30年後の夏の日







 火曜日だった。
 夏至を過ぎて夕方の空は昼のように明るい。石畳の道には平日だと言うのに人が溢れていた。仕事帰りのビール、忙しい夏の一日を過ごした後のカフェ。誰もが喉を潤す何かを求めていた。街路樹が影を落とすと、そこで立ち止まり息をつく。それから馴染みの顔を見つけては肩を叩き、店に入っていく。その横をすれ違い、ユウヤは坂を下る自転車のスピードで郵便局に戻る。
 何人かが一緒に飲まないかと誘ってくれたが、微笑でそれを断った。今日はジンの帰りが早いから、きっと腕によりを掛けて夕飯を作りユウヤの帰りを待っているはずだ。建物を出て、自分の自転車に跨がる。早く帰りたい。
 しかし自転車は急に停まった。わずかも行かないうちにブレーキが引かれた。両足が石畳の道に下りる。ユウヤはケピ帽の庇を少し持ち上げ、自転車の前に立ちはだかった人影を見た。
 明るい陽の下に、その人影は不気味でもなく、ただ姿を現した。褪せた金髪かと思われた髪は元々色素の薄い茶色の髪に多くの白髪が交じっているからで、顔立ちも東洋人のものだ。目の下に薄く浮いた隈や白髪のせいで齢をとって見えたが、自分より少し上なだけだとユウヤには分かる。その人物に見覚えがあったからだ。
 否、記憶に刻まれた姿だからだ。決して消えることのない、ユウヤの過去だからだ。
「灰原ユウヤ」
 目黒が自分の名を呼ぶのは、四半世紀ぶりのことだった。
 ユウヤは目黒の名前を呼ばなかった。ただし逃げることもせず、ただただ対峙していた。目黒は自分を見つめるユウヤの瞳に何を汲み取ったのか溜息を一つつき、言った。
「話をしたい。どこかに座らないか」
 ユウヤが目顔でバス停のベンチを示すと、目黒は首を振りまた溜息をつく。
 すぐ側には人の溢れるカフェがあった。どこも満席だ。
「分かった、少し歩こう」
 踵を返そうとする目黒に、ユウヤは口を開く。
「僕がついて来ると思っていますか」
 目黒はハッとしたように振り返り、悔しさと羞恥の入り混じった顔をした。目の下に残った隈。目元の皺は年齢以上に深い。髪も白髪交じりなだけでなく、既に薄くなっているのが分かった。かつて黒木がユウヤとジンの目の前に現れた時も、その不健康そうな顔立ちが目についた。目黒の手が汗を拭う。指先には青黒い染みがある。
 いまだに携帯電話もCCMも持たないユウヤはアパートで待つジンへの連絡手段がない。もし目黒が自分を連れ戻しに来たのだとしたら――もう四十歳を過ぎた自分にどんな科学的価値があるのかは分からなかったが――それをどう伝えたらいいのだろう。
 だが、本気で心配した訳ではなかった。それよりも夕飯が冷めてしまうだろうことの方が気にかかった。
「僕は君と話す必要がある」
 目黒は繰り返す。
「そのためにわざわざスウェーデンまでやって来た。黒木に言うと、あいつは止めた上にひどく怒って、僕がスウェーデンに行ったら明日の会見には出さないとまで言った。それでも僕は来たんだ。僕の気持ちを汲んでくれ」
 自分をまっとうな人間として扱わない研究を続けてきた彼の口からそんな言葉が出るのは、ジンであれば何らかの気の利いた言葉を返したかもしれないが、ユウヤにあるのはごくシンプルな答えだけだった。
「僕は早く家に帰りたいと望んでいます。だから、あまり時間はとれません」
 自分から気持ちを汲んでくれと言いながら、ユウヤの応えに目黒は驚いたようだった。四半世紀を隔てて、目黒は自分の知らない、その肉体に仕草に言葉に心を持つようになったユウヤを見た。
「少しでもいい」
 敗北を認めるように彼は言った。
 ウェインズコーヒーの青い看板の下をくぐる。ユウヤは自転車があったので広場に出された席で待っていた。
 戻ってきた目黒はコーヒーの他にミルクや砂糖を幾つも持って来た。テーブルの上のそれを見つめると目黒はばつが悪そうに呟く。
「君がどんなコーヒーを飲むかなんて、僕は知らないからな…」
「…このままで結構です」
 ユウヤはブラックのままコーヒーに口をつけた。目黒はまた溜息をつくと肩を落とし、自分のコーヒーに砂糖を半分入れた。
「脳に糖分を送らないと…」
