10代編 3







 暗い部屋だった。靴音の反響、空気の感じから広い部屋だということは分かった。そして目の前に何かがあることも、なんとなく気配で感じられた。人間の歩みを阻む何かがある。
「つけます」
 社員の声と共に明かりが灯る。隣で軽く息を飲む音が聞こえた。ジンは軽く目を見開いた黒木を無視し、背後で表情一つ変えず佇んでいるユウヤに向かって言った。
「今日はこのテストを受けてもらう」
 サイコスキャニングモード、テスト初日。
 ジンを初めとするエンペラー社社員も、そして日本から来た研究者たちもわずかながらに緊張していた。それは目の前に広がる実験場の雰囲気にもよった。そこはいつものテストルームではない、体育館ほどの広さが取られた部屋。そして中央には仄白く光る物体。十メートル四方の巨大な箱。いや、迷路だ。壁も床も真っ白な迷路。通路の広さはLBXが通れる程度…。
「なるほど…」
 黒木が迷路に近づき、にやりと笑いながら振り向いた。
「ただ迷路を解くだけでも時間がかかりそうだ。それにこの壁は」
 爪の先で擦ると壁に青い跡が残った。
「感圧素材ですか」
「大して広くない通路だ。壁に触ってもペナルティはないが、動きの丁寧さを測るには適している」
 黒木が頷く。ジンの後ろから社員が補足した。
「今回は初日ということで、まずサイコスキャニングモードがどういうものかを見せてください。データを残すためにタイムは記録しますが時間制限や、社長もおっしゃるようにペナルティはありません。気を楽にしてください」
 最後の言葉は勿論ユウヤに向けられたものだったが、ユウヤは相変わらず聞こえているのかいないのかぼんやりと手の中のジャッジを見つめている。
「参考までに」
 黒木が言った。
「平均タイムは?」
「十分」
 ジンのそっけない返事に、また社員が付け加えた。
「正確には十分五十七秒です」
「およそ十一分か。跡を残さずパーフェクトにクリアした人はいますか?」
「私だ」
 皆が敬意の眼差しを向ける中、黒木と目黒だけは薄笑いを浮かべたままだ。
「それからもう一つ」
 ジンは再びユウヤに向き直った。
「今日のテストでは外装パーツを外してもらう」
「コアスケルトンのみで?」
 呆れたように言ったのは黒木で、ユウヤはさっそく用意されたテーブルに向かいジャッジのアーマーフレームを外しにかかる。
 黒木はジンの横にぴったりと寄り添って囁いた。
「よほど灰原ユウヤの暴走が怖いと見える。トラウマですか」
「用心に越したことはない」
「怖い、と認めるんですね」
「あの場から逃げ出した者には分かるまい」
 ジンが一睨みすると、黒木も目の奥から侮辱による怒りを一瞬覗かせたが、すぐいつもの研究者の顔に戻った。
 迷路の入り口にジャッジが置かれた。天井の明かりが弱められ、代わりに迷路の床が仄かに光る。
「準備はいいか」
 ジンが声をかけるとユウヤは一つ静かに頷いた。
 背後を振り返る。バイタルを見ていた目黒が頷き、黒木がスイッチを入れた。
『サイコスキャニングモード発動』
 電子音声が響くと同時に、ユウヤが手を大きく広げる。目の前に展開されていたARディスプレイは縦横共に広さを増し、新たなデータが幾つも浮かび上がる。そしてユウヤは。
 ジンは背筋が震えるのを感じた。ユウヤの髪がほどけ、風に煽られたかのようにふわりと広がる。その色は頭の中心から白く染まり、まるで彼自身が発光しているかのように見せた。それにARディスプレイを越しても分かる、紅い瞳。いつも暗く光のない瞳が紅く輝く。まるで別人格が乗り移ったかのように。否、この瞬間ユウヤの精神はLBXに乗り移ったのだ。
「スタート」
 ジンは迷路を振り返った。ジャッジのコアスケルトンは内部から仄かに光を放ちながら、迷路の中を迷うことなく進んでいた。
 ――まるで二対の目があるようだ。
 壁も床も真っ白で、人間の目からはその区別もつけるのが難しい迷路を、LBX自身がその目で見ているかのように正確な距離感で、そして俯瞰の視点から見下ろしているかのように淀みなく、ジャッジは歩いていた。
 ――そうだ、歩いている。
 それなのに速い。
 感圧素材に点々と残った青い足跡が幾何学模様を描く。隣で我がことのように誇らしげに黒木が笑った。ジンはただただ目の前の光景に感嘆した。ゴールまでの時間は短く感じた。事実短い。テスト初日に打ち立てられたのはクリアの最速記録だった。七分十八秒。ジンの記録を十四秒更新してのゴールだった。

