 「ユウヤ、君に白紙の人生を捧げよう」 ジンはユウヤの前に跪き、その手を取った。 「君を本物の、生きた世界へ連れて行く」 「海道ジン…」 「もう僕は海道じゃない」 冷たい手の甲にジンは自分の額を押しつけた。 「一人の人間の、僕の魂を懸けて、君の心を本当の場所へ返す。誓って、僕は君を一人にはしない。僕は君のものだ」 「…それがあなたの償いですか」 「そうじゃない」 ジンは顔を上げ、微笑んだ。 「君の人生が僕の人生だ」 腹に響く音がした。モミに燃え移った炎がその幹を焼き尽くし、燃える木が湖に向かって倒れた。水飛沫と火の粉が舞った。二人は黙ってそれを見た。 炎から離れるにつれて夜の寒さが身に染み入る。ジンは山道に打ち棄てられた自転車を見つけた。後ろにユウヤを乗せて走ろうとしたが、一漕ぎもできないうちに横倒しになる。 「ジン…?」 「…僕は自転車に乗ったことがない」 「…………」 結局ユウヤがサドルに跨がった。ジンは後ろに座り、ユウヤの腰にしがみついた。 月夜だった。暗い森の道に点々と、ヘンゼルとグレーテルの目印のように木漏れの月光が落ちていた。 「僕たちはどこに行くの…?」 ユウヤが尋ねる。 「君の行きたいところは」 首を横に振り、ワカラナイ、と小さな声が答えた。 下り坂にさしかかった自転車は、山を快調に駆け下りる。時々道が分かれて、そのたびに止まった。 「ジン、分かれ道だ」と。 「ジン、曲がり角だ」と。 ユウヤは一つ一つ尋ねた。ジンは何も考えることなく、勘にさえ頼ることなく、思いつきで右へ、左へ、と答えた。 「月の照らす方向へ」 ユウヤが頷く。 古い自転車は軋みながら森を抜け、幾つもの曲がり角の後、二人の行方は分からなくなった。 |