二人の四季と長い午後







「あ……」
 とユウヤが呟いた。
 ブレーキの音を立て、急に自転車が止まる。
「どうした」
「うん」
 ユウヤは自転車を降りて俯いた。ジンも荷台から降りると、ユウヤの顔を覗き込んだ。不安げな瞳がジンを見上げた。
 二一〇五年、冬が近づいていた。
 緯度の高いスウェーデンの冬は、昼間でもほとんど陽が射すことはなくぼんやりと薄暗い。まだ明けきれない灰色の空の下、ユウヤはジンを工場に送っていく最中だった。
 郵便配達夫の仕事は定年の後も乞われて数年続けていた。肉体的、体力的な意味ではユウヤは頑健で、細身の体に皺も少なく長い髪が黒々としているのを見ると、誰も彼が六十の坂を越えたとは考えない。むしろ老け込んだのは自分だと、ジンは毎朝鏡で白髪の増えた自分の姿を見て思う。
 その仕事を辞めたのは郵便局に勤める最年長の人間が自分になってしまったからで、その扱いが彼の身には合わなかったらしく。
「僕はただの郵便屋さんだから」
 そう言って辞めてしまった。
 住宅ローンも払い終え、福祉制度には定評のあるこの国で六十も半ばを過ぎれば悠悠自適の生活を過ごすのが常だ。しかし、ジンはいまだもう少しと町工場に勤め続けている。それはどうしてもLBXと関わっていたいからだった。仕事はジンの楽しみになっていた。
 郵便配達を辞めたユウヤは毎朝、毎夕、今までと変わらずジンをいつもの交差点まで送り、また自転車で迎えにきた。界隈のいつもの朝の光景。今日もいつもと同じ、朝だった。
 暗い灰色の空の下でも分かるほどユウヤの顔色は血の気が引いて、急に身体から力が抜けたようだった。ハンドルを掴んだまま、自転車を支えに立っている。
 ――救急車を、
 そうジンはCCMを取り出したが、ボタンを押すことができなかった。
 さっきまで全く変わらない朝の光景だった。ムーミン一家の柄のシーツに包まれて迎えた目覚めも、サニーサイドアップの朝食も、ジャムも、紅茶の味も。自転車の車輪が回る音さえ、ついさっきまで変わらなかったのに。
 ――そうだ、まさか、そんなはずは…、
 しかし急に襲い掛かってきた不安に、ジンの手は震えた。西原誠司が逝ったのもこのくらいの齢だった。あの時も早すぎると皆は言ったのだ。
「ユウヤ…」
 狼狽えた自分の声にジンはまた動揺した。するとユウヤはかすかに微笑んで、大丈夫、と囁いた。
「救急車は必要ないよ」
「しかし…」
「自転車を漕げない、だけ」
 その手がジンの腕を掴み、おそらく無理をしているのだろう笑顔を浮かべてユウヤは言った。
「お願いをしてもいいかな」
 ジンが自転車を運転し家に戻るまでの間、荷台に乗ったユウヤの両手はしっかりと腰に回されていた。手にこもった力が強くないことはジンを不安にさせたが、それでも絶対に離れないというユウヤの囁きのような意志が腕からは伝わってきて、ジンは必死で自転車を漕ぎ続けた。せいぜい半分ほどの道のりなのに、まるで永遠のように感じる道のり。アパートの犇めく通りを抜けて運河沿いに遡り、明かりの灯った温室が見えた時、ジンは危うく脱力しかけたが歯を食いしばって漕ぎ続けた。
「もう少しだ」
 背中で頷く気配がした。
 吐息の浅さに焦りが募るが、二階の寝室へ向かい一歩一歩階段を上る。腰を下ろした時は二人とも溜息をついた。ベッドに横になったユウヤは水が飲みたいと言った。儚げなその一言が恐ろしく震える手でジンの汲んできた水を一口飲むと、ふと表情が和らぐ。そのまま眠ってしまった。
