30代編 4
時計の音が時を刻む。確実に時間は流れているのだと教えてくれる。しかしカーテンに濾されたオレンジ色の仄暗さの中、ベッドの横たわるジンは琥珀の中に閉じ込められた虫のような気分だった。粘度を持った空気が膠着し、自分をこのまま現実と絶望の隙間に閉じ込めてしまうような。浅く息を繰り返し、オレンジ色に照らされた天井を見る。 普通の生活を手に入れたと思っていた。同じベッドで目覚め、朝食を食べるとユウヤが笑う。二人で過ごした年月を確かめるように黒い髪を梳き、それぞれ仕事のための服を着る。昼は労働に勤しむ。それで金を得て、食事を得、ただいまを言う部屋で二人一緒に眠ることができる。 当たり前の生活。 人間らしい生活。 本当の人生を生きるということ。 黒木の言葉には破壊力があった。当然だった。彼は確かに優秀な観察者だ。一体どのような手が、どのような言葉が最大の攻撃力を発揮するかを分かっている。ユウヤと、それにジンの二人をしっかり見ているからだ。ジンのことを理解できないと言い