 研究者らしいジョークのつもりだったのかもしれないが、ユウヤは返事が返事をしないので目黒は軽く咳払いをして誤魔化した。
「君の居場所は知っていた。十年前に黒木が見つけてくれたから…」
 逃げなかったんだな、と目黒は言った。
「少なくとも同じアパートにはいないと思っていた」
「あそこが僕らの家です」
「僕ら…か」
 目黒は悔しそうに笑う。
「海道ジンの話はいい。僕は君に会いに来たんだ」
「僕はもう戻りません」
「知ってるよ。十年前に黒木がフラレてるからな。僕が言ったって無駄なんだろう」
 そういうことじゃない、こういうことじゃない、と俯きながら目黒は呟く。
「違うんだ灰原ユウヤ、僕が言いに来たのはこういうことじゃない。こんなお互いを壁の向こうから狙うような会話じゃ……。僕は、君と、話を……君に話したいことが…」
 言いたいことがあったんだ、と呟き目黒は沈黙した。
 砂糖半分のコーヒーを目黒は舐めるように飲む。熱いものが苦手なのかもしれない。ユウヤはもう一口コーヒーに口をつけ、広場の中央に建つ時計を見た。いつもならアパートに着いている時間だ。
「赦してくれとは言わない」
 絞り出すように目黒は言った。
「僕は自分のやっている研究が正しいものだと信念をもってやってきた。だから後悔はしていない。しかし……本当は君に赦されたいのかもしれない。僕は誰よりも君の身体を見てきた。だから…」
「違います」
「え?」
 不意にユウヤが言葉を挟むので、目黒は虚を突かれたように目を点にした。
「誰よりもではありません。僕の身体を世界で一番知っているのはジン君です。あなたじゃない」
「は……」
 その科白を聞いて目黒の顔は何故か泣き出すかのように歪み、は、は、と乾いた笑いが無意味に漏れた。
「ジン君、か……。海道ジン…」
 彼の話をしにきたんじゃないのにな、と目黒は俯き加減に頭を掻く。青黒い染みのついた指先が神経質に髪の薄くなり始めた部分を掻いた。
「でも僕は今日まで、今まで、僕こそが君を一番知っていると思ってきた。君のことは毎日、起きている間はほとんど見てきた。体温も脈拍も心拍数も脳波も血管収縮率も全部…。あの頃からだ。十三歳の君と出会った頃からずっと。加納先生がいなくなっても…」
 ふと大事なことを思い出したかのように目黒は姿勢を正す。
「加納先生は亡くなられたよ」
 ユウヤは黙って相手の目を見つめた。
「もう何年も何年も昔のことだ。判決が下りる数日前だった。心筋梗塞で…急なことだった」
 テーブルの上に沈黙を載せたように、しばらくそれは去らなかった。ユウヤは顔色を変えることもせず、何一つリアクションを見せなかった。目黒はそんなユウヤをじっと観察しているようだったが、不意に視線が逸れた。視線はユウヤのコーヒーを持つ手や、傍らに停められた自転車に移った。
「赦してもらう資格は、僕にはない」
 本来の落ち着きを取り戻した声で目黒は言った。
「そんな虫の好いことを考えてはいない。でも僕は君に是非会っておきたかった。会わなければならなかった。二十五年前、君は僕たちを裏切り海道ジンと一緒に逃げた。あの時は憤りもしたが、それでも…それだからこそ強く実感したことがあった。だから黒木が君を見つけ出した時、生きているならば君に伝えなければならないと思った」
 目黒は真っ直ぐにユウヤを見つめた。
「僕はもう二度とここを訪れないだろう。君に会うことも二度とない。だからもう少し時間をくれ」
「…一体、何のための時間ですか」
「灰原ユウヤ、僕は君が生きていてよかったと心の底から思っている」
 テーブルの上で両手を固く組み、目黒は言った。
「三十年前のアルテミス、目の前で暴走を見て、それでも僕が研究を続けたのは君が生きていたからだ。君が生きていたからこそ、僕は本当に研究者になろうと思った。加納先生への憧れだけではない、人類の革新という夢だけではない、君という存在がいたからこそ僕は諦めずに研究を続けることができた。それを君は拷問だと思うかもしれないが、僕にはこれが大事なことだったんだ」
「…僕にはよく分かりません」
「ユウヤ…」