 ジンはしばらくベッドの脇に佇み、ユウヤを見守り続けた。それは遠い、懐かしい光景だった。ユウヤが果たして目を覚ますかどうか分からないまま、病院に通い続けた十三の歳…。あの時は目を覚ますのを見届けないまま日本を離れてしまった。心を分け合う唯一の存在を、それと知らずに手放し、更に六年間の別れと、ユウヤには苦痛を与えてしまったのだ。
「もう一人にしない」
 屈みこむと囁きかけ、その耳元に唇を押し当てる。
「約束だ、ユウヤ」
 ジンは工場に電話をかけ、今日、もしかすると数日休むことを伝えた。先ごろ代替わりした若い社長と、長年組んできた先の社長の二人が電話に出て、理由を聞くとゆっくり休んで構わないと言った。
 それから病院に電話をかけた。医者は午前のうちには往診に駆けつけてくれた。
「ただ眠っているだけですよ。脈も落ち着いているし…」
 拍子抜けしたジンは椅子から落ちそうになりつつ、まだ疑いを捨てなかった。しかしどこを調べても特に異常は見られないという。
「もうお歳だし、体力が落ちているのかもしれませんね。特に冬は体調を崩す方が多い。光は浴びていますか?」
「温室が…」
「ああ、表の。それでも足りないようだったら冬季治療専門の科もありますからね。必要であれば言ってください、紹介状を書きます」
 一応、と栄養剤が注射される。
 帰る医師を玄関まで見送ったジンは溜息をついて、自分も台所で水を飲んだ。濡れた手で目を覆う。
 ――世界が終わるかと思った…。
 部屋に戻るとユウヤはムーミン一家のシーツに包まれて穏やかな寝息を立てている。ジンは枕元に椅子を持ってきて腰を下ろし、落ち着いた気持ちでユウヤを見守った。
 時計だけが時を刻んだ。窓の外は仄明るい灰色の空から、また暗い灰色の空へと沈んでいった。ユウヤが目を覚ましたのは夕方近くで、目覚めの表情も、それを見て安堵の息を吐くジンの表情もテーブルランプの淡い光に照らされていた。
「…心配、かけちゃったね」
「大丈夫か」
「うん」
 伸ばされたジンの手をユウヤは掴み、ホッと息を吐いた。
「大丈夫だよ」
「本当に…?」
 するとユウヤはジンの手を導いて、自分の心臓の上に触れさせる。
「分かる?」
「……ああ」
「僕の身体を世界で一番知ってるのはジン君だからね」
 ユウヤの普段の鼓動はジンよりもわずかに速い。それが今はほとんど同じくらいのリズムで鼓動を刻んでいた。
 そういうことだった。そういうことなのだった。ジンは頷いて、分かる、と言い、それが嬉しいのか悲しいのか分からないまま俯いた。
「泣かないで…」
 ユウヤの指が目元を拭う。
「僕はうれしいよ」
「嬉しい…?」
「目が覚めたら君がいた」
 ユウヤの手はジンの頭を抱き寄せ、ジンはベッドに向かって身体を屈める。間近で見るその顔は疲れたようにも見えたが、心から安心しきっているのがジンには分かった。
「眠ってしまう瞬間、僕にも本当に永遠が見えた。この先、目覚めるのか眠ったままになってしまうのか分からないと思って、でも君がそばにいてくれたから眠ってもいいんだと思った。そしたらまた目が覚めて、すぐそばに君がいて……」
 僕は一人じゃなかった、とユウヤは囁いた。
「ジン」
 名前が呼ばれる。
「何だ、ユウヤ」
 ジンは掠れた声で応える。
「ね」
 ユウヤは微笑む。
「呼んだら応えてくれる、君がいる。僕はもう一人じゃないんだ…」
「約束をしただろう…」
「うん」
 ようやくジンの腹が鳴った。もう空腹だと訴えてもいい頃だろうと主張を始めたらしい。昼食のつもりだったサンドイッチをジンは食べた。ユウヤは水だけを飲んだ。
「明日は大丈夫」
 ユウヤは呟く。
「どうすればいいか、もう分かったから」
