10代編 5







 暗い森を一台のフォルクスワーゲンが穏やかな速度で行く。森の中の一本道を急くでなし、何一つ遮るもののない快適なスピードで。両脇から覆いかぶさる背の高いモミの木はこの森、シュヴァルツヴァルトを代表する樹木だ。密生したモミの落とす影の中、時折木漏れ日が射すと銀色の車体はきらりと光った。ジンの運転するフォルクスワーゲンは南へ向かって走り続けていた。助手席にユウヤを乗せて。シュトゥットガルトを離れ、南へ南へ。
 昨夜遅く、ぎりぎりまで仕事をしていたが疲労はなかった。朝が来るとジンの目は冴えわたり、寝る前に荷物を詰め込んでいたトランク一つを掴んで車に飛び乗り、ユウヤを迎えに走った。ユウヤは指示通り、会社のビルの玄関に待っていた。ジンも大した荷物は持たなかったが、ユウヤの荷物は輪をかけて少なかった。小さな鞄一つだった。
 着替えが一揃え。
「十日間の休暇だぞ」
「洗濯します」
 ジャッジと、ここに来て初めて見たCCM。
「休暇だぞ」
「理解しています」
「連れて行くのか」
 ジンの言葉にユウヤがかすかに表情を変えた。驚いているようだった。ジンもその違和感に気付いたのはユウヤの顔を見てだった。
 持っていく、とは言わなかった。
 小さな相棒であるLBXを物扱いはできない。それは多くのLBXプレイヤーがそうだろう。特にユウヤのそれは一心同体ともなる存在だ。
「…まあいい」
 実はジンの荷物の中にもエンペラーがしっかりと収まっている。
 交わした会話はそれっきりで、乗り込んでからは無言のドライブが続いた。ジンはフロントガラスの向こうを、ユウヤは横の窓に頭をもたせ、それぞれの方向に視線を投げていた。
 何も喋らない。音楽もかけない。ラジオの電波も届かない。わずかに開けた窓の隙間から冷たい森の匂いが風と共に吹き込む。その匂いをかぎ、呼吸をし、ユウヤは静けさに身を浸していた。やがてプールの中でそうするように瞼を閉じた。ジンはちらりと隣を見て、それを確認した。
 車は西のはずれにほど近い山の中でようやく停まった。もう何キロと山を抜ければ、保養地としても有名なバーデン・バーデンに辿り着く。ここはまだ深い森の中で、わずかに拓けた草地に晩秋の太陽が陽だまりを作っていた。その中に別荘はあった。二階建ての木造家屋。壁は白く、窓枠は黒。全ての窓は白いカーテンに閉ざされていた。
「着いたぞ」
 エンジンを切り声をかけると、助手席のユウヤがゆっくりと首を起こし瞼を開いた。夢から覚めたような目をしていた。本当に眠っていたのかもしれない。黒い瞳は虚ろというより無垢で、生まれたての瞳が陽の光の眩しさに細められるかのようだった。
 綺麗に草の刈られた草地を抜ける。ジン来訪の報せを受け先んじて訪れた管理人がやってくれたのだ。別荘も随分訪れていないのに埃くささはない。空気を入れ換えてくれていたのだろう。無人であった名残の冷たい空気も休暇の始まりを告げるようで悪くはない。
 玄関にトランク一つを置いたジンは、後ろから入ってきたユウヤに言った。
「カーテンを開けよう。窓も」
 ユウヤは頷き、自分も鞄を置いた。
「リビングを頼む」
 やはり頷くだけで返事はなかったが、嫌がる様子はない。ジンは右手の部屋に入った。食堂。台所。冷蔵庫には食品が十分に詰まっている。電気は裏手の自家発電機でまかなわれていた。しかしジンは戸棚からランプを見つけ出した。古いマッチも一箱。湿気っているような匂いがしたが、擦ってみるとツンと鼻をつく燐の匂いと共に小さな炎が上がった。
 いつの間にか台所の入口にユウヤが立っている。
「君はどの部屋がいい?」
 右手に自分のトランク、左手にユウヤの鞄を持ってジンは尋ねた。しかしユウヤは曖昧に首を傾げるだけだ。
 二人で二階に上った。草地に面したベッドルームが二つ。アルコーヴのある広い書斎、それに付随したサブベッドルーム。その窓からユウヤは軽く身を乗り出した。梢の間が光っている。
「湖だ」
 隣に並んだジンが教えた。
「行ってみるか」
 ユウヤは頷いた。意志のある頷き方だった。
 小さな斜面を下りると、そこは湖だった。雲間から射す陽に水面がきらきらと光っている。深い碧色は水の色か、森の色を映し出しているのか、深さが知れない。ユウヤは膝をついて湖に身を乗り出した。ジンも片膝をつき、水面に指先を滑らせた。
