全てが初めての日々 2







 日曜日の朝だった。ユウヤに見守られて目が覚めた。カーテン越しの光は淡く、かすかにアルコールの残った頭に刺激を与えた。喉が渇いていたが、ジンは自分を見守る視線をぼんやりと受けながらベッドから動かず、朝方のぬくもりに身を委ねた。
 昨夜のパーティーで思わぬ未来が拓け――血縁でもない、日本人の自分が工場長に就任とは…!――自制したつもりだったが、やはり飲みすぎたのかもしれない。帰宅からの記憶はユウヤと踊ったことしかない。一晩中、ワルツを踊っていたような気がする。床が鳴るたびに階下から抗議の音がした。
 ユウヤの指が頬を撫でる。それさえ眩しい。軽く噛みつくと、額にキスを落とされた。心地よくて、またこのまま眠ってしまいそうだ。ジンは瞼を開き、身体を起こした。ユウヤはまだベッドに横たわっている。その頭を撫でながら、ふとある考えが浮かび、それはそのまま口をついて出た。
「家を買おうか」
「家…?」
 尋ね返される言葉をジンは頭の中で繰り返す。そうだ、家だ。緑の大地の上に建つ家。毎日自分の帰りを待ってくれる家。帰る場所を、二人だけの家を…。
「僕らの家を」
 起き出したユウヤが紅茶を淹れた。ジンは日曜日の新聞を読みながら頭の奥に残る酩酊の余韻と、家という言葉に脳が揺れるのを感じる。目の前に出された紅茶の香りはそんな心を静めてくれた。
 家について何も言わないユウヤの背中に寝癖のついた黒髪が流れる。
 ――突拍子もないことだと思われたかな。
 ジンは眠気の抜けてきた目でぱちぱちとまばたきをした。
 それにしてもユウヤには昨夜のアルコールは気配もない。もしかしたら二日酔いのせいだと思われたかもしれない。指でこめかみを揉みながら考えていると、
「僕は…」
 ユウヤが狭いキッチンテーブルの向かいに座った。掌が自分の分のカップを包み込む。
「この部屋も好きだよ」
 ――ああ、
 ジンは本当に目が覚めた気分になる。
 ――君はこの部屋に愛着を持ったのか…。
 スウェーデンに到着したのは二十二歳の時だ。ウサギが巣穴に飛び込むように裏通りのこの古アパートに飛び込んで、長らく息を潜めてきた。それがだんだん生活の場へと変わった。使い慣れた食器、身体に馴染んだ椅子とテーブル。小さな棚には日本語版の三国志が並んでいる。中古のテレビは二代目だ。部屋の隅にはLBXマガジンのバックナンバーが積まれ、スクラップブックも十冊を超えた。古いベッドは今でも二人の体重を支えてくれている。シーツはこれで何枚目だろう。今でも子どものような柄で。花模様と、ムーミン一家と、お土産に買ったダーラナホースのプリント…。
「でも」
 ユウヤの指先がカップの縁をなぞる。使い慣れたそれの感触を確かめるように。それを見下ろしていた目がジンを見た。目元が微笑む。
「ジン君と僕の家……どんな家がいいだろう、ワクワクするね」
「嫌じゃ…ないのか?」
「何が?」
「この部屋を離れること、引っ越しをすること…」
「僕の家はジン君の帰ってくる場所だよ。この部屋もそう。でもね」
 紅茶のぬくもりの移った手がジンの手の甲にそっと触れる。
「僕らは風に飛ばされた花の種みたいに、ずっと漂ってたんだ。明日にはこの街にいないかもしれないと思いながら、ちょっとずつその恐れを乗り越えて暮らしてきた。本を買ったり、図書館の貸し出しカードを作ったり…。僕の三国志が並んでる本棚も君が作ってくれた。でも君の魂はまだふわふわ浮いたままで……根付く場所を探している」
 ジンの中にある思いを、ユウヤは一つ一つ言葉にした。
「僕らの帰る場所を探そう、ジン君」
 スウェーデンの八月はもう夏の名残だ。しかし日差しはまだ力強く、二人はいつものように窓の外に洗い立てのシーツを干した。そして二人で不動産屋に出かけた。自転車の荷台に座ったジンはユウヤに背中をあずけ、およそ四半世紀を過ごした古アパートを見上げた。
