10代編 4







 パワースラッシュの光がエンペラーM2を、自分の身体さえも巻き込む。
 そんな夢を見た。
 寝入ってから二時間ほどしか経っていなかった。精神的な疲労をジンは感じた。腹の中に鉛でも飲んだかのように重い。それなのに肉体はまだバトルの余韻が消えず、カッカと熱を持っている。
 久しぶりのバトル。セーブしなければならないのは分かっていた。同時に手加減をすることなどできなかった。ジオラマの向こう、白く染まった髪を揺らめかせる灰原ユウヤ。紅い瞳がジンを見た。LBXの戦う小さな箱庭ではなく、ジンを見つめた。
 サイコスキャニングモードを、ユウヤは完璧に使いこなしているように見えた。お互い必殺ファンクションは一度きりの使用と縛りを加えていたが、それがなくてもユウヤは勝っていただろう。パワースラッシュを使ったのは、迫りくるインパクトカイザーを相殺するため。実際に勝敗を分けたのは、狙いすました駆動系への攻撃だ。
 だから夢の中の光景は記憶と妄想によるものだと、ジンには分かっていた。ユウヤが必殺ファンクションを使った瞬間、暴走の記憶が頭を掠めた。それは一瞬のことだったが、記憶の一部始終は怒涛のように蘇えり、ジンの脳裏に焼き付いた。濃密な一瞬の中で、ジンは暴走するジャッジを、絶叫するユウヤを見ていた。目の前に現実のジャッジと、十九歳になったユウヤを見据えながら。
 ――恐怖はある。
 ジンは認めた。結局、必殺ファンクションを放った後の隙をつかれ、ジンとエンペラーは敗北したのだ。
 バトルが終わりサイコスキャニングモードが解除されると、ユウヤの髪の色が黒く戻り、重力に従って落ちる。目から紅い光が失われ、残ったのは暗い穴のような虚ろな瞳。そこには勝利の喜びも、バトルの興奮もない。ユウヤはジャッジに心を奪われたまま帰れなくなったかのように放心していた。
 バイタルチェックの後送られてきた報告は、心拍の上昇と脳波のわずかな揺れ。通常のLBXバトルでかかるストレスの範囲内であり異常ではない。医師の個人的な心象を聞くと、いつも以上にぼうっとしている感ではあった、と言う。
「いつものハイバラは心を閉ざしている印象ですが、今日はまさに心ここにあらずという感じですね」
 ジンはベッドから起き上がった。仮眠室のベッドはわずかに軋んだ。カーテンに閉ざされた闇の中でも白いシーツが足元でくしゃくしゃに丸められているのが見えた。
 暗い廊下を歩くうち、足はプールへと向かった。自然に、というほど通いなれた通路ではない。ユウヤが最もリラックスするという場所だから、それを見たくなった。ロッカールームで着替える。空調も切れているから、夜気は冷たくジンの身体を包んだ。
 真夜中を過ぎたプールは勿論無人で、壁の四隅に青い非常灯が光る。もう反対側の壁は日光を取り入れるため、一面がガラスに覆われていた。今見えるのは月のない夜空と、街の中心にわずかに灯った電光看板だけ。水面は暗く、静かに波を立てていた。
 身体をほぐしながら、それだけでジンは安堵を感じ始める。プールサイドに立つと冷気はなりをひそめ、かわりに優しく身体を包み込む水の匂い。足先から浸った水は思ったより冷たかったものの、一度全身を沈めてしまうと心地よい。彼は一度潜水し、そのまま息の続く限り泳いだ。
 顔を上げたのはプールの中ほどだ。ジンは軽く水底を蹴って足を浮かせた。脱力した足がゆるゆると水面近くまで浮いてくる。全身の力を抜くと闇に慣れた瞳に天井が青く映った。瞼を閉じると天と地の区別もつかなくなった。自分が水に浮いているのか、宙に浮いているのか分からなくなるほどに。
 どれだけそうしていただろうか。時間の感覚さえない。ただ耳元で囁くようだった波音が急にざぶりと大きく揺れた。
