全てが初めての日々 1
夕方からにわか雨が降った。夏空が急に夜のように翳り、あっと思った時には音を立てて降り出していた。ジンは台所でエプロンをかけたところで、小さな窓から通りを見下ろした。今日の帰りは自分の方が早かった。暗くなった窓は少し眉を寄せた自分の顔を映す。 ユウヤは少し濡れて帰ってきた。 「レインコートは?」 「すぐそこだったから」 玄関で上着から滴る雫を払いながら答える。ジンはコンロの火を落とすとタオルを持って駆け寄った。髪を拭いてやろうとすると、ユウヤはくすぐったそうに笑いながら言う。 「自分でできるよ」 そう言いながら、自分よりも濡れたケピ帽や上着の水滴を拭う。ジンが自分を見守りなかなか台所に戻らないので、ユウヤはまた笑う。 「ジン君は心配性なんだ」 「ひどい雨だ」 「すぐに弱くなる。もう少し降るかもしれないけど…」 先にユウヤにシャワーを使わせ、ジンはようやく台所に戻った。ユウヤの言った通り、雨は降り出した時と同じように急に弱まり霧雨になった。外は薄暗いままで、夕飯のテーブルがよく見えない。少し考えたジンが戸棚からキャンドルを取り出す。 いつかキャンドルの明かりで乾杯をする時が来るかもしれない、と思ってこっそり購入していた。想像していた、いつか、ではなかったが、小さな炎の照らしだす食卓は暖かく、急な雨に降られた夕のテーブルとしては悪くない。 ろうそくの柔らかな光に照らされた食卓をユウヤは 「素敵だね」 と言った。 その一言に、ジンは喜びと共にユウヤをテーブルへ案内した。 静かな雨音の上にナイフとフォークの音が踊る。まだ平日だが、とジンはワインを注いだ。 「何に乾杯する?」 ユウヤは尋ねる。ジンは考えた。テーブルの上のキャンドル。美味しいと言ってユウヤが完食した空っぽの皿。キャンドルの炎が揺れると、二人の影も揺れる。ユウヤの艶やかな濡れ髪が光る。もう四十の半ばを越えたのに、その黒髪は若い時分の艶やかさを失わない。炎の揺れた須臾の間に、ジンはそれに見惚れる。街の屋根を走る遠い波音のような霧雨が、鼓膜をそっと叩いて。 「…雨に」 短く言うと 「雨に」 とユウヤも繰り返してグラスの縁を触れ合わせた。ワインは赤。シュトゥットガルトのビルから見えた、あのブドウ畑が作り出したものだ。 そうだ、とグラスを置き、ジンはポケットから封筒を取り出した。 「招待状をもらっている」 「招待状…?」 「ザリガニパーティーだ」 スウェーデンに住んでもう二十年以上になるが、名物とも言えるこのイベントに二人は参加したことがない。最初の半分はおとなしくおとなしく身を潜めるように暮らしてきたので、あまり浮かれることがなかった。それからの十年は改めてこの国に暮らす人間として馴染んでいったけれども、ザリガニパーティーと言えば家族単位で催されるのが主だ。せいぜい食卓にザリガニを並べてみる程度だったが…。 「工場長が、君も連れて来いと」 「僕も…?」 「家族は連れてくるのが当然だと言われた」 二人の関係に家族という言葉を使うと、ジンはいまだに新鮮な驚きを禁じ得ない。自分たちは現実の中に生きている、一つ屋根の下で生活し、その絆が周囲からも認められているということに、現実が手を伸ばして自分の胸に触れた気分になる。 「…喜んで」 ユウヤは招待状を胸に抱く。じわじわと微笑みがこみ上げ、頬が紅潮する。 その夜は二杯目まで飲んだ。乾杯は工場長に。 食事が終わっても立ち去り難いらしく、ユウヤは頬杖をついてキャンドルの炎を眺めている。そのままうとうとしてしまったので、濡れ髪では風邪をひいてしまうと起こそうとした。しかしジンにはできなかった。テーブルの向かいに座り、ユウヤのうたたねを見つめていた。寝顔が微笑のように見えるのはキャンドルの明かりのせいだろうか。 「…本当は奥さんを連れて来いと言われた」 眠った頬の上に囁きかけるように、ジンはそっと告白した。 