今もまた二人の朝







 工場に着いたのは午後二時だった。日射しは温かかったが煉瓦の壁の前に並んだ植木鉢の花は枯れ、黄色くなった葉が生命の終焉を迎えようとしているのを見ると、秋がやって来たのがひしひしと感じられる。着るようになった長袖よりも、セーターよりも。
 ジンはしゃがみ込み、茶色に枯れて乾いた花弁に触れた。
「お待たせしました」
 事務所から出てきたスーツの女性は、ジンを見ると隣にしゃがみ込む。
「種がついたんですよ」
「種…?」
「ほら」
 洗ったばかりなのだろう、しかし爪の間に機械油の染みが黒く残る指で女性は花を持ち上げる。若いジンが世話になった老人の孫娘であり、現工場長である彼女は出来上がったばかりのパーツ、小さなネジ一つを持ち上げるのと同じ繊細さでもって花に触れる。ジンの方に向けられた花の、枯れた花弁の奥には確かに種が四つ、ぎゅっと詰まっているのが見えた。
「持って帰りますか、ジン」
「よければ」
 ジンは懐からハンカチを取り出して種を包んだ。
 二人は並んで街の中心に向かって歩き出した。
「急がせたんじゃないか」
「いいえ。ジンの育ててくれた人材は優秀ですから、私がいなくてもしっかり仕事をしてくれます」
 ウェインズコーヒーの青い看板を指すと、じゃあ、ちょっとだけ、と彼女も頷く。
 オープンカフェの温かい日射しの下でコーヒーを飲んでいると、広場に設置された立体ビジョンではストックホルムで催されているアルテミス予選大会の様子が中継されていた。ジンは懐かしげにそれを見上げた。
 アルテミスはLBX黎明期からもう半世紀以上続く、伝統の大会だ。自分が出場したのは第三回大会。幼い頃、名前も知らぬままに別れたユウヤと再会した場だ。その再会は悲劇だったのかもしれない。しかしそこから生まれたものがいくつもある。人に夢を与え、夢を叶える存在としてのLBXを守ること、山野バンの活躍。CCMスーツとサイコスキャニング技術の進化。今も広場でバトルする子どもたちの中にも、CCMグローブを使う姿は珍しくない。
「ジン…」
 不意に、彼に呼ばれたかのような気がして振り向くと、女工場長が微笑んでいる。
「…何だ?」
「いえ、あなたがまるで親のような目で子どもたちを見ているから」
「そんな目を…していたかな」
「工場でのあなたは厳しかったけれども、一歩外に出ると…、何て言うんでしょう、プライベートのあなたは冷たい湖が穏やかに満ちているみたいです。私はその穏やかさが、いつもあなたの隣にいたユウヤのせいだと思っていたけれど…」
 彼女はほっと息をついて、涙の薄い膜を越してジンを見る。
「あなたはまるで今でもユウヤと一緒にいるかのようです、ジン」
 ジンはその言葉にゆっくり頷き、ああ、と返事をした。
「君の言うとおりのことを、僕も感じている。だから、ようやく最後の手紙が書けた」
 二人の視線が、ジンが掌を置いた懐に注がれた。そこにあるのはハンカチに包まれた花の種だけではない。さっきちらりと見えた白い封筒。
 これから法律事務所に向かう。遺言書を完成させるためだ。そこに必要な手紙を、ジンは昨夜書き上げた。山野バンに宛てた、日本にいる彼へ送る最初で最後の手紙。
 ジンは掌を上に向け、秋の陽を受ける。
「今は、万象にユウヤを感じる。何を見ても輝かしい」
「夜も、ですか?」
「夜も。眠りに落ちるまでの一瞬一瞬、最後まで」
「夢を見ますか」
「時々」
 彼女は溜息をつくと、本当は、と切り出した。
「お断りしようかと悩んだこともあったんです。あなたの遺言なんて、まだ考えたくない。それを執行する日が来るなんて、私は想像できません」
「人は誰も…」
「ええ、永遠に生きはしない。でもあなたとユウヤの姿を見ていると、まるで永遠に生きるということがあるみたい。私たちの命はこの肉体では終わらないのだと…」
 尊敬を込めておずおずと働き盛りの手が触れる。
「ジン、工場の仕事だけじゃない、あなたは私の先生です」
「ありがとう、イェーシカ」
 コーヒーのおかわりをするだけの時間はあった。何も急ぐことはなかった。
 法律事務所に着いたのは午後三時だった。約束どおりの時間だった。