「誰だ!」
 叫ぶ間に瞼は開き、足が次の行動をとるべく水底についている。
 ガラスの壁面を背に細い人影は今しもプールから出ようとしていた。水のしたたり落ちる音がする。長い髪を伝って水が。
「…ユウヤか」
 一気に棘の抜けた声でジンは呼んだ。
「海道…ジン…」
 ユウヤの声。
 また水音。身体が水に沈む音だ。ジンはユウヤのもとにむかって泳いだ。ユウヤはおそらくジンが泳ぎ着くのを待っていた。プールから上がるでなく、また水に身体を任せるでなく、ジンが泳いでくるのを見ていた。
「ユウヤ…」
 ジンはわずかに切れる息で呼んだ。
「いつも、来ているのか」
 ユウヤは首を横に振る。
「今日だけです。…勝手なことをしました。すみません」
「謝ることはない…」
 闇は青く薄まる。その中にユウヤの俯いた顔が見える。目はジンを見ず、軽く伏せられていた。
 そんなことはない、とジンは繰り返していた。
「疲れていたんだろう…?」
「…疲れた」
 感想ではなく、自問するようにユウヤは呟いた。
「あなたと戦ったから、疲れた」
「僕も、あんなバトルは久しぶりだった…」
「あなたと戦ったから」
 繰り返された言葉にジンは冷たいものを感じる。いつの間にかユウヤが上目使いに自分を見ている。
 視線がいびつに交わりあった。突き刺さるのはユウヤの視線で、ジンはそれを受け止めようとするものの破られ、破られてはユウヤを見る。
 親鳥のような目。
 そんな目を?
 ユウヤ、と思わず伸ばした手は軽く払われた。
「僕に、触るな」
「ユウヤ…」
「触らないでください、海道ジン」
「君は…」
「あなたといると、疲れる」
 声が出なかった。ユウヤの目は恨みのような色さえ滲ませてジンを見据え、貫き続けていた。
「何故、僕に触ろうとするんですか」
 顔が非対称に歪む。痙攣するように細められた片目がそれでもジンを睨もうと抗う。
「あなたが触るから重くなる」
「重、く…?」
「僕はジャッジの部品だ。僕の身体はCCMスーツのための道具、僕の心はジャッジのものだ」
「心…」
「あなたが触る。あなたが呼ぶ。心がこの肉体に引き摺り戻される。重いんだ。息苦しいんだ。僕に感情なんていらない。僕はもう嫌だ、僕は…」
 再びジンが手を伸ばそうとすると、ユウヤはそれを払おうとした。しかし彼の手の動きは人間の身体を動かすためのものではなかった。まっすぐジンに向かって伸ばされた手、それはLBXを、ジャッジを操るための動作だった。
 まっすぐに伸ばされた手をジンは掴んだ。
「やめろ…!」
 ジンが掴んだ瞬間、ユウヤの身体は電気でも走ったかのように震えた。水面がざわついた。水の匂いが消し飛び、冷たい夜気が肌を刺した。
「ユウヤ」
「手を…離せ…!」
 喘ぐようにユウヤが叫んだが、ジンはひるまない。
「ユウヤ」
「嫌だ…もう何も思い出したくない……」
 抗う力が緩んだ。ユウヤは項垂れ、大きく肩を上下させた。ぽつり、ぽつり、と水滴の落ちる音が小さく響いた。ユウヤの涙が暗いプールに落ちる。
「ユウヤ…」
 ジンはゆっくりと、握りしめていた手の力を抜いた。
「もう君につらい思いはさせない。僕が君を自由にする。約束する」
「何もいらない…何も…」
「僕は君に君の人生を返す。それが僕の…海道義光の孫である僕の、海道ジンの責任だ」
 信じてくれ、とジンはユウヤの顔を覗き込んだ。
「必ず君を自由にする」
「…僕には…ジャッジが…」
「君はLBXの部品じゃない。一人の人間だ。君の心は生きている、そうだろう。君自身が言ったんだ。君の言葉が君自身の心を認めたんだ」
「やめて……」
 ジンは両手でユウヤの力ない拳を包んだ。
「僕を信じてくれ、ユウヤ」