「すごいですね」
 迷路が解体され、取られたデータを改めながら社員が呟いた。
「ああ」
 ジンは小さく頷く。
「すごい」
 ローラースタンプでも押したかのように綺麗に残った足跡。歩調は常に一定で淀みない。壁の圧力感知もほとんどなかった。最初に黒木の触れた部分がエラーとして記録されただけだ。つまりパーフェクト。
「思い通りにLBXが動くって、こういうことだったんだ。感激しましたよ」
 記録映像を再生しながら社員たちは子どものようにそれに見とれていた。
 テスト後、ユウヤはすぐに詳しい心身検査に赴き、今日のテストは終了となった。送られてきたカルテによると、通常のLBX操作程度の負担しかなかったそうだ。
「もう一つくらいテストできそうでしたが…」
「言っただろう、テストは段階的に行う!」
 思わず強い口調が出たジンを、社員たちがぽかんとして見つめた。
 ジンはハッとした。声を上げたことに自分自身が驚いていた。山のように吐き出されたデータの上にジンは手を置く。
「…彼に負担はかけられない」
「社長はサイコスキャニングモードによるハイバラの暴走を目の前で見たんでしたね」
 チームリーダーがなだめるように言った。
「私たちもアルテミスの記録映像で何度も見ました。確かに、あのようなことは二度と起きては…いや、起こしてはならない」
「…ありがとう」
「しかし社長も冷静さを失うことがあるとは」
「僕が…?」
「ハイバラのことをとても気遣っておられる」
 別にいつも私たちに冷たいことを責めている訳じゃありませんよ、という冗談めかした言葉に社員たちが笑った。
「確かに日本の研究員たちの態度はちょっと冷たい。それは私たちも感じていたことです。社長はまるでハイバラを見守る親鳥だ」
「親…?」
「そんな目をしていましたよ」
 ジンは黙り込み手の下のデータに目を落とした。バイタルは正常。脳波も異常なし。
「…彼は今、どこに」
「さっき屋内プールのチェックを通りましたよ」
 モニタを見ていた社員の一人が答えた。
 LBX。夢を叶える小さなロボット。それが思い通りに動くとしたら何と夢のようなことだろう。まるで自分の手足のように思ったとおり動くのだ。
 改めて冷静な状態で見せられたサイコスキャニングモードの実力にジンは舌を巻いていた。プレイヤーとしてのライバル心さえ燃えた。しかし当のユウヤにはどんな夢があるのだろう。どんな思いで、どんな思いがジャッジを動かしているのだろう。
 プールはむっとした暖かい湿気に包まれていた。水を掻く音はなく、静かな波の音が耳の底を触るだけだ。プールサイドに目黒が座っていた。ジンは黙ってそこに近づいた。
 青く見える水の中、灰原ユウヤが浮いている。四肢を脱力させ瞼を閉じ、ただ水の上に浮いていた。呼吸のたび、ユウヤを中心に静かな波が立った。
 ――眠っているかのようだ。
「寝てはいませんよ」
 水面のユウヤに視線を落としたまま目黒が言った。
「しかし灰原ユウヤはベッドで睡眠をとるよりも水の中の方が安定を取り戻します。日本では専らフロートカプセルに入っていました。ここにはないので、プールで代用です」
「いつも来ているのか」
「毎日来てますよ。気づかなかったんですか?」
 社長さんはお忙しいですねえ、と目黒は言った。
「ユウヤ」
 ジンが呼ぶ。
「答えない」
 目黒が言った。
 しかしユウヤの瞼は静かに開き、プールサイドに佇むジンを見た。
 黒く、光のない瞳。水の中に広がった髪も今は元の黒さを取り戻している。
 不意に、ユウヤの顔が沈んだ。視線は最後までジンを見たまま、しかしとぷんと水の中に潜ってしまった。
 潜水をする姿が遠ざかる。五メートルほど離れてようやくユウヤは浮上し、静かに波を掻き分けて泳ぎ始めた。
 目黒が鼻から息を吐き出した。釈然としない、とでも言うような息だった。プールの端まで泳ぎ着いたユウヤはまた仰向けになり浮かんでいるようだった。ジンの懐でCCMが震えた。チームリーダーからの連絡だった。
「また、明日」
 ジンは一言、言い残しプールサイドを去った。勿論目黒にかけた言葉ではないことを、目黒自身も分かっていた。だから彼も黙って、ジンを見送りもしなかった。

