全てが初めての日々 3
工場宛てにサイバーランス社から小包が届いたのは、夏も終わりのことだった。日が少しずつ短くなり、半袖姿が街から消える。工場も夏の新製品ラッシュの需要による目の回るような忙しさからやっと解放されて、昼食をのんびりとれるようになった頃。古タイヤの上に腰掛けて食べたサンドイッチのパンくずを払っていると、事務所から呼ばれた。 それは海道ジン宛ての小包だった。差出人のサイバーランス社という文字はプリントされたものだが、ジンには予感のようなものがあった。西原誠司の送ったものに違いなかった。 ドイツにて、サイバーランスの子会社となったエンペラー社を率いる西原誠司。CCMスーツ、そしてサイコスキャニング技術の発表記者会見以来、テストプレイヤーである少女と共に彼は時の人となった。この技術は新たなものを次々に生み出し、そのたびに西原の姿はメディアに登場したが、最近は露出が減った印象である。 ――また新たな開発を…? サイバーランス社からの荷物ということで、工員たちが仕事を放り出し、窓の外に張り付いている。社長は仕事に戻るように叱ったが、誰一人として帰ろうとしない。 「ジン」 社長が肩をすくめる。 「開けてみましょう」 「いいのかい。君個人に宛てられたものだ」 「構いません」 皆、それが見たくて仕方ないのだ。ジンは包みを開けた。心臓の鼓動は静かに高まっていた。予感があった。 中に入っていたのは、見たことのないLBX。デザインは近年の流行に則ったものではなく、作り込まれた感がある。青銅のように、あるいは青磁のように塗られたパーツは、神話に登場する神々の鎧のような意匠に凝っている。隣にはジンが愛用していたあの懐かしいフォルムのCCM。そして不思議な材質の黒いグローブ。 「グローブタイプのCCMスーツか…」 社長が呟いた。工員たちはもう窓ガラスにびったりと張り付かんばかりなので、諦めて事務所の中に入れてやる。間近によると、手で触れはしないものの、皆少年のような目で新しいLBXを見つめ、口々に言い合った。 「ナイトフレーム? デザインにこだわりがありますね」 「これは市販品じゃないだろう。試作機?」 「どうしてサイバーランス社から。工場長が日本人だから?」 箱の底にはカードが残っている。ジンはそれを取り上げた。そこには楷書体の整った文字でメッセージが記されていた。 『親愛なる皇帝、敬愛なる私の盟友へ』 それ以上の言葉はこの青いLBXが、懐かしいCCMが、そしてこのグローブが物語っていた。 これは西原誠司がジンのためだけに開発したLBXだ。 いつの間にか事務所内は静まり返っていた。皆がジンに注目し、LBXが動き出すのを待っていた。 ジンはCCMを手に取る。実に何十年ぶりだろう。上手く動かせるだろうか。手が震えた。LBXは西原らしいデザインだ。プロトゼノンの時もそうだった。彼は新世代LBXの開発のためだと、そのための戦闘データが必要なのだとジンを誘いLBXを提供したが、そのデザインは驚くほどジンの好みを把握したものだった。 青を基調としたカラーリング。武器はジンの得意とする大型のハンマー系。 脳裏にはもう浮かんでいる。どのように操るべきか。このLBXがどのような動きを見せるのか。 ジンはグローブを手に取った。生地は少し厚手で、手に吸いつくような感じだ。体温を得たCCMグローブは手の甲から指先に向かって走るラインを仄かに発光させる。起動したのだ。LBXと繋がっているのだということが、まるで脳に直接リンクしたかのように分かった。 「トリトーン…」 その名を呼び手を伸ばすと、トリトーンは武器を構え、戦闘開始の姿勢を取る。感激のどよめきが低く事務所を震わせた。 ジンは手を動かし、一通りの動作をしてみせる。走る。ジャンプをする。武器を振り下ろす。 思った通りにLBXが動く。 それは感激だった。興奮だった。Dキューブが展開され、トリトーンはその中で存分にジンの思い描くまま駆け回った。 「必殺ファンクション」 懐かしい言葉を舌に載せる。