エピローグ







 バン君、君は魂があると思うか。
 君は永遠があると信じるだろうか。

          *

 ストックホルムから高速鉄道で数時間、到着したイェーテボリ中央駅は数百年前から建つ古い建物で、石造りのホームに降り立った山野バンは一瞬身震いした。北欧は相当寒いと出立前にカズが散々脅したが、覚悟したほどではない。三月の終わり…、トキオシティの真冬くらいの寒さだ。
「次はタクシー? バス? オレ、トラムに乗りたい!」
 少年の声がホームに響き渡る。列車から降りたばかりの乗客ははしゃいだ声、しかも耳慣れない日本語にいっせいに振り向いたが、声の主はもう改札に向かって走り出していた。
「迅!」
 呼び止めようとするが止まらない。
「迅、ちゃんと切符は持ってるのか?」
 大声で尋ねると、空っぽの手が振られる。
「蓮?」
 バンは隣の大柄な男に尋ねる。男はファーのついたコートの肩を竦め、苦笑した。
「座席についた時に俺が預かった」
「まったく…はしゃぎすぎだよ」
「仕方ない。俺たちが三人一緒に家族旅行をするなんて初めてなんだ。しかも父さんの永遠のライバル、自分の名前の由来になった天才LBXプレイヤーの足跡を尋ねるとあれば、仕方ないだろう?」
 オレもはしゃぎたいくらいだ、と蓮と呼ばれた男は言った。
 バンは溜息をついて肩をすくめた。
「お前たちがはしゃぐから、オレがはしゃげない」
 迅は改札で止められたらしく、早く来るようにとこちらに向かって手を振っている。
「やれやれ」
 蓮が自分の荷物と息子の荷物、そして父親の荷物を担いで歩き出す。
 バンも歩き出したが不意に立ち止まり、手の中の手紙をじっと見つめた。封筒の裏に書かれた住所。
 イェーテボリ。
 スウェーデン。
 差出人が最後まで暮らした場所。そして人生を終えた場所。
「やっと来たよ、ジン」
 バンは呟き、再び歩き出した。

 世界的LBXプレイヤーとして名前を轟かせた山野バン。その活躍はLBXバトルの場だけに留まらず、安全会議、倫理委員会、LBXを巡る問題が起き、また新たな技術が開発されるたびにメディアに登場し続けた。
 彼が訴え続けたのはただ一つ、LBXは皆に夢を与える存在であるということ。
 LBXを巡ってはサイコスキャニング技術を初め、様々な問題や論争が起きたが、そのたびにバンはプレイヤー、開発者、当事者たちと直接向かい合い問題を解決してきた。多忙な生活の中で人生のパートナーを見つけ、蓮という息子をもうけ、今は孫さえいる。
 七十を越えたこの齢になってようやく社会的にも、バンの周囲も落ち着きを見せ始めた。LBXに人生を懸けてきたことに悔いはない。しかし一つだけ、胸に残って消えないしこりが一つ。およそ六十年前、当時十九歳だった海道ジンの失踪だ。ジンのことを、バンは諦めなかった。どれだけの時が経っても、彼がいないと諦めることができなかった。
 ジンはこの世のどこかにいる。
 いつかきっと帰ってくる。
 そのバンの下へ一通のエアメイルが届いた。送り主はイェーテボリの法律事務所。分厚い封筒に入れられていたのは一通の手紙、そして海道ジンと灰原ユウヤの住民票、死亡診断書の写しだ。
 灰原ユウヤ。二一〇九年、七十二歳。
 海道ジン。二一一四年、七十七歳。
 それを手にしたバンの手は震えた。死の知らせより、先の冬までジンは生きていたことが、自分の直感は正しかったのだということが嬉しかった。
 ジンは消えたのではない、この地球上に確かに生きていた
 手紙と書類が送られたのはジンの遺言に基づくものだと記載されていた。そしてバンは、スウェーデンに発つことを決めたのだ。彼の親友がどんな人生を送ったのか、何を思い考えていたのかを知るために。
 蓮と迅は半ば無理矢理一緒についてきたようなものだったが、バンは嫌ではなかった。これまでもジンのことは語り続けてきた。短い時間だが、彼らの間にはたくさんの思い出があり、バンは何度も何度も繰り返しそれを語った。彼の息子と孫は、飽きることなくそれを聞いてくれた。そして今、十四時間のフライトと鉄道の旅を終え、イェーテボリの街を歩いている。