「今でも不思議な気分だ。君を表す言葉が見つからない。僕らはもう二人きりの家族だ。工場長が言うように君は恋人かもしれない。少し妙な気持ちになるが、奥さんなのかもしれない。確かに僕らはつがいだ。君なしに僕は在り得ないし、君もそうだと言ってくれる。僕らの人生は二人で一つだ。僕の人生そのものである君を……何と呼べばいいだろう」 キャンドルの明かりの下に投げ出された手の指先に、自分の指先をちょっと触れ合わせる。すっかりごつごつしてしまった自分の手と違い、ユウヤの手は今も白く爪の先まで綺麗だ。 そういえばユウヤのことを最初に天使と呼んだのは工場長だったな、と思い出し、ジンは一人で微笑んだ。 工場の裏手に社長と工場長の兄弟の家は並んでいて、広い敷地の庭でパーティーは行われた。庭は緑に囲まれ、すぐ側に工場が建っているようにさえ見えない。八月の遅い夕闇が近づくと、木々に吊るしたランタンが灯された。マン・イン・ザ・ムーンを描いた伝統的なランタンだ。 着いて早々、ユウヤは女性たちに囲まれた。ユウヤのことは郵便配達夫としての彼を知る工場長の娘が前々から話をしていたらしく、夫人たち、幼い孫たち、それに同僚の工員が同伴した女性までユウヤに目を奪われた。当の本人はパーティーの場では恒例である、ザリガニの絵の描かれたペーパークラフトの三角帽子を被って、やはり紙製のエプロンを着け、その恰好が気に入ったらしくいたくご満悦だ。 「ありゃ本当にお前と同い年か」 工場長はもうすっかりスウェーデン語で話しかける。 「そうです」 ジンもスウェーデン語で答える。 「アレだな、アレ、若ぇな」 「僕らも別段年寄という訳ではありませんが」 「いや、あれは若ぇだろ」 優男だよなあ、アレだ、イケメンってやつだ…と呟いた工場長は突然、浮気するんじゃねえぞ!と叫んだ。皆が目を丸くして振り向く。するとそれに対し夫人も、知りませんよ!と大声で叫び返した。 ユウヤは工場長夫人とその孫娘に挟まれザリガニパーティーのマナー――汁は音を立ててすすること!――を伝授されている。結局パーティーに参加した二十人超の人間のうち半分のハートを射止めてしまい、ジンの同僚からは嫉妬の視線を浴びたが、ユウヤはなんのその。テーブルの向かいに座っているジンを見てニコニコしている。 出されたザリガニは社長の友人が獲れたてを送ってくれたのだそうで、今までジンが料理したものよりも数倍美味しかった。 何杯目かのシュナップスが行き渡った時、工場長が立ち上がって咳払いをした。 「俺と社長から大事な話がある」 齢八十をこえた工場長だ。数年前には長年アメリカの自動車工場に勤めていた息子も帰ってきて、一緒に仕事をしている。近々こういう発表があるとは予想していた。だから家族だけではなく、従業員とその家族も呼んでのパーティーだったのだ。 「俺たちもアレだ、歳でな、こんな風に言葉を思い出すのも大変で、そんなジジイがいつまでも上にいたんじゃお前たちも働き難いだろうと…まあ、そういう話だ」 「兄さんとも話し合ったし、皆とも面談をさせてもらった。で、我々の出した結論だが経営は兄さんの息子に任せようと思う」 「てめえ、工場潰したら承知しねえからな!」 工場長はアメリカ帰りの息子を指さして怒鳴る。 「で、だな、現場だよ現場、俺はこっちが気になって夜も眠れなくてよ」 「嘘ばっかり」 向かいの席から夫人が茶々を入れる。皆がどっと笑ったが、ほらほら静かにしねえか、と宥める工場長の視線は真剣だ。 「俺は若い頃から玩具を作ってきた。LBXが出てきてからはワクワクしたもんさ。もう結構な齢だったが、楽しく仕事させてもらったぜ。俺ぁな、そういう工場であってほしいんだよ」 その目がジンを見た。 「なあ、ジン」 「……え?」 「工場を頼む」 老人は背筋を伸ばすと両腕をぴしゃりと両脇につけ、腰を折った。