オーシャンブラストがジオラマの一部を破壊すると、工員たちはいっせいに拍手をし口笛を鳴らした。 「このLBXの生産をうちの工場に?」 「日本から? わざわざスウェーデンだぜ」 「でも工場長宛てに小包が来たのが証拠じゃないか…」 「全員落ち着け」 社長が手を鳴らす。 「これはジン宛ての個人的な贈り物だ。多分うちとは一切、まったく、これっぽっちも関係ない」 「随分否定しますね」 「よし、じゃあ聞くぞ。君らはこのイカスLBXが量産されるところを見たいか?」 それには全員が首を横に振った。 「使ってみたいけど、量産されるのは何だか嫌だろう。そういうことさ。これはジンが持つから映えるんだ」 全員ががっかり半分、しかし納得して頷いたところで、社長が工場に追い戻す。 ジンはトリトーンを箱にしまい、蓋をした。興奮が過ぎ去り、肌寒くさえ感じた。胸の中には秋の青空が広がったかのような、すがすがしく寂しい気分があった。 工場に戻ろうとするジンを社長が呼び止める。 「ジン、君は優秀な…いや天才的なプレイヤーだったんだろうね」 「…………」 「サイバーランス社と言えば、CCMスーツ開発の中心になっているエンペラー社の親会社だ。僕もアメリカにいた頃あの記者会見を見たよ。凄い技術だ。しかし本来なら一朝一夕で動かせるような代物ではない」 「…LBXには長く関わっていますから」 「君のような男がこんな小さな町工場にいるのは奇跡だと、親父はよく言っていた」 君とトリトーンがバトルするところを見たいな、と社長はごく屈託無く言った。ジンは一つ頷いて事務所を後にした。 その日抱えて帰った荷物について、ジンはユウヤに話すべきか少し迷った。結局、話すことなく箱を屋根裏にしまった。 西原誠司の訃報が流れたのは、それから一週間後のことだ。七十に手が届くか届かないかの死はまだ早く、彼の功績を振り返っても惜しいものだと各メディアが伝えた。ジンとユウヤは帰宅途中の街頭ビジョンでそれを知った。ジンは何も言わなかった。ユウヤが自転車を止めて、振り返ったが軽く頷いただけだった。 帰宅するとジンが夕食を作っている間にユウヤは温室から白い花を摘んできて、深い海の色をした花瓶にいけた。 「あの人は僕たちの人生を守ってくれた」 夕食の皿を運んでくると、ユウヤがぽつりと呟いた。 「あの人にはお礼を言わなきゃいけなかった。けれどあの人にはもう会えない…」 「…ユウヤの気持ちは通じているさ」 「魂があるから?」 不意にユウヤは、まだ感情に乏しかった頃のような顔をしてジンを見上げた。 「みんな、神様はいるって言う。教会でお祈りをして、鐘を鳴らしてる。天国って…本当にあるのかな。みんな、そこに行くんだろうか…」 「多分…」 「加納も死んだ」 その言葉にジンは硬直した。 「もうずっとずっと昔に」 「…知らなかった」 「みんな、天国に行くの?」 ユウヤは急に支えを失ったかのように、儚げに言葉を紡いだ。 「君も、僕も、天国に行くの? そこでみんな待っているんだろうか…」 「ユウヤ…」 ジンは皿を置くと、ユウヤの前に跪いてその手を取った。 「死ぬのが怖いか、ユウヤ」 「分からない…」 ユウヤは目を伏せた。 「僕はいつ死んでも平気だと思ってた。今もそう思ってるはずだよ。毎日が輝いて見える、どんなことも。だけど…」 不意にその目が潤む。 「僕はずっと君と一緒にいたい……。いつも一緒にいるのに、どうしてだろう、僕は急に…」 「ユウヤ」 ジンは急に冷たくなったユウヤの白い手を両手で押し戴き、囁いた。 「僕は君の魂を独りにはしない。約束をする。僕は永遠に君のものだ」 「永遠…」 「誰も自分の死を知らない。死んでしまった後でどこへ行くのかも、僕らは知りようがない。だけど僕の思いには限りがない。僕が君を思う気持ちに終着点は存在しないんだ。この思いが、意識が生ならば、魂ならば、きっとそれは無限だ。その果てのないもの全て、僕は君に捧げる」 冷たくなった手の甲に額を押し当てると、二人の間で体温が溶けて熱が行き交うのが分かった。