 サイコスキャニングモードのテストは順調に行われた。迷路は平面から立体へ。ただの壁からビル内部、街、密林を想定したものへバリエーションを広げた。ユウヤの成績は相変わらず素晴らしい。特にジャンプ移動をしないという条件下での動きの精密さ、記録タイムはほとんどジンのレコードを塗り替えてしまった。
 更に今日の耐久テストでは二時間LBXを操作し続けた。
「次はいよいよ戦闘テストですね」
 黒木の声を背中で聞きながらジンは先ほどまでのテストを要所要所で停めてはスロー再生していた。
「まだ本人の状態を見極めなければ…」
 今頃ユウヤはプールにいるはずだ。目黒に監視されながら水の上に浮いているだろう。瞼を閉じ、四肢を投げ出し、短い休息をとっている。
 黒木が、まだまだいけましたよ今日のテスト、と言った。
「日本で行った戦闘状態での耐久は最高二時間でした」
「二時間も…?」
「こういうタイプのテストなら更に長時間の記録が可能でしょうね」
「その後はどうなった」
「はい?」
 ジンは厳しい目で黒木を振り返った。
「二時間の戦闘状態に耐えた後の灰原ユウヤの状態は」
「疲れてるみたいでしたよ」
 もう言葉を返す気にもなれずジンはモニタに向き直る。
 ジャッジはアーマーフレームをつけた本来の姿で廃墟の迷路を歩いていた。敵は想定していないが、ルート上には様々な障害物を設定している。その排除ができるように武器の装備も許可していた。
 ジンは映像を巻き戻し、もう一度再生する。ジャッジが剣を地面に突き刺す。そしてルートを塞いでいる車の模型を押し退け、道を空けた。
 確かに今日もジャンプ移動の禁止を課題の一つにしていた。しかし走ることは許可している。ジンならば武器を使って障害を排除していただろう。気づくと黒木も黙り込んで、ジンの肩越しにモニタを見つめていた。
「この傾向はいつからだ」
「何がですか」
「テスト中、ほとんど武器を用いていない」
「さあ…」
 黒木は肩を竦めた。
「日本では戦闘テストが主でしたから」
 さもありなん。
 別のシーンをジンは再生する。崩れた壁を目の前に、ユウヤはジャッジソードを振り下ろす。砕けた瓦礫も剣圧に吹き飛ばされ、大きく道が拓けた。
 ――武器を用いることを怖がっている訳ではない。
 冷静な判断の下、武器は使われている。
 武器を使う場、使わない場。物を破壊する場、破壊しない場。判断をするのは。LBXを操っているのは。
 ――ユウヤの心だ。
 ジンは立ち上がるとプールに向かって走り出した。プールサイドにはやはり目黒がいたが追い出し、ユウヤに呼びかける。
「ユウヤ」
 ユウヤは目を明けない。しかしジンは呼びかけ続けた。
「ユウヤ、君には心があるんだろう。感情があるんだろう」
 静かに瞼が開く。そして濁ったような暗い瞳がジンを見上げた。
「君は…」
「僕の心はジャッジのものだ」
 ユウヤは呟いた。
 たった一つの真実を述べるような、短いくせに重たく転がる呟きだった。
「いいや」
 ジンは噛みしめるように言う。
「君の心だ」
「僕の心はジャッジの部品だ」
「違う。君の心が、感情がジャッジを動かしている」
「感情…」
 ユウヤの身体はまたいつかのように水の中に沈み込む。ざばりと乱暴な音がして、プールサイドにユウヤが手をかけた。彼はプールから出ると、黙ってジンの隣を通り過ぎた。
「ユウヤ」
 肩を掴む。すると立ち止まるものの、拒む気配がしっかりと伝わってきた。濡れた髪の向こうからユウヤが暗く見つめている。
「感情なんかいらない」
 冷たい手が肩からジンの手を振り払う。
「そんな重い服は、いらない」
 ロッカールームに消えたユウヤを、ジンは追いかけることができなかった。プールサイドに佇んでいると、ガラスドアの向こうから目黒がじっと見ているのに気づいた。
「クソッ」
 彼はらしくなく小さな悪態をつき、プールを飛び出した。

 社長室に戻ったジンはじっとモニタを見つめていた。モニタには決裁待ちの電子書類がいくつもウィンドウを開いていた。しかし彼はそれらを全て押し退け、カレンダーを起ち上げた。そこには様々なスケジュールが書き込まれていた。勿論、CCMスーツとサイコスキャニングモードに関する実験の予定も。
 ユウヤがドイツにやって来て一ヶ月が経とうとしている…。
 ジンはインターフォンで秘書を呼び出した。窓の向こうでは夕陽を浴びて、黄色く染まった丘陵のブドウの葉がそろそろ落ちようとしていた。