 シーツがはためく三階の部屋。隣の部屋の窓には花が咲き乱れている。上の階からは雨音のようにシャワーの音が降ってくる部屋。ユウヤは雨音のようなそれを聞きながら自分の帰りを待つ。シーツに隠れたあの窓からいつも見下ろしてくれている。どれも思い出深い光景だが。
 ――帰る場所、か…。
 二人だけの場所と言うならばあの部屋だって十分そうだ。今、背中を触れ合わせてだって、ジンはそれを感じている。しかし。
 ――ユウヤの言うとおり、生きている証を残したいのかもしれない。
 いつかユウヤはジンとの間に子どもが欲しいと泣いたことがあった。ジンは自分の遺伝子を残すことのできる身体なのに、それをさせられないのは自分の肉体のせいだと。そんなことはない。今でもそれには首を横に振ることができる。しかし本能が、確かに着地点を探しているのかもしれなかった。
 ――僕自身が分からない心さえ、ユウヤは…。
 背中にもたれかかると、重いはずなのにユウヤはそんなことは一言も言わない。それどころか自転車のスピードを上げさえする。何かと、体力でユウヤに勝ったためしがない。
 不動産屋ではたくさんの写真を見せられ、昼食を挟んで午後いっぱいを車でイェーテボリ中連れまわされ、色んな家を見た。出した条件は、中古の家で構わない、むしろ古くからある家の方がいい。狭くてもいいから庭を。それから緑に近い場所を。
 何度もイェータ川や運河の側を通りながら、川面のきらめきに遠い記憶を蘇らせる。シュヴァルツヴァルトの深い森の奥、冷たく澄んだ水がひたひたと打ち寄せた晩秋の湖。そこに口をつけて水を飲む姿がある。早朝の鹿。朝日の下、人形のように身体を傾けたユウヤ。
 家から始まった。家を失うことから始まった。
 ――家が、欲しい。
 改めてそう思った。

 北海に面するイェーテボリ。その主流であるイェータ川から何本もの川、湖を経由してバルト海まで繋がる運河がイェータ運河だ。二百五十年ほど前、建設された当初は水上輸送の要となるはずだったが、国内にはすぐ鉄道が通うようになりその役割を取って代わられてしまった。以来、美しい水の流れは観光であったり地元住民の目を楽しませるためにある。
 そこは旧くからの住宅街で、森のような庭のような緑が広がり、閑静と呼ぼうか、いや葉末の音や鳥の鳴き声、そして近くを流れるイェータ運河の川音が聞こえた。
 午後も遅い陽を浴びて、その家は建っていた。車から降りたユウヤが、何も言わず庭を横切り近づいた。ジンと不動産屋も後に続いた。
 三人が向かったのはまず玄関ではなかった。庭は広くない。乗ってきたボルボは道端に停められたままだ。ガレージもないのである。しかし。
 ユウヤの掌がガラスの壁面に触れた。
「温室ですか」
 ジンが尋ねる。
 昔ながらの赤く塗った壁、白い柱という配色の家に、ガラスでできた円柱が埋まっている。正しくは八角柱だろうか。屋根は鉛筆の先端のように尖っていて、その高さは二階建ての家本体より少し低い程度だ。
「一つ前の住人が増築した温室です。ヒーターが壊れたままで、今は植物も育っていません」
「ドアがある」
 ユウヤが銀色のドアノブを掴んだ。不動産屋はすぐに鍵を取り出して開けてくれた。
 温室の中は夏の太陽に温められた空気がこもっていたが、不動産屋の言った通り緑は一つもなくがらんとして寂しかった。片隅に、かつて使われたのだろう植木鉢や煉瓦が残されている。ユウヤが隣に佇んで天井を見上げていた。内側から見ると、古いガラスは雨の流れる波模様が残ったままで、外の景色が青空さえ濡れて見えた。
 いったん外に出た二人は改めて玄関から家の中を案内された。しかしこの温室を見た時に、もう心は決まっていたのだ。ユウヤは、今日初めてジンの手を握り、離さなかった。二人は手を繋いで案内される部屋の一つ一つを見て回った。二階の寝室からは、近所の緑の向こうにイェータ運河の川面が見えた。
「ここにします」
 ジンが言うと、ユウヤが満面の笑顔になってこくこくと頷いた。
 不動産屋は一応の提示をする。