 目黒が手を伸ばして触れようとするのを、ユウヤはテーブルの下に手を引っ込めて避けた。それを見て目黒はまた俯いた。手はずるずるとテーブルの上を引き下がった。
「この齢でまだこんな気持ちを抱いているんだ、おかしいだろう」
 やはりユウヤが返事をしないので、目黒は自分で乾いた笑いを漏らし、この話題に終止符を打った。
 ユウヤが立ち上がると、目黒はそれを追うような仕草を一瞬見せたが、テーブルの上で手を拳に握り耐えたようだった。ユウヤは自転車に跨がって広場を去った。その後、目黒がいつまでもテーブルで項垂れていたのも、半分だけ残ったコーヒーのカップの縁に赦しを乞うように触れたのも、タクシーを呼んで永遠にスウェーデンから立ち去るのも見なかった。ただ家を、裏通りにある古アパートの三階を目指した。
 ジンはアパートの入口まで下りて待っていた。
「…どうしたの、ジン君」
「いや、あまりに遅いから何かあったのかと」
「ごめん、心配かけて」
 ユウヤはジンに目黒のことを話さなかった。茹で時間もソースの味も成功したポーチドサーモンを食べ、片付けの皿を洗った。そして上の階のシャワーの音を雨音のように聞きながら、ジンの爪を切り揃えやすりをかけた。
 機械を扱うジンの手。機械油が爪の所に黒く染みている。ユウヤはやすりをかけ、滑らかに磨かれたジンの爪の先を撫でる。
「君の手が、僕は好き」
 ぽつりと呟くと、突然の告白にジンが真っ赤になった。
 ユウヤは自分の白い掌を、ジンの掌に添わせ、滑らせる。シャワーの音は雨のように降ってくる。好きな音に包まれて、好きな手に触れる。皮膚の内側をゆるやかに満たす快楽に、ユウヤはそっと溜息をつき、微笑んだ。

 その発表は午後一時から生中継をされるということだった。
 工場は昼休みを延長し、全員で事務所のテレビ前に集合した。
「新作のLBX発表にしちゃあアレだな、アレ」
 そろそろ齢八十を迎えようかという工場長が髭を扱きながら言う。
「なあ、ジン、アレだろ」
「アレとは何ですか」
「アレだよ、アレ、大変なことだってんだよ」
 果たしてテレビに映ったのは、この発表を行うというエンペラー社の社長、研究者だけではない、LBX倫理委員会も同席の上…。テレビの前の誰もが静かになった。そこにはヘッドギアを装着した車椅子の少女で、年の頃は義務教育も終盤の十代ではなかろうか。
 新世代CCMの発表会見。
 デモンストレーションのプレイヤーはこの少女に違いなかった。
 時間となったことを司会者が報せ、エンペラー社のCEOがまず口を開いた。
 西原誠司。白髪交じりのオールバックは品が良く、聡明そうな額の下から意志の強そうな目がテレビのこちら側を見据える。
「これは待ち望まれた技術です」
 はっきりと、彼は言った。
「LBXはこれまでも多大な技術革新に貢献してきました。それは子ども達に愛されたホビーが私達の住む世界に密着し、深く浸透したものだからです。そしてここに完成した新型CCMは、まさに人の歴史を革新するものです」
 革新という言葉を西原は意図的に用いたに違いなかった。ジンはテレビの向こうの西原をじっと見つめた。自分の信じた男を。
「我がエンペラー社は創立以来、全ての子どもに夢をという信条を掲げ、研究開発を続けてきました。CCM操作が困難な人々にも同じ楽しみをと我が社が開発してきたCCM、そしてLBXは医療のリハビリテーションの現場や、福祉施設で今も活躍しています。しかしその上で我々には無視できない一つの技術がありました。それがCCMスーツ、そしてサイコスキャニング技術です」
 いったん言葉を切り、会場が静まるのを待つ。
「この技術に関して、一定以上の世代には強烈な記憶が残っていますし、LBXの起こした痛ましい事故の一つとして今でも有名です。そう、三十一年前のアルテミス第三回大会決勝の場である十三歳の少年を被験者に実戦投入されたCCMスーツは暴走し、少年の命を危険に晒しました。以来、この技術はタブー視されてきましたが、果たしてそれでいいのでしょうか。生まれた力がただただ危険だと封印される、そのことこそが危険ではないのか。昔から言うように技術を善き方向に導くのも悪用するのも人間です。我々は前者を選択することにしました。そして人は意志の力でそれを選び実行することができるのだと実証するためにも、完成に十年という時間をかけたのです」