 特別製なのだという、自分の身体についてユウヤは勿論ジン以上に理解しているのだ。明日からジンを後ろに乗せて自転車を漕ぐことはできない。もうそれだけの体力はない。しかしジンが運転する後ろに掴まっていることはできるだろう。温室とリクガメのバンの世話もできる。明日の朝からは、またいつも通りの紅茶。ただし、いってらっしゃいは玄関口で。
 そのことを話し合いならが、ジンは何度も顔を歪めた。そのたびにユウヤは笑う。
「ジン君、いつから泣き虫になったのかな」
「歳を取ると涙脆くなって、困る」
「君は泣かない人だったから」
 ユウヤはジンの手を両手で包み込み、目を細めて語った。
「君はいつも強い瞳で前を見つめて、僕の手を引いてくれた。君はすごくかっこよかった。でもあの頃の僕はかっこいいっていうこともよく分かってなかったんだ…」
「ユウヤ…」
「今思い出すとね、君がすごくかっこよくって、そのことを言わずにはいられないんだよ」
 その夜は少しずつ話をした。思い出と呼ぶには寂しい、暗い景色の続いた、あの日々のことを。しかしユウヤの語り口は穏やかで、ジンの中でも褪せていたそれら風景が、一枚の絵画のように近しい景色として蘇ってくる。冷たい海。寂しい空の色。
 だが、もう懐かしかった。
 ジンは眠るユウヤの手にいつまでも握られていた。生温かい体温がユウヤの声で、大丈夫だよ、大丈夫だよ、と囁きかける。しかしジンは穏やかな寝息を聞きながら、一人でもう一度涙を流した。

 しばらくしてジンも工場を退職することに決めた。
 ユウヤは、本当にいいの?と尋ねたが、退職パーティーの後でこっそり
「もう、ずっと一緒にいられるんだね」
 とくすぐったくなる声で言った。
「どうしよう」
「どう…?」
「ジン君と一緒にしてみたいことが、色々あるんだ」
「何がしたい?」
「それが…急に思い出せなくなって…」
 買い物とか…、散歩とか…、とユウヤはもどかしげに呟く。ジンはユウヤが一つ一つ言い終えるまでじっとそれに耳を傾け、それから言った。
「君がしたいことを、僕は全部、君と一緒にしよう」
 真夜中の台所で、以前暮らしていたアパートのそれよりは少し広いテーブルを挟み座っていた。
「じゃあ…」
「じゃあ?」
「まずは……ダンス」
 キャンドルを灯し台所でワルツを。だんだんはしゃいでしまい、くるくると回りながら廊下を抜けて温室のドアを開けた。
 夜の青白い光の下、二人が回ると草葉が揺れる。泉でぱしゃんと音がした。真夜中の闖入者にバンが驚いているに違いない。しかしもう誰に遠慮をすることもない。二人は音楽をかけ、疲れるまで踊り続ける。
 その夜、ユウヤは温室のカウチで眠った。ジンはユウヤに膝枕をしながら、幸福感で眠れなかった。

 朝を楽しむ。予定のない午後を楽しむ。夕を、夜をたっぷりと楽しむ。
 一日一日を丁寧に綴る。
 日の射さない冬も花でいっぱいに。急に温かくなった春には温室の扉と窓を開けて風を取り込んだ。バンが狭い庭にのそのそと這い出して、露に濡れた若い草を食べる。
 再び春が巡り、夏になると二人はエーランド島へ旅行に出かけた。それは毎年の恒例になった。
 百花繚乱と表現するにふさわしい、色とりどりの花の咲き乱れる浜辺を二人は何時間も散歩する。時には浜辺に座ってじっと喋らないこともあった。しかし触れ合った肩や掌から互いの体温が伝わって、それだけで二人は満足なのだ。
 自転車はジンが漕ぐ。以前は転んだ場所も、今はすいすいと駆け抜けた。