 その後、仮眠室に送り届けるまでユウヤは一言も口をきかなかった。眠るところを見届けないと心配だったが、ユウヤは部屋に鍵をかけてしまった。その代わり、ドアを閉める前に言った。
「大丈夫です、海道社長」
 廊下の夜間照明に照らされて、いつもの暗く虚ろな目がジンを見た。
「逃げはしません」
 逃げない代わりにLBXの殻の中に閉じ籠ろうというのか。ジンの心臓の裏側を熱い何かが撫でた。それは何か新しい行いをしようとする時に流れる熱い血だった。
 ――眠れない。
 白いベッドの上でジンは瞼を閉じた。掌や瞼の裏にユウヤの気配が消えず残っていた。
 ――冷たい手だった…。
 しかし、心はあった。

 バカンスを取る、と会議の席で発表したのは翌日のことだった。北部では雪の便りも聞こえてくるこの季節、その言葉は明るく陽気に過ぎるようであり、また海道ジンの口から発せられるものとしても不釣り合いな感があった。しかしジンははっきりと口にした。
「バカンスだ」
 それは研究チーム全員へ出された休暇だった。海道ジンも、エンペラー社の社員たちも、日本の研究員たちも、そして灰原ユウヤも、だ。
 秘書が前々から準備していた書類、保養地の案内書などを配布する。最初は沸き立っていた会議室だが、休暇の間はジンがユウヤの世話を見ると――「私の別荘に招待する」と、ホストにしては尊大な口調で――言うとニヤリとしたのは社員たちで、今度は日本の研究者たちが渋面を作った。
「海道社長お一人でいかがですか」
 黒木が引き攣った笑顔を浮かべる。
「これは決定事項だ」
 ジンはとりつくしまもない様子を敢えて装い、冷たく言い放った。
「郷に入っては郷に従ってもらう。休暇を取らせるのは国の法律で定められた雇用者たる私の義務だ。灰原ユウヤも、君たちも例外ではない。渡欧して一ヶ月以上になろうというのに君たちは休みも取らず実によく働いてくれた。私なりにねぎらいと感謝を示しているつもりだが」
「開発に遅れが出ることは確実です。十日間もの休みなんて」
「文句があるなら法律を作った政府に投書してくれ。メールでも構わん」
「日本にも報告させてもらいます」
「私からもそうするつもりだ。法を遵守した上での正当な休暇だと」
 黒木と目黒が顔を見合わせて苦々しく笑う。ジンはその後ろに座るユウヤに向けて、社長らしい声音を崩さず言った。
「灰原ユウヤ、君のサイコスキャニングモードは心身ともに著しい負担のかかるテストだということが判明した。私はサイコスキャニング技術の完成を任された責任者だからこそ、被験者である君が万全のコンディションであるよう努めなければならない。よって法に基づき、君に十日間の休暇を命じる。質問は」
「…ありません」
「休暇の間は私が世話人となる。これも異存ないな」
 これからバカンスとは思えない命令口調だったが、逆らうだけの心の動きを起こすのも諦めたのか、ユウヤは頷くだけだった。
 会議を終えた後は、バカンスに出かけるまで済ませておかなければならない決裁やレポートの作成に追われた。作業は深夜まで続いた。最後のレポートを送信し、ジンはようやく社長室の明かりを落とした。
 明日にはシュトゥットガルトを起つ。一度家に戻らなければならない。エレベーターに乗り込んだジンは、しかし途中階のボタンを押した。屋内プールのある階だ。
 ジンはプールサイドに佇んだ。今夜もプールは青い闇に浸されていた。
 ぽつん、と。
 水滴の落ちる音が聞こえた。ジンは瞼を閉じてそれに耳を澄ました。ユウヤ、とは呼ばなかった。明日から相手が嫌がっても四六時中顔を突き合わせることになる。
 ――それだって最後だ。
 ジンはプールに背を向け、歩き出した。
 ――僕は君を自由にする。