10代編 2
ジャッジ。 イノベイターのための専用機を製造していた神谷重工だが、現在ではそれら機体も一般に流通するようになっている。しかし決して市場には出回らなかったものがジンのジ・エンペラー。そしてこのジャッジだ。 ブレイクオーバーの音が鳴り響き張りつめていた空気がほどける。強化ダンボールの中の戦いが終わると同時に研究室の空気も固唾をのむ緊張から解放された。灰原ユウヤが前に掲げていた手を下ろすと、そこに表示されていたARの画面も消える。ジンは目の前のモニタに残ったそのデータを読んだ。一対三のバトルで各機体にかけた時間は一分弱。しかも最初の二機は同士討ちに持ち込ませている。 六年前のアルテミスにおいてユウヤとCCMスーツがその実力を現したのは決勝戦の場だ。それまでの勝ち上がり方は偶然や運だと評する声もあったが、記録映像を見れば分かる。ジャッジは勝利条件を満たすために最小限の動きをするに留めていただけなのだ。 まさに再現のような光景が目の前で繰り広げられていた。ジャッジは最低限の動きで相手の攻撃をかわし、最少の力で最大の効果を上げる。二機を同士討ちに持ち込ませたところなど、戦わずして勝っているし、最後の一機に加えたのはたった一撃だ。それとてジンがこのテストのクリア条件として、最低一機のブレイクオーバーを課したからであり、この条件がなければ相手をただ稼働不能にするという方法でバトルを終わらせていただろう。LBXバトルとしては実に見どころのない、面白くないバトルだ。 ――バトルではない。 ジンはモニタから顔を上げ、ユウヤを見た。ユウヤはジャッジを回収し、バトル後の心身状態をチェックするため別の部屋に向かうところだった。相変わらず目に光はなく、ジンを見ようともしない。 ――ユウヤが行っているのはテスト。課題のクリアだけだ。 面白くない話だった。それはユウヤにとってもそうであろうし、それを見ている、実行させているジン自身にとってもそうだった。 ユウヤと研究チームがドイツにやって来て二週間。最初はユウヤの健康状態を徹底的に調べるところから始まった。些かやせ気味ではあるがユウヤの肉体に問題はない。しかし、すわ健康かと言われれば医師は首を縦に振らない。覇気がない。生気がない。心が健康でない者を医師たちは健康とは呼ばなかった。 「確かに過去に受けた傷、肉体的損傷は回復しています。しかし肉体が問題なく維持されているだけ。それだけです」 右肩の傷跡は今でも消えずに残っているということだった。痛みはない、と問診でユウヤは答えたそうだ。 「声に出して答えたのか?」 「そうですが」 ジンはまだ一度もユウヤの声を聞いていない。 モニタでは先ほどのバトルがスローモーションで再生されていた。スローでも分かるほどジャッジの動きは滑らかで、操作する者の意志が直接LBXに乗り移っているかのように微細な動作を可能にしている。ユウヤ本人の肉体以上に、ジャッジは滑らかな動きを見せた。当の本人は一歩足を踏み出すにも操られているかのようなぎこちなさを見せるというのに。 「海道社長」 日本からやってきた若い研究者、黒木が声をかける。 「いつまで似たようなテストを繰り返すつもりですか」 「こちらはまだ彼のデータを十分には得ていない」 「灰原ユウヤ貸与の時間は無限じゃない。我々の目的を忘れないでください。サイコスキャニングモードのテストを行いましょう」 「君は…」 ジンは黒木の顔を見た。アルテミスでは前髪で顔を隠していたが、おそらくこの男が当時神谷重工から派遣されサイコスキャニングモードのデータを取っていた一人だろう。ユウヤの背後には二人の少年の姿があった。今、ユウヤに付き添ってデータを収集しているのがもう一人の男。目黒。 「怖くはないのか、灰原ユウヤの暴走が」 敢えて直截に尋ねると、黒木は表情一つ変えず答えた。 「実験に失敗はつきものです」 確かにもたもたしている訳にはいかなかった。ジンが結果を出さなければ日本の先進開発省はエンペラー社との契約を打ち切り、別のもっと扱いやすい会社へ話を持ちかけるだろう。そうすれば灰原ユウヤはまたジンの目の前から消えてしまう。 ――安全な方法で、今度こそ彼を自由にする。それが僕の義務だ。 「いいだろう」 ジンは冷たく言った。 「しかしテストは段階を追って行う。明日は一日休養を取らせろ。その間に機器のメンテナンスを十分に行え。一回目は動作テストからだ。テストは必ず私の立ち会いのもと行え」 「バトルは?」 「段階を追うと言った。テストの結果問題がなければいずれ」 「いずれ?」 「私が対戦しよう」 社員の一人が口笛を鳴らした。ジンもテストバトルは行う。しかし彼がはっきりと対戦という言葉を口にしたことを社員は軽く驚いているようだった。特に公式的なバトルをジンはここ数年行っていない。非公式とは言え、本気のバトルをするのだろうと、ここ二週間のテストを見てきた社員たちも思ったのだった。 黒木は当然だとでも言うように頷き、早速プログラムの整備にかかった。 日本から到着した一団には社宅でもあるニュータウンの団地の部屋が割り当てられている。しかし灰原ユウヤはそれを拒否した。社屋の仮眠室の一つでユウヤは寝起きしている。