隣に立つ社長も、ジンの顔を見て深く頷く。 「後継を任されてくれるかい、ジン」 日本式のお辞儀。 ジンは驚いていた。しかし戸惑いや狼狽はなかった。工場長の言ったとおりだ。LBXが好きだ。離れても離れられない。仕事として、これ以上に懸けられるものなどない。海道義光から手ほどきをされたあの日から、バンと戦ったあの日から、海を渡り狭いホテルの天井を見つめて決意したあの日から、炎上する別荘に燃え尽きゆくエンペラーとジャッジの姿を見つめた時でさえ、ジンはLBXが好きだった。この気持ちは負けない。この気持ちは消えない。 立ち上がり、同僚たちの目を見る。自分を信じる目がそこにある。社長と、それから顔を上げた工場長の目を見た。 「力を尽くさせてもらいます」 ジンも日本式に頭を下げ、そう言った。 途端におめでとうの嵐。乾杯し、乱れるようにグラスを打ち合わせ、度の強いシュナップスを飲み干す。社長と工場長の二人が歌い出す。工場長の娘がヴァイオリンを持って来て、それに合わせて弾き始めた。 立ち上がった人々が自然と輪になる。老兄弟が手拍子をかける。一、二で曲はアップテンポに。輪になった人々が踊り始める。フォークダンスだ。ジンとユウヤもあれよあれよと言う間に輪の中に引き込まれて踊った。踊り方を知らないユウヤに工場長の孫娘が手取り足取り教える。ジンは「まあ、いっちょ頼むわ」と酔いで顔を赤くした工場長に手を取られた。 踊りながらジンは、ユウヤの笑い声を聞いた。たくさんの笑い声が途切れることなく続き、繋がり、輪を作る。ユウヤの笑い声を聞いて、ジンも笑った。 それほど飲むつもりはなかったが強い酒に思いの外足下を覚束なくさせられたジンは、ユウヤに支えられながらアパートに戻った。千鳥足だったが、足は軽いのだった。身体の内側に笑いの余韻が残っている。今にも再燃したそれが溢れ出しそうで、ジンは始終頬を緩ませた。 台所に一直線。冷蔵庫から取り出した冷たい水を飲む。それでも足りなくて、水道の水でおかわりをした。 「飲み過ぎだよ、ジン君」 「水を?」 「どっちも」 「君だって同じ数だけグラスを空けたはずだ」 ジンは空っぽのガラスのコップを差し出す。 「君は平気なのに、僕だけが酔っ払うなんて…」 「僕の身体は特別製だからね」 ユウヤはコップを受け取り、自分も水道の水を飲む。 「お蔭で無事に帰ってこられたよ?」 「そうだな」 ユウヤの言葉にジンは失われかけた表情を崩した。 「君まで酔っ払ったら、二人でイェータ川に落ちていたかもしれない」 「溺れちゃうね」 二人は声を上げて笑った。笑いはなかなか止まらなくて、床下と天井から同時にドンドンと抗議の音が聞こえた。二人は一瞬笑いを収めたが、またくすくすと笑い出した。 「ねえ、ジン君」 ユウヤが手を伸ばし、ジンの両手を取る。 「僕、生まれて初めて踊ったんだよ」 ジンは白い手を握りしめた。生温かい、夏の体温と、アルコールで速度を増した血流。その手を取ったまま、ジンはくるりと身体をターンさせる。二人の立ち位置が変わる。 「初めて…」 「さっきは一緒に踊れなかった」 「ダンスを…」 と囁きながらジンはユウヤの身体をホールドする。 「…これも初めて」 耳元でユウヤが囁く。 「一歩、左に…」 「左…」 「もう一歩…」 「もう一歩…」 「一歩下がって……」 ジンは静かに囁きユウヤを誘導する。ゆっくりとした、たどたどしいワルツ。 「ジン君、お願いしていい?」 「何だ」 「もう一回」 狭いキッチンで、キャンドルに火を灯して、短い夏の夜の下、二人は初めてのダンスを踊る。時々、ユウヤの中から感情がこぼれだして、小さな笑い声になって落ちた。それには階下の住人も文句を言わなかった。ジンはそれを誰にも聞かせたくなかったくらいだ。 「もう一回」 ユウヤが囁く。スローワルツは夜中まで続く。 |