 秋が近づけば、ワインの解禁を楽しみに。シュトゥットガルトの思い出話を、ジンは話して聞かせる。どれも初めての話で、ユウヤはそれに聞き入る。ジンは語りながら、自分の中に鮮やかに蘇る思い出を改めて大事にしまう。アルバムは残っていないが、もう忘れることはないだろう。会うことのない人々の笑顔も、ビルから見下ろした街並み、黄葉するブドウの丘も。
 また巡る冬は温室でシャンデリアの光を浴びる。時々、医師が往診に来て体調を診てくれた。診断結果はいつも異常なし。
「僕の身体は君が一番知ってるのに」
 医者を見送ったユウヤが言う。その科白は今でもジンの心臓をドキッとさせる。ユウヤはそれが当然のように信頼しきった瞳でジンを見上げた。その光を吸い込むような穏やかな黒の瞳を見つめていると何も言えなくなって、しばらく黙って玄関に佇んでいた。ユウヤがジンの腕を抱いた。かすかに心臓の鼓動が伝わる。
 同じリズムが二つ、寄り添っている。薄ぼんやりした灰色の空の下、少し散歩をした。同じ歩調で、ゆっくりと運河の脇を歩く。
「あっ」
 ユウヤが小さく声を上げた。ジンはユウヤの視線を辿った。運河の消える森の影、一瞬鹿の姿が横切り、消えた。
「水を飲んでたんだ…」
 ユウヤが呟く。
「ああ」
 ジンも頷く。
「そうだ」
 ユウヤに向かって頭をもたせかけると、ユウヤは小さく笑ってそれを支えた。
 温室に戻るとユウヤはバンにさっきの出来事を話す。ジンはカウチに腰を下ろして、膝の上で山野バンに宛てた手紙を書く。添えられた写真は灰色の空の下に広がる森。
「ユウヤ」
 ジンは呼んで、ユウヤの写真を撮り更にそれに添えた。
「どうして?」
 尋ねられるのに上手く答えることができない。困った顔をするジンを、ユウヤは水の入ったカップを持って、小首を傾げて見つめる。

 何度目のエーランド旅行だったろう、ジンはユウヤの黒髪の中に一筋の白髪を見つけた。イェーテボリ行きの列車を待つ駅のホームで、それは高い天井のガラス窓から射す夏の陽の下にきらきらと光っていた。ジンは不意にユウヤの手を握った。ユウヤは何も言わずジンの肩に頭をもたせかけた。
 それまで全く同じリズムだった二人の鼓動の、わずかなずれ。
「疲れたか?」
 ジンは尋ねる。
「少しね」
 ユウヤは困ったように笑って、ジンの手を握り返す。
「僕もおじいちゃんだもの」
 帰宅したユウヤは数日横になったまま、動けなかった。ジンが厳しい顔をして枕元に座っていると、そんな顔しないで、とその手を自分の胸に誘う。掌に感じるゆっくりとした鼓動。今ではジンの方が速い。
 一ヶ月と経たないうちにユウヤの髪は真っ白になった。毎日の習慣を、ジンは続けた。椅子に座ったユウヤの髪をブラシで梳く。
「綺麗だ」
 ある朝ぽつりと呟いた。
「あの時みたいだ」
 ユウヤは自分の髪を手にとって呟く。
「でも、綺麗だ」
「…ありがとう、ジン君」
 ジンの言葉をユウヤは信じている。ジンの言葉はユウヤの中で真実になり、経験となり積み重なる。今でも彼は学習を続けている。だからこそユウヤの目に映るものは今でも全て目新しく、美しい。
 しかしもう活発に動き回ることはしなくなってしまった。散歩は少しだけ。ほとんどの時間を温室で過ごす。秋の陽が優しくユウヤの上に降り注ぐ。
「ジン君は暇なんじゃない」
「どうして」
 バンがのそのそと歩いてきてジンの足にぶつかった。もう甲羅の大きさは五十センチを超えていた。バンはジンを見上げて首を振る。
「ほらね」
 ユウヤがカウチの上で笑う。
 ジンは少し考えて何かを言おうとし、今度は長く考えた。ユウヤはそれをじっと見守る。バンはジンが何かを喋り出すまで待つつもりらしい。
「LBXを…」
 ジンが口を開くと、ユウヤは最初からそれが分かっていたかのように微笑んで頷いた。
「作ろうか」