 夕方の淡い光が街を染めていた。三人はトラムに乗り街の北部へ向かった。
「先にホテルにチェックインしないか」
 蓮は提案したが、バンも迅も早速、海道ジンの家に向かうつもりだ。
「もう一秒だって待ってられない」
「父さん、慌てなくても思い出は逃げない」
「お父さんは師匠の気持ちが分からないのか?」
 迅はバンのことを師匠と呼ぶ。勿論、LBXの師匠だ。
 蓮は溜息をついた。
「そうは言っても住所がどこなのかも分からないだろう」
「アミが調べてくれた。次の停留所で降りて、運河沿いの道をタクシーで行くぞ」
「師匠がぬかると思うかい、お父さん」
 結局、蓮は三人分の荷物を担いで降参するしかない。
 タクシーは荷物一杯の日本人を三人詰め込んで、旧市街の先の閑静な住宅地へ向かった。イェータ運河は夕焼けに照らされてオレンジ色に輝いている。上流には森が一足早い夕闇に沈んでいた。タクシーは森へ向かう道から逸れて走り続けた。
 小さな家だった。狭い庭が近所の緑と一体化している。家は二階建てで、周囲のそれと同じように赤い壁に白い柱。しかし特徴的なのが増築したと思わしきガラスの温室だ。
 玄関前にはスウェーデン人の弁護士と一人の女性が待っていた。
「やれやれ、連絡済みだったのか」
「勿論」
 バンは待ちきれずにタクシーを降り、その後を迅が追いかける。蓮は帰りがあるから、と運転手に待ってもらいようやく車から降りた。
「初めまして、ミスターヤマノ」
 弁護士がバンに向かって手を差し出す。握手をすると、隣の女性が軽くお辞儀をした。
「彼女がカイドウ氏の遺言執行に立ち会うように指名された方です」
「彼の長年勤めてくれた工場で、今は工場長をしています。ジンとユウヤとは家族ぐるみの付き合いでした」
 ジンが働き始めた当時の工場長の孫娘なのだと彼女は名乗った。
 整頓された屋内を案内される。生前のままほとんど手は加えられていないということだ。
「あなたが到着するまでそのままにという、ジンの願いでした」
 台所には、今にも人が帰ってきて料理を始める前のような、少し寂しい人待ちの空気が漂っていた。バンは棚に並べられたノートを手に取る。窓の下でぱらぱらと捲ると、レシピが絵入りで書かれていた。
「これ…ジンが?」
「はい。ジンは料理がとても上手でしたから」
 リビングには幾つものダンボール。その中に詰まっていたのは手紙だった。白い封筒に書かれた宛名は全て同じもの。
「オレ宛て…」
「ジンはずっと手紙を書いていたんです」
 バンと女性はソファに座り、その幾つかを開いた。白い便箋には、日々の些細なことがジンの真摯な言葉で綴られていた。そして必ず添えられた写真。夕暮れの森。温室の光景。花の咲き乱れる浜辺…。
「この近くの海ですか…?」
「いいえ、それはエーランド島。お二人が毎年旅行に出掛けた場所で、それに……」
「父さん」
 蓮が呼ぶ。そしてそれ以上、何も言わなかった。
 呼ばれるままに顔を上げたバンは、思わず口元を覆った。溜息のような、感嘆のような呻きが口をついた。
「ああ…」
 バンはようやく震える息を吐き、蓮の差し出したものを手に取る。
 それは二体のLBXだった。
 一体は全く見たことのないデザイン。ナイトフレームに、青を基調とした外装パーツ。手にした大型武器から、おそらくジンのものに違いなかった。もう一体は、ずっと昔に生産が終了したはずのリュウビ。しかし手に取れば、それが古いものではないと分かる。既製品でさえない。パーツは一つ一つ手作りされたものだ。
「やっぱりLBXと一緒にいたんだな、ジン…」
 その時、家のどこかから大きな声で二人を呼ぶのが聞こえた。迅だ。
「あいつ、また勝手に…」
 蓮が立ち上がる。
 しかしバンはまだソファに座っていた。女性も隣に付き添う。
「二人はずっとこの家に暮らしていたのか…」
「ここに越してきたのは四十何歳かの頃だったと聞いています。ジンが工場長に就任した年ですから…。それまでは裏通りのアパートに住んでいたそうです」
「そのアパートは?」
「いいえ、区画整備が行われて、もう…」
「そうか…」
 写真は灰原ユウヤの撮ったものだと、手紙の中でジンはバンに語りかけていた。最後の五年は自分で撮ったもので、ユウヤのように上手く撮れない、と書いている。温室に咲く花、それを食べているのは…。
「これは…?」
「師匠!」
 迅が呼んでいる。女性が促し、バンも席を立った。
「もうすぐ分かりますよ」
 廊下の突き当たりから、燦々と描写されるような光が漏れている。眩しいそこへ足を踏み込み、バンは目を細めた。
 そこは花の咲き乱れる温室だった。主を失った温室は好き勝手に繁茂し、野生の森のようだった。どこからか水音がする。片隅に弁護士、そして迅と蓮がしゃがみこんでいた。
「師匠」
 迅が手招きをする。蓮は立ち上がり、親指で指し示した。
「バン君、らしい」
「バン…君…」
 背中を押され、近寄る。
 緑の生い茂る陰に、大きなものが蹲っていた。茶色の甲羅は五十センチ以上はある。カメは冬眠でもするかのようにじっと手足を縮め、引っ込めた首から視線だけでこちらを窺っていた。
「オレの名前じゃないか…」
 バンはしゃがみこみ、大きなカメの甲羅を撫でた。するとカメはゆっくり首を伸ばし、軽く振ってバンの腕に触れさせた。つぶらな瞳が挨拶をするようにまばたきする。
「師匠…」
 小声で迅が呼んだ。
「このカメ、連れて帰ったら、駄目ですか?」