「今までの住所と比べると、街からは随分離れてしまいますよ」
「自転車があります」
 ユウヤが誇らしげに言う。
「今度からは帰りも一緒に帰ろう、ジン君」
 僕、頑張って運転するよ、とユウヤは両手でガッツポーズをする。これも最近覚えた仕草だ。
「運動にはなりますね。中年太りを予防するにはいいかもしれません」
 温室はヒーターの修理も含め、整備費用はそれなりの額になってしまったが、二人の決意は揺るがなかった。
 戻る前にもう一度、とユウヤが言うので温室に立ち寄る。がらんとした温室の真ん中で、ユウヤは上を向き軽く腕を広げ、まるで植物のように全身に日光を浴び、暑いほどの空気を胸いっぱいに吸い込んだ。その姿は、彼自身が光を孕んでいるようで、ジンは既視感を覚えながら目を細めた。

 ローンを組んで家を買う。
 ビルの上階からシュトゥットガルトの街を見下ろしマンションの一室に寝に帰っていた頃は想像もしなかった。自分が暮らすための、生活を営むための家を買う。毎日毎日、同じ玄関のドアを開けただいまを言う。
「ただいま」
 古アパートに戻ったジンは玄関で習慣的にそう言った。背後でドアが閉まり、部屋が暗くなる。不意に後ろから腕が伸びてきて腰に抱きつかれた。
「おかえり…」
 ユウヤが背中に顔を押し付けて言う。
「おかえり、ユウヤ」
 ジンも腰に回された手に自分の手を重ねて囁いた。
「ただいま、ジン君」
 抱きしめる力が強くなる。狭い廊下で二人はしばらく佇んでいた。ジンを後ろから抱きしめる体温は、太陽の匂いがした。温室に花を植えよう。ユウヤが好きだと思う花を全部。種を蒔いて、水をあげて、育てよう。
 ジン君、とユウヤが囁く。
「あの温室、君が帰ってくるのを待つ夏の夕方みたいだった」
「僕が…?」
「この部屋の窓から、君が帰ってくるのを見下ろす時、時々雨の音がするんだ。本物の雨の音、四階のシャワーの音…。それから君の足音が聞こえてくる。石畳の古い道路を踏んで、君が帰ってくる。それを全部一度に思い出したよ」
「僕は…」
 ジンはユウヤの手を軽く握り締め、息を整えた。
「君があの温室の真ん中に立つのを見て…」
「うん」
 いや、今日だけではない。
 ――僕は、君のことを……、
 顔がくしゃりと歪む。
「…あの温室を花でいっぱいにしよう」
 掠れた声でジンが囁くと、ユウヤはまた、うん、と答えジンの背中に頬をすり寄せた。ジンは廊下の壁にごつんと自分の額をぶつけた。
「どうしたの…?」
「いや…」
 顔を上げたジンは苦笑し、軽くユウヤを振り向いた。
「これから引っ越しの準備で忙しくなるな」
「本当だ…僕たちは引っ越しをするのは初めてなんだ」
 ダンボールの中に生活の品、思い出の品を詰めて、新しい場所に出発する。エンペラーも、ジャッジもいないけれども、今度の二人はそこに詰め込むものがある。それも、思いの外たくさん。
 手をほどいたユウヤを自分の腕の中に閉じ込めてジンは、キスをしてもいいかと尋ねた。ユウヤは内緒の話をするように、いいよ、と答えた。
 太陽のぬくもりの残る手がジンの胸に触れる。
「ドキドキするね」
「ああ」
「玄関でキスするのは、初めて」
 最初で最後かな、と言うので、分からないさ、と言ってもう一度唇を触れさせた。
 簡単な夕食を摂って、引っ越しの計画。秋になってしまう前に移ろうと決めた。皿を洗いながらユウヤは水道の蛇口でさえいとおしげに触れた。触れるもの一つ一つが思い出になる。ダンボールに詰められるものも、詰められないものも全部。
 ジンは窓から暗くなった通りを見下ろした。洗い物を終えたユウヤが手を拭きながら近寄るのが背後に映る。二人は鏡のように映った窓ガラスの中で微笑みを交わし、しばらく黙って見慣れた裏通りの景色を眺めた。八月の夕闇。空を覆う雲の腹がいつまでもオレンジ色に燃えて、照り返しの下に息づく街。昔ながらの看板。薄汚れたコンクリートの壁。どれもが生きているかのような色に照らされて…。上の階から雨のようにシャワーの音が降ってきた。