「冷たいな」
 ユウヤが手を伸ばす。白い手が水の中に浸された。とても澄んだ水だということが分かった。水面の下で白い手がゆらゆらと揺れる。
 また、ユウヤが瞼を閉じた。この季節もう水泳には向かない、と常識的なことを言おうとしてジンは口を噤んだ。そういう野暮な話ではないのだ。
 ユウヤはなかなか湖畔から離れようとしなかった。ジンはその隣に腰を下ろし、湖と深い森と秋晴れの空以外何もない景色を見つめた。つまらない、とは思わなかった。休暇とは、これで十分なのだ。

 夜、夕食を終えたユウヤはサブベッドルームの窓際に小さな椅子を置き、いつまでも湖を見下ろしていた。ジンのことなど気にしていないどころか、同じ部屋にいても存在に気づいていないかのような様子で。無視をしているのかもしれない。確かに、ここへは無理矢理連れてきた。もし無視であれば、それはそれで怒りの表現の一つかもしれないが…と思うが、ユウヤの気配には棘がない。ジンはそっとドアを閉めて書斎に入った。
 習慣的に、机の上のノートパソコンを開いた。そして、ここへはバカンスに来ているのだ、就寝前に仕事のチェックをする必要もないのだ、と気づいたが手はメールボックスを開いている。すると、そんなジンの性格を解っているのだろう、仕事のことは忘れて休暇を楽しんでくださいという旨のメールが秘書やチームリーダーたちから何通も届いていた。
 忠告に従ったジンはパソコンの電源を落とす。画面が黒く落ちると部屋も暗くなったように感じた。
「あ……」
 天井の明かりが瞬いて消える。自家発電機に何かあったのだろうか、と思ったが停電ではなかった。ただの電球切れだ。折角階下まで下りたのだ、とジンは台所のランプに火を点けた。
 柔らかなオレンジ色の光があたりをぼんやり照らし出す。ジンはそれを手に二階へ戻ろうとした。小さな玄関ホールからカーブを描く階段へ。
 みしり、と。
 木の床を踏む音がした。靴音ではない。裸足の足音。
 ジンは階段に向かってランプを掲げる。
 みしり、と音を立てる階段。
 白い素足。
「……ユウヤ」
 パジャマ姿のユウヤがゆっくりと階段を下りてくる。ジンの呼びかけにも止まることはない。半眼を閉じた虚ろな瞳は遠くを見ていた。
「ユウヤ」
 止まろうとしないユウヤがそのまま玄関のドアにぶつかってしまいそうだったので、ジンは思わず手を引いた。
「ユウヤ」
 強めに呼ぶと虚ろな目がジンの方を見る。ジンを、ではない。視線は定まらず宙を彷徨う。
「寝ぼけているのか」
 手を引けばついてくるので、そのままベッドまで誘導する。片手にランプを掲げ、もう片手にユウヤの白い手を引いて。
 ――冷たい。
 ユウヤはベッドの端に腰掛けた。
「もう…寝るんだろう?」
 声をかけると、倒れるように横になる。ジンは躊躇いながらぎこちない手つきでシーツをかけた。
「…おやすみ」
 躊躇いがちの、まるで慣れない挨拶にも返す声はない。しかし瞼が閉じた。ジンはドアを閉めてホッと息をついた。
 向こうのベッドルームに行こうかとも思ったが、どうしてもユウヤのことが気にかかった。ジンはアルコーヴに身体を横たえ書斎と、サブベッドルームに繋がるドアを見つめた。ユウヤは毎日きちんと七時間半の睡眠をとると思っていた。事実、心身に関する報告書にもそう書かれていた。しかしジンは真夜中に目覚めたユウヤを何度も目撃している。
 あのプール。
 幽霊のように階段を下りる素足。
 睡魔がジンを捉えていた。考えている内に、瞼が閉じていた。耳の中で足音が繰り返す。素足が木の床を踏む。みしり、と鳴る。一歩一歩はゆっくりしているのに、ユウヤはいつの間にか遠くまで行ってしまう。その足は湖に向かっている。
 足がシーツを蹴った。びくりと震えてジンは目覚めた。まだ眠ってそれほど時間は経っていないのだろう。部屋は相変わらず暗い。机の上でランプが燃えている。消さなければ…、そう思って立ち上がろうとしたジンの頬を冷たい風が撫でた。
 サブベッドルームに繋がるドアが開いていた。
 ユウヤ。