ビルの中には社員食堂も、下階にはレストランも入っているから、確かにこのビルの中だけでも生活に不自由することはない。 ――だが、あまり人間的な生活とは言えない。 自分も時々泊り込んで仕事をすることを棚に上げ、ジンは眉間に皺を寄せた。 ユウヤが一日三食、社員食堂で食事を摂っているのは知っている。栄養管理のしっかりした食堂だ。毎日通っても問題はない。仮眠室にはシャワーもあるから身体は毎日清潔だし、睡眠も毎日七時間半きっちりと取っていた。 それだけ聞けば健康的な生活。しかし…。 ――心が健康でなければ、か。 ジンはデスクの上のインターフォンを押し、秘書にユウヤを呼ぶよう命じた。 背後の窓にはぼんやりとした夕景が広がっていた。ここずっと薄曇りの日々が続いている。太陽は常に雲の向こうにあり、はっきりとその姿を現したことがない。今日も西の雲が濁った淡いオレンジ色に染まり、夕方がやってきたことを告げていた。 この時間、ユウヤは健康維持のための簡単なトレーニングを行っている。それから夕食。眠るのはいつも夜の十時ちょうどだ。それまでの時間何をしているのか…。ジンはユウヤの姿を見つけられたことがない。 ユウヤは目黒に連れられてやってきた。 「君は下がっていい」 一瞥してそう言うと、相手も当然のように 「何故ですか」 と尋ねた。 ジンは黙って目黒を見た。瞳は血と同じ赤い色をしているが、しかしジンの視線は冷たく、睨まれると凍りつく、と社員は噂をしていた。目黒も大した意地は張りはしなかった。黙って部屋を出ていく。 二人きりになるとジンは立ち上がり、相手に視線を合わせた。 「調子はどうだ、灰原ユウヤ」 ユウヤは一つ頷く。曖昧な肯定。相変わらず表情はない。 「夕食はまだだろう」 ジンはわざとユウヤに背を向け、窓を向いた。暗くなり始めた窓にユウヤの姿が映っていた。彼はまた一つ頷いた。声はない。 「一緒にどうだ」 その誘いにユウヤはじっとジンの背中を見つめていた。ジンは背中にようやくユウヤの気配を感じとり、黙って返事を待った。 「…構いません」 結構です、と断る労力を避けての消極的な返事に聞こえたが、しかしジンがようやく聞いたユウヤの意志の言葉だった。 「海道社長のご迷惑でなければ」 「僕が誘ったんだ」 ジンは振り返り、ユウヤに近づいた。 「レストランに行ったことは?」 ユウヤは首を横に振る。 ではそこに行こう、とジンは言った。歩き出すとユウヤは二歩後ろをぎこちなく歩く。動きはぎこちないが、誰かに従うことは自然なようだった。 下階のレストランはシュトゥットガルトでも人気の店であり平日でも満席になるが、ジンは特権を大いに利用して奥の個室へユウヤを招いた。 「何がいい」 「…何でも」 覇気のない返事。 「好きな食べ物は?」 ユウヤはまた首を横に振る。テーブルの分しか距離は離れていないのに、遠くからそれを見つめているような気がした。僕は、と言いかけてジンは声が掠れた。 「僕はよく魚を食べるようになった。昔は好きでもなかったが…」 そんな誰にも話したことのない他愛もない思い出を口にしながら、ジンも奇妙な心持になる。気まずくはないが、気の詰まる空間だった。目の前にいるのに相対していないような心地悪さがあった。ウェイターに注文を言いながらホッとしているのがまた、ジン自身の心を刺す。 料理を、ユウヤは、ただ食べた。運ばれてきたのはヤマメを使った料理でジンの好物だったが、ジンもいつものような楽しみをあまり感じられなかった。ユウヤは機械的に魚を切り分け、欠片を口に入れ、咀嚼し、飲み込む。その様子を見ながらジンはわずかに混乱する。食事とはこういうものだったろうか。自分も同じ動きをしているのだろうか。ナイフとフォークを使ってヤマメを切る。切ったものを口に運ぶ。噛んで、味わって、飲み込む。行為としては何らおかしいところはない。しかし。 「ユウヤ」 まるで急かされるようにジンは言った。 「美味しいか…?」 ユウヤは咀嚼を続けていたヤマメを飲み込み、ぽつりと言った。 「分からない」 それが言葉通りの意味なのだと、ジンには分かった。これは適当に答えたものではない。そうやって流すつもりならば頷けばいいのだ。 ユウヤは本当に分からないのだ、味が。 その瞬間からジンの舌も不感症になってしまったかのように味が分からなくなった。好きなレストランのヤマメ料理。疲れ切った時、気分を変えたい時はここの料理が一番だと思っていた。そこにユウヤを連れてきた、なのに…。 そうか、と掠れた声で返事をした。食卓は静かに、沈黙をもって終了した。ジンは心を鎮めるように水を飲み干し、席を立った。 エレベーターが止まり別れる間際、ジンはユウヤを呼び止めた。 「明後日からサイコスキャニングモードのテストに入る。明日はゆっくり身体を休めてくれ」 ユウヤは小さく頷き、背を向けた。目が合ったのはほんの数秒だった。あの暗い瞳。 エレベーターのドアが閉まると、ジンは鋼鉄の壁に背中をもたせ大きく息を吐いた。自分の息が震えているのを、彼は信じられない思いで聞いた。ひどく動揺していた。目を瞑ると瞼の奥が熱く涙が滲みそうになっている。彼は歯を食いしばり、それに耐えた。 |