 古今東西のカタログを開き、ユウヤが選んだのはもう五十年も前に生産が終わった龍源社製のリュウビだ。工場で働き続けたジンには、そのパーツを一から作り出すことができた。ナイトフレームのコアスケルトンに一つずつアーマーフレームを取りつけるユウヤは目を輝かせていた。組み立てるのは初めての経験だったのだ。
 完成したリュウビをダンボールの中に下ろす。右手には黒いCCMグローブ。今ではこの操作方法も珍しくはない。その手が真っ直ぐ前に伸ばされる。ジンはCCMを右手に、トリトーンを投下する。
 ユウヤの黒い瞳はダンボールを越して、ジンを見つめていた。
「いざ尋常に…」
 ジンもその瞳を正面から見つめ返す。
「勝負…!」
 トリトーン、とその名を呼ぶ。
 リュウビ、とその名を呼ぶ。
 シーホースアンカーと武の剣のぶつかり合う音が温室に響く。床の上ではジオラマを覗き込むことのできないバンが不満げに首を振った。

 おもしろかった、とユウヤが囁いた。
 手の中にはリュウビがいる。
「ジン君とバトルをするの、すごく楽しかった」
「僕もだ」
 ジンはもたれかかるユウヤの体重を支え、囁き返す。
「興奮した」
 ふふ、とユウヤが笑った。
「少し疲れたけど、気持ちいい」
「うん」
「全部、君がくれた」
 ユウヤは思い出すようにゆっくりと言った。
「空っぽだった僕に色んなものを与えてくれた。僕はもらってばかりだ」
「そんなことはない」
 CCMグローブを外したユウヤの右手に、ジンは自分の手を重ねた。
「僕は君に人生を捧げたと思っていた。でもくれたのは君なんだ、ユウヤ。君は真っ新な、白紙の人生を、君の全てを僕にあずけてくれた。白紙の上に僕らは一緒に人生を描いたんだ。十三歳の僕は独りになってしまったと思っていた。一人で生きていくと思っていた。でも君はもう一度僕の目の前に現れた。シュトゥットガルトの…あの秋の終わりの日。君と出会ったあの日から僕は、誰も知らない人生を、誰よりも胸を高鳴らせながら歩いてきた」
 二人は指を絡ませ、しっかりと手を繋いだ。
「君と生きる毎日は、楽しい」
 早い夕方が訪れていた。ガラス天井の向こうに広がる空は灰色に曇り、ガラスの波模様のせいもあり、今にも降り出しそうに見えた。
「ああ…」
 薄く瞼を開いたユウヤが天井を見つめる。
「すてきな空の色…」
「素敵な?」
「懐かしくて…、ほら、もうすぐ…」
 瞼が閉じてユウヤの頭はジンの胸にもたれかかる。
「君の帰ってくる足音が聞こえてくるよ」
 その言葉に応えるように雨が屋根を打ち始めた。
 二人は黙って雨音に耳を傾けた。雨音は時々強くなり、心臓の鼓動のように走る。それが柔らかな、降り注ぐような雨音に変わり、ふと辺りが暗くなる。雲の向こうで日が落ちたのだ。
 呼応するように温室の明かりが灯った。月明かりのような青い光だった。雨音に、雨の流れる音に、青い光に濡れた温室の中は海の中のようだった。緑の木も、草花も水底に揺れるかのように見えた。
 バンは二人の足下に蹲り、手足を縮めて眠りにつこうとしていた。ジンの胸にもたれかかったユウヤはもう寝息を立てている。ジンはその呼吸を聞いた。自分の呼吸を真似ているというユウヤの寝息が、少し遅い。
 ――でも、まだ今日じゃない。
 ジンはもう片手でユウヤの肩を抱き寄せ、僕の天使、と囁いた。
 なに、と内緒話をするような返事が聞こえた。
「君が、愛しい」
「僕も、君がいとしい」
 二人で見つけた真実を、そっと宝箱にしまうように口にする。雨音がそれに蓋をする。夜半過ぎまで雨は止まなかった。雨上がりの空は広がる雲に柔らかな灰色をしていた。