 小さく呟き部屋に飛び込む。ベッドはもぬけのからだ。窓はぴったりと閉じているが、カーテンが開いていた。雲が晴れ、月が出ていた。湖面が銀色に輝くのが見えた。
 書斎にとって返すと廊下に通じるドアも開いている。冷たい風に導かれるように、ユウヤの気配を追うように、ジンは階段を下りた。玄関の扉が開け放されていた。森から冷たい風が吹き込んでいた。
 ジンは迷わず湖に向かって走った。斜面の小径を下り、湖畔に至る。
「ユウヤ…」
 微睡みの夢の中いたように、ユウヤの後ろ姿は湖の岸にあった。白い素足が二歩、三歩と水の中に踏み出されていた。
「ユウヤ!」
 叫ぶ声は湖畔に木霊した。森の中で動物か、それともこの真夜中に鳥だろうか、ジンの叫びに抗議するように高い声で鳴いた。
 ユウヤが振り向いた。その目はじっとジンを睨みつけている。
 ジンは大股でユウヤに近づくと強くその腕を掴んだ。
「戻るぞ」
「……嫌だ」
「戻るんだ、ユウヤ」
「もう、やめて」
 ユウヤの顔が歪む。振り払おうとするが、ジンは食い込むほどに強くユウヤの腕を掴んでいて、それができない。
「戻ろう」
 もう一度、強く言った。
「戻ろう、ユウヤ」
 ユウヤの首が横に振られる。ジンは両手でユウヤの腕を掴んだ。
「いいか、よく聞いてくれ。ここには誰も君を傷つける人間はいない。僕がそうさせない。僕が、もう君を傷つけさせない」
「違う…!」
 更に激しく首が横に振られる。
「違う、海道ジン、あなたが…あなたこそが…!」
「約束しただろう。ユウヤ、今度こそ君を自由にする。あの実験からだけじゃない、僕からも…」
「何も…!」
 涙に詰まる声でユウヤが静かに叫んだ。
「もう何も、僕は、思い出したくない。僕は、もう、何も、いらない。いらない。いらない…!」
「やめろ、ユウヤ……っ」
 急にユウヤの手が伸びた。不意をつかれたジンは押し倒されるように湖畔に尻餅をついた。ユウヤの身体がのしかかる。冷たい手がジンの首を掴んだ。
 恐怖。
 灰原ユウヤは暴走した。何もかもを壊そうとした。
 恐怖。
 サイコスキャニングモードの実験はあれから六年間もずっと続けられてきたのだ。
 恐怖がある。
 暴走するユウヤを止めようとジャッジを破壊したのは自分。
 今、サイコスキャニングモードの実験を行っているのは自分。
 ユウヤはジンを拒絶し続けている。
 触るな。名前を呼ぶな。
 心が重い。
 あなたのせいで…!
 突き飛ばすとユウヤの身体は簡単に離れ、安定を失って湖の中に倒れた。水音が響き、浅瀬に尻餅をついたユウヤがずぶ濡れになってジンを見上げていた。ジンはさっきまでユウヤに絞められていた喉を摩りながら、息を引き攣らせユウヤを見下ろしていた。
「…ジン…」
 人形のような無表情でユウヤが呼ぶ。
「あなたが壊してくれ」
「なに、を…」
「全部」
 跪き、ジンはユウヤに向かって手を伸ばす。その手を掴み、ユウヤは自分の首へ導く。
「僕の、全部」
 悲鳴のような息を飲んだジンが怯み手を引こうとすると、今度はユウヤがジンの手を強く掴んだ。
 ユウヤは今、何と言った。
 何をして欲しいと…。
 頭が真っ白に染まった。また大きな水音がした。ユウヤの身体が大きく傾き、顔が伏せられていた。ジンは信じられない思いで自分の拳を見つめた。
 ――殴った…? 僕が…?
 ユウヤの顔がわずかに持ち上がる。頬が腫れている。
 ――ユウヤを……、
 鼻から血が一筋流れる。腫れた頬。非対称に歪んだ顔が。
 笑う。
 それからどうしたのか。無我夢中のことでジンもよく覚えていない。ユウヤを引っ張って別荘に戻ろうとしたが、またひどく抵抗された。何とか担ぎ上げ坂を上る間に腹や背中を蹴られたり殴られたりした。
 二階まで上る余裕はなかった。リビングのソファにほとんど寝技のような格好でユウヤを押さえつけ、ユウヤが大人しくなるまでそうしていた。血の匂いがした。ユウヤの鼻血だけではなかった。口の中が切れて血の味の唾をジンは飲み込んだ。
 力を抜くことはできなかったが、それでも疲労と眠気が肉体を襲った。手の力がゆるみ、しまった、と思ったが抵抗にはあわなかった。ユウヤの呼吸が聞こえた。寝息だろうか。今度こそ眠っているのだろうか。
 確認することもできず、ユウヤの上に覆い被さるようにジンも倒れ、意識を手放した。