 手紙の詰まったダンボールを全てホテルに運び、バンは夜が更けるまでそれに読み入った。リクガメのバンは街中の動物病院に預けてある。迅はカメと離れるのが不安そうだったが、CCMにその写真を撮って日本に送ることで少し満足したらしかった。
「世界的有名人の山野バンの頼みとあれば、通るでしょう」
 向かいのソファに腰掛けた蓮が言う。
「迅が我が儘を言うことは珍しいんですよ」
「知ってる…」
「ここに来て急に明るくなった。それまで海道ジンの真似をしようと必死でしたから」
「…………」
 バンは手紙に添えられた写真をじっと見つめた。エーランド島の浜辺。一面を満たす色とりどりの花。
「行くのか、父さん、そこへ」
「ああ」
「…じゃあ、俺は迅を連れてもう少しこの街を観光するよ。バン君を連れて帰る手続きもしなきゃいけないしな」
 蓮は立ち上がると部屋を出しなに振り向いた。
「父さん」
「何だ」
「…夜更かししないように。おやすみ」
「ああ。おやすみ」
 ドアが静かに閉じると、バンの目の前にはまたジンの綴った世界が広がった。それは温かな光に包まれた穏やかな生活だった。灰原ユウヤが淹れてくれる紅茶。二人分の朝食と弁当を作るジン。自転車に乗って街まで通勤する。夏は夏至祭りで踊り、ザリガニパーティーで腹一杯になるまで食べた。疲れ果てて眠るベッドのシーツは子どものような柄で、一番のお気に入りはムーミン一家だ。

 ――バン君、君は魂があると思うか。

 一人になってからもジンは寂しそうな素振りを見せない。いつもどおり朝食を作り、自分で紅茶を淹れる。温室の世話とカメの世話。夏は庭で食事をし、時には森の中に鹿の姿を見た。それはとても美しく、ジンは写真を撮ることもできずにそれに見惚れる。
 その夜、バンは夢を見た。森の入口に佇んでいた。運河の側にはジンとユウヤが座っていて水を飲んでいるところだった。目が覚めるとバンは何故か泣いていて、喉が渇いていた。冷蔵庫に用意された炭酸水を飲み、バンはもう一度眠りについた。今度は夢を見ない、深い眠りだった。

 エーランド島のホテルに着いたのは午後遅くで、雨が降っていた。蓮が気を利かせて数日分の滞在の予約を入れてくれていた。その日バンは古くからいるホテルの従業員にジンとユウヤの話を聞いた。毎年訪れる客は多いが、ホテルマンはその中でも二人のことをよく覚えていた。
「とても仲の良いご夫婦でしたよ」
「夫婦…?」
「ええ、おそらくそうだろうと皆思っていました」
 居心地のいいホテルだった。お茶も美味しく、バンは森に打ちつける静かな雨音に耳を澄ましながら、手紙の続きを読んで夜を過ごした。
 翌日、ホテルマン自身が車を運転して、バンを南端の浜辺まで連れて行ってくれた。雨は止んでいたが、雲はまだ去らず、空の海も灰色をしていた。所々、薄くなった雲の隙間から陽が射し、白い梯子が海に向かって下りる。
「ここが…」
 湿地を横切り、浜辺に辿り着いたバンは呟いた。
「ええ、ここにお二人の灰が撒かれたんです」
 灰原ユウヤと海道ジンの墓はない。それは二人の遺言に寄るものだった。ユウヤがそれを望み、ジンも同じことを望んだ。死んでしまったら、身体は灰に。灰はエーランド島の浜から海へ、と。
「少し…寂しい所ですね」
「まだ少し季節が早いですからね。もうすぐ一斉に花が咲きます。するとここは一面の花畑のような浜になるんですよ」
 ホテルマンは一礼をすると車に戻り、バンの視界から消えた。
 バンは灰色の海原を見つめ、じっと佇んだ。波が天使の梯子に照らされると銀色に光って砕ける。
「魂が……」
 風の中にバンは呟いた。
「あると、信じるよ」
 涙が滲んだが、それよりも湧き上がる微笑みに頬を緩ませ、バンは囁きかける。
「永遠があるって、オレも信じるよ、ジン…」
 波は打ち寄せては引き、引いては打ち寄せる。まるで心臓の鼓動のような心地良いリズムに耳を傾け、バンは灰色の海に優しく響く名を呼ぶ。

          *

 魂はあると、永遠はあると、今、僕は感じている。
 それは僕の中にある。
 僕の中で、僕と同じ呼吸を続けている。
 この瞬間、僕らの人生は永遠なんだ。