 忘れねばこそ思い出さず候。
 しかしジンはふとした瞬間にユウヤを思い出す。開けた窓から冷たい空気が流れ込んで、シーツを洗濯しようと思い立つ朝。紅茶を上手く淹れることができた時。温室の扉を開けて、緑の匂いに包まれる時。自転車で買い物に出掛け、魚をかごに入れてふと振り向いた瞬間。夕食の皿を置く、全てが満たされたような時間…。
 本物のユウヤの気配が目の前に、あるいは隣に寄り添っているようで、ハッとして顔を上げる。
 今もジンはふと顔を上げて洗面台の鏡を見た。そこに映っているのは歯磨きをする自分の姿だけだったが、不意に右肩が温かいような気がした。掌を置くと、何故か安心した。
 最後の手紙を書き終えたものの、まだ綴られる時間は続いている。ジンは眠りにつく前にまた、バンへ宛てた手紙を書き始めた。
 今日、法律事務所に向かったこと。コーヒーを飲みながらユウヤとの思い出を話したこと。
「そうだ…」
 声に出して、ちょっと後ろのドアを振り返った。
 冷蔵庫の中にバスキンロビンスのアイスクリームが入っている。法律事務所の帰りに買ったものだ。話が弾んで、またいつかの思い出が蘇ったのだった。
 ある年のザリガニパーティーでアイスクリームが出された。まだ十代だった彼女のリクエストで、色とりどりのアイスクリームがテーブルに並んだ。皆それぞれ気に入ったカップを取って、ユウヤが選んだのは淡いグリーンとバニラの白が混じり合い、砕かれた赤いキャンディが光っていた。それを口に含んだユウヤは、最初はバニラの甘さに頬を緩ませていたが、急に目を見開くとジンの手をぎゅっと握った。大きな瞳はあっという間に潤んで、ユウヤはぎゅっと目を瞑る。
 炭酸入りのキャンディが口の中で弾けるのが、初めての体験だったのだ。思わぬ食感にユウヤは泣きそうになりながらジンの手を握りしめて離さなかった。ようやくアイスクリームを飲み込むと、涙の滲んだ瞳で笑った。あの時と同じアイスクリームが冷蔵庫の中に入っている。
 あの時、ユウヤは五十歳を過ぎていたはずなのに、まるで子どものような目でジンを見上げた。あれがパーティーの会場でなければ、きっと抱きしめていたはずだ。
 気がつけばペンが止まっている。ジンはカルマルで買った土産物のガラスの文鎮を書きかけの手紙の上に置き、明かりを落とした。
 ベッドに横になる。今日は花の柄だった。目を閉じると温室の植物が息をするのが、リクガメのバンの寝息が聞こえる気がした。それが家の背後に広がる緑の、その先の森の静けさに徐々に包み込まれる。
 ――湖の……
 いや。
 ジンはまどろみの中でその匂いをかぐ。
 ――水の匂いだ。
 天と地の区別も、自分がベッドに横たわっているのか、水の中に浮いているのかも分からなくなる。
 自分が眠っているのか、目覚めているのか。
 これから眠るのだろうか。
 夢を見ているのだろうか。
 ――分からない。
「ジン」
 呼ぶ声に淡く瞼を開いた。明かりの落ちたプールの中、水が青白く光っている。
 真夜中のプール。ジンは安心しきって、水に身体を委ねている。
「ユウヤ…」
 すぐ傍らまで泳いできたのだろうユウヤに手を伸ばす。肩の傷に触れると、ひんやりとした白い手が重ねられた。
「気持ちがいいな、ここは…」
「うん」
「このまま眠ってしまいそうだ」
「大丈夫だよ」
 耳元でユウヤが囁く。
「僕が起こしてあげる」
 二人は指を絡ませ、手を繋ぐ。
「君をひとりにしない」
 ユウヤが言う。ジンは頷く。
「目が覚めた時は、僕が一緒にいるよ」
「ありがとう、ユウヤ」
 次の呼吸の瞬間には眠りに落ちている。しかし恐ろしくはなかった。ユウヤの腕に抱かれる。ユウヤを腕に抱く。波に揺られる。涙の落ちる音はしない。ただ静かな波音だけが、ゆりかごのように魂を優しく揺らす。

 すっきりとした目覚めだった。
 窓を開けて空気を入れ換える。階下に下りて、習慣的にテレビのスイッチを入れる。そのまま玄関まで出て新聞を取った。外は朝日が差したばかりで、隣の屋根や森、ガラスの温室がキラキラと光っている。
 屋内に戻ると、天気予報が今日は快晴だと告げていた。シーツを洗濯して干そうと決める。気温も昨日より上がるらしいが、温室の窓を開けるにはもう寒い。
 もうすぐ冬になる。
 新聞をキッチンテーブルの上に置いて、湯を沸かす。紅茶の茶葉はティースプーンに二杯と少し。冷蔵庫に貼られたメモのとおり、ジンはお茶を淹れる。
 今日の予定は、洗濯と、昨日もらった花の種を植えて、それから自転車に乗って自分とバンの食事の買い物。そうだ新しいワインも買おう。おやつは冷蔵庫の中のアイスクリーム。
 コンロの火を落とし、ポットに湯を注ぐ。そして時計を見上げ、じっくり待つ。
 カップは二つ。
 新聞の上に一つ。そしてもう一つを、
「おはよう」
 いつもの挨拶と共に、向かいの席に。
 窓から射す朝日の中で、紅茶の湯気は応えるように笑う。