 車椅子の少女が前に出る。彼女の膝の上はクノイチが立っている。暖色の可愛らしい色に塗装されたそれは、少女の膝の上でふわりと舞うようにお辞儀をした。
『記者の皆さん、このテレビを観ている世界中の皆さん、こんにちは。私の名前はエリーゼ・アッシェンバッハ。赤ちゃんの時、病気で高熱を出した後遺症で身体が自由に動きません』
 その声はわずかにアクセントの癖があるものの生身の、滑らかなドイツ語として聞こえた。
 しかし。
『そしてこれは私のアシスタントで相棒、クノイチのミレーヌです。ミレーヌは私が考えていること、私の心をこのヘッドギアの内側につけられたCCMから感じ取り、声に出してくれます。あっ、間違えた。私がつけているヘッドギアは私の頭を守る為のもので…』
 膝の上のクノイチがあたふたと慌てる。西原は椅子を下りて、少女の肩に手を置く。
「落ち着いて。慌てなくても皆待ってくれていますよ。何十年も待ちわびたんですから」
『でもセージ、せっかく原稿を作って何度も何度も練習したのに本番で間違えるなんて…それが世界中に放送されちゃっているだなんて、恥ずかしいわ!』
 クノイチは身をよじらせて訴え、車椅子の上から少女も視線を西原に向ける。西原はにっこり笑って、残念ながら、と言った。
「今の私たちの会話も全世界に放送されているのですよ」
『きゃあーー!』
 クノイチは少女の膝の上からジャンプすると西原の背後に隠れ、連動するように車椅子が後ろを向く。
「えー、このように…」
 西原は笑いながら、彼女の言う予定だった言葉を続ける。
「彼女のヘッドギアは不安定な首、頭部を守るために日常的に装着されているものです。彼女の場合CCMスーツは装着による負担が少ないよう、ヘッドギアの内側に内臓されています。CCMキャップとでも言った方がいいでしょう。事実彼女のような症例の子どもたちには帽子のように被るタイプが合うようです。CCMスーツは脳波や神経パルスをLBXへの信号に変換して動かす技術ですが、エリーゼが説明してくれた通り、このクノイチは彼女の心の動きを読み取って動いています。これがサイコスキャニング技術です。この技術により、LBXはより繊細でエモーショナルな動きが可能になり…」
『私はね!』
 西原の肩に乗ったクノイチは…、少女の心は言った。
『いつも、みんなとお喋りしたいと思ってたの。私だってテレビを観るのよ。アイドルの音楽を聴くのよ。でも、みんな私がなめらかに喋れないから、そういうことも考えられないんじゃないかって思っちゃうの。だって私が喋るのにはとても時間がかかるし、私は喉が引き攣っちゃって、上手く喋れないんだもの。私はここにいるのに、私とみんなの間には透明な壁があるみたいだった…。でもミレーヌは、私が考えていることを喋ってくれるの。みんな、見てる? クララ、マリー、ソフィア、みんな見てる? これが私の声なの。これは本物の私の声なのよ。私こんなことを考えてるの。これからはみんながうるさいって思うくらいに喋るわ!』
 車椅子がこちらを向いた。少女は顔を真っ赤にし、歯を食いしばっていた。何かを喋ろうと興奮しているが、肉体がついていかないのだ。しかし彼女は、時間をかけニコッと笑った。
『内緒の練習を続けてきたのよ、もう何年も…!』
 記者達の間からじわじわと湧き上がった拍手は自然に生まれたものだった。拍手の間中、少女はまた顔を真っ赤にして、しかしその目がきらきらと輝くのをジンは見た。
 再開した説明はCCMスーツの技術的なものに入り、研究者がマイクを握り、ようやくカメラに向き直った少女とクノイチと共に話を進めた。ジンはチームリーダーのすっかり老いた顔を見つめた。何も言わず彼らの前から忽然と姿を消して二十五年、四半世紀の時が流れた…。
「脳波で動かすLBXか…」
 工場長と社長――二人は兄弟だ――がまったくそっくりの仕草で髭を撫でながら、テレビに釘付けになっている。
「あのCCMスーツってのは、もうちょっとつけやすいやつになれねえのかな。帽子ったって、ありゃデザインがダサすぎるぜ」