頭上でユウヤが溜息をつく。 「ジン君…」 顔を上げると頬に両手が添えられた。 「君を信じている、こんなにも」 ユウヤの表情は蕾の開くようにゆっくりとほころび、額が触れ合った。 「君がそれをくれるなら、僕の中にも永遠が広がってるんだ。君という永遠が」 頬に触れた手にジンも自分の手を重ねる。体温が溶け、ああ、とユウヤが息を吐く。 「僕にも魂がある…」 抱きしめるジンの肩に顔を押し付け、ユウヤは囁く。 「僕の魂は君でできてる…」 うれしい、うれしい、とそれを確かめるように囁いてユウヤはきつくジンを抱きしめた。 冷めてしまった夕食に、ワインを一杯だけ。安らかに眠った西原誠司の魂に。天国があるかどうか分からなくても、届けられた彼の心に感謝を。ジンは箱からトリトーンを取り出して、ユウヤに見せた。 「かっこいいね」 素直に感心したユウヤは、しかしCCMには触れようとしなかった。 「だってこれは、君のトリトーンだもの」 特にマントをつけているところがかっこいいとユウヤは言う。ジンは何だか誇らしい。 翌朝のテレビでも西原の訃報は流れ、ユウヤの淹れた紅茶を飲みながらジンは不意に涙を溢れさせた。ユウヤがちょっと息を飲んで、それから手を伸ばす。 「大丈夫だ…」 ユウヤの指が涙を拭うのを受け入れながらジンは、悲しいんじゃない、と言おうとしてそれは嘘だと、やはり悲しいのだと気づいた。 西原誠司はもうこの世にはいない。 ビジネスから始まった関係だった。出会った時から二人の関係は対等だったと西原は回想した。 ――しかし、あなたは……、 まるで兄のようだったと。 贈られたLBXが何よりの言葉だった。 西原誠司の残したもの。それは彼の知、彼の技術、彼の情熱。野心家であり同時に二回りも年下の自分を盟友と呼んでくれた彼の心。それが全てトリトーンには詰まっている。 ――僕らは家を持った。 自転車の荷台に座って通勤しながら、ジンは家を振り返る。温室の緑も増えた。ユウヤはどうすれば一年中花の咲くサイクルになるか考えて種を蒔き、苗を植える。ジンも花の名前を覚えるようになった。 魂が痕跡を残してゆく。存在の証を、刻まれる思い出を。 しかし。 ――僕の… ジンは泣いた余韻の残る、かすかに火照った瞼を伏せた。 ――僕らの…… その日からジンは考え込むことが多くなり、工場では普段無口な工場長が輪をかけて喋らなくなったことに緊張感を覚え若干張り詰めた空気が漂った。それが何日も続くので、とうとう心配した社長が言ったのか、先代の工場長が昼食時に現れた。 「辛気くさい顔してるじゃねえか」 「昔からこんな顔です」 「ユウヤと喧嘩でもしたか」 「…いいえ」 そう言えばユウヤとは一度も喧嘩をしたことがない。そんなものがあるとは忘れていたほどだ。 「サイバラか?」 老人は煙草に火を点ける。 「…それもあります」 ジンは頷いた。 「西原社長は僕の恩人でした」 「そうか…」 「トリトーンも彼から贈られたものです」 「いいLBXだな」 「はい」 ジンはポケットからCCMを取り出す。何十年と経っても自分の手に馴染むフォルム。 「あのLBXには西原社長の残したものが詰まっていました。そして僕はそれを受け継いだ。これは遺伝子が残っていくのと…同じ事ではないでしょうか」 「……子どものことを考えてんのか」 「お孫さんは元気ですか」 「今度は孫が嫁に行く時期なんだぜ? 齢を取るはずだわなぁ」 老人は苦笑し、煙を一杯に吸い込んだ。煙が再び吐き出されるまで、ジンは待った。 「まあな、養子ってのも手だろうよ」 「ええ…」 「しかし人間の子どもだけが子どもじゃねえってのは、もう分かってんだろう?」 「はい」 「神は相応しいものを授けてくださる」 立ち上がった老人はくわえ煙草のままニヤリと笑い、十字を切る。 「神のご加護を」 ジンも立ち上がり、深々と頭を下げた。 「ありがとうございます」 「やっぱ日本人ってのは面白ぇや」 笑いながら去って行く後ろ姿がもう油の染みた作業着でないのに少し寂しさを感じながら、今や自分が工場長になったジンは軽く頬を叩いて工場に戻った。 ――愛情を、注ぐ。 掌がユウヤの体温を思い出す。溶け合う前の、少し低い、ひんやりとした掌の感触。 ――命に、愛情を…。 ある朝、交差点で別れる前にジンは、今日は先に帰ってくれと言った。 「うん、分かった」 ユウヤは素直だ。ジンの言葉を疑うことはない。だから敢えて言い訳もせず、理由も言わなかった。ちょっと驚かせたい気持ちもあった。 夕刻、日の暮れるのはもう随分早くなった。ジンは家の前まで送ってくれた若い工員に礼を言い、車を降りた。 「プレゼントですか?」 若者はにこにこ笑いながらジンの抱えた箱を指さす。 「まあ、な」 母屋の窓は暗かったが、温室には温かな明かりが灯っている。ジンは庭を横切り、直接温室に向かった。ノックして銀のドアノブを回す。 「ただいま」 「ジン君」 緑に包まれ、カウチに横になっていたユウヤが起き上がる。 「寝ていたのか」 「ここ、すごく気持ちがよくて」 でも君の足音が聞こえたから、とユウヤは微笑む。 「ユウヤ」 ジンはユウヤの足下に跪くと、膝の上の彼の手を取った。 「これまで僕らの暮らしの中には僕らしかいなかった。僕は君のことだけ見つめてきた」 「僕もジン君のことを見つめてきたよ」 「もし、僕らの間に別の命があったら…」 ふとユウヤの口が結ばれる。ジンはしっかりとその手を握る。 「僕にも経験のないことだ。想像がつかない。でも、僕らはその命に愛情を注ぐことができるんじゃないだろうか」 白い箱を差し出すとユウヤのそれは緊張だろうか、軽く唇を結んだまま蓋を開けた。 すぐ目に入ったのはピンク色のリボン。 「…カメ?」 「陸亀だ」 「リクガメ…」 ユウヤは箱の中、リボンをかけられたカメを取り出した。掌ほどの大きさのそれは緩慢な仕草で首を伸ばし、瞼を開く。 「寝てたのかな」 「かもしれない。冬眠はしないタイプだが…この温室でなら飼うことができる」 「どうして…カメなの?」 「僕らは日中家を空けているし、犬や猫だと世話を見きれるかどうか。それに…」 「それに?」 「亀は長生きをする。きっと、僕らよりも」 唇を結んでいたユウヤが、ふと口元をほころばせた。 「僕らより、長生き…」 呟きながら、リボンをかけられた甲羅を撫でる。カメは穏やかな仕草で瞬きをし、気持ちよさげに瞼を閉じた。 「かわいい」 赤ちゃんみたい、とその仕草を見てユウヤは言った。 「よろしくね、バン君」 ジンは目を丸くした。名前が、決まってしまった。 ユウヤはバン君と名付けたカメにキスをし、ジンの頬にもキスをした。生臭いような、乾いたような、不思議な匂いがした。 温室には三つのシャンデリアが下がっている。太陽のような白い光を投げかけるもの。夕焼けのような温かいオレンジの明かり。そして黄昏の瞳が映し出すプルキンエのような青い照明。時々によって灯る光に照らされ、植物たちは息をし、花を咲かせ、カウチの上で安らぐユウヤとジンを優しく見守る。背後ではかすかな水の音がして、それはバンのために新しく作った泉の水の流れる音であったり、ガラスの屋根を叩く本物の雨音だったりした。 リクガメのバンは花を食べることもたびたびで、そのたびに二人は新しい花の苗を買って植える。バンが花を食べるのも、新しい苗を植えるのも、どちらも楽しみだ。 晴れた夏の日、二人は庭で食事を摂った。ジンの書き留めたレシピはノートになって台所に並んでいる。 冬の夜は温室のシャンデリアを灯して、新しく買ったティーセットでお茶を飲んだ。まろやかなフォルムの小鳥と緑の描かれたグスタフスベリのカップはユウヤが選んだものだ。 おはように、いってきますに。ただいまに、おやすみに。挨拶の後につける名前がユウヤだけでなく、自然と「バン君」と呼ぶようになった時、ジンはバンに宛てた手紙を書き始めた。ユウヤがジンのCCMで写真を撮り、それに添えた。それは投函されることはなく、ダンボールの中に積み重ねられていった。 何通も、何通も…。 何年も、何年も…。 |