「違いないね。LBXは可愛くカスタマイズされてるけど」
「女の子はやっぱ、アレだ、アレがいいんだな」
「アレって何だよ兄さん」
「アレだよ、可愛いんだよ。可愛いパーツったって戦うには邪魔だろう」
「彼女はバトルをするためのLBXじゃないから、それでいいんじゃないか?」
 しかしその後、デモンストレーションということでバトルが行われ、会場から無作為に選ばれた記者とのLBXバトルに、そのクノイチは勝利する。
「…素晴らしいプレイヤーだ」
 ジンが一言呟くと工場長がちらりとこちらを見た。
 それからLBX倫理委員から安全性に関するレポートがされる。原稿を読み上げるのではなく、自分の目で確かめ吟味した結論としてそれを述べている男は赤毛を短く刈っているが、誰なのかジンにはすぐ分かった。八神。かつてイノベイターで黒の部隊の司令官だった男、八神英二。トキオブリッジ倒壊事故で家族を亡くし、イノベイター事件ではLBXが人を傷つけるのを目の当たりにした、力の悪用を身に染みて知っている人物だ。
 最後にもう一度、西原がマイクを持った。
「CCMスーツ、サイコスキャニング技術が世界に公表できる技術として、我々が開発に着手して十年、それ以前の研究を含めれば三十年もかかりました。しかしそれは必要な時間でした。研究開発に携わる全員が、私も含め毎日のように医療や福祉の現場に通いました。今回テストプレイヤーとして協力してくれたエリーゼを初めとする十五名の少年少女たち、そして身障者協会や各団体の皆さんの言葉に耳を傾け、進みが遅々たるものであっても根気よく研究を続けてきました。これはエンペラー社が創立当初から続けてきたことです。実際にLBXを使う子どもたちの笑顔のためにも、生の声を聞き続けること。そして私は知りました」
 西原の目がジンを見た。
 テレビの向こうから真っ直ぐに、ジンを見つめた。
「力を善の方向へ導くのが私の使命だと思っていた。しかし実際に導いてくれたのは実際にCCMスーツを身につけ、LBXを動かす彼らです。彼ら、彼女らの中に未来への思い、希望があるからこそ、CCMスーツとサイコスキャニング技術は善き未来に導かれたのです。それは今LBXを動かしているのと同じもの、私にこの技術開発を託した人々の胸にあるもの、私たちの誰もが持っているもの、心です」
 その後の質疑応答では、まだこの技術を一般普及に至らしめるには高額であること、そのための法整備が進められていることなどが話され、町工場の長い昼休みは終わった。
「ジン」
 工場長が呼び止める。
「お前たちも新しいもん作っていかねえとなあ」
「あなたも一緒にですよ、工場長」
「いや、オレはもう齢だもんよ」
 ジンの背中を叩く手はゆっくりとしていて、まあ、そういうこっちゃ、と言い残し老いた背中は機械の向こうに歩いて行く。機械油で真っ黒の背中を見ていると、ジンもこの町工場にいる実感が蘇り、少しホッとした気分になった。
 翌週から二週分のLBXマガジンは新世代CCMであるCCMスーツとサイコスキャニングモードの特集だった。あの時のアルテミスに言及されるのは避けられなかったが、しかしジンはそれを買って帰った。
 そこには研究者のインタビューも掲載されており、その中には黒木の言葉があった。西原は黒木と目黒をエンペラー社に迎えていたのだ。
 私は自分の研究を信じ、続けてきた。完成までの間、信念は揺らぐことはなかった。
 黒木の言葉は短くそれだけで、顔写真も載ってはいなかった。
「後悔はないんだろうな、黒木」
 ジンは呟く。
 おそらく黒木は今でもユウヤへの長年の仕打ちは正当化されるものだと信じているのだろう。しかし西原の言った通り、この力はもう善の方向へ引っ張られている。希望によって描かれる未来に。時計のネジは誰にも巻き戻されることはない。今のユウヤの手は優しく花を花瓶にいける。全てを拒絶しようと、破壊しようと真っ直ぐに伸ばされるだけだった手が、柔らかく曲げられて…。
 ジンが手を伸ばして触れるとユウヤは、なに、と小さな声で尋ねた。
「僕も君の手がいとしい」
 白い、少しひんやりした手をとって、その指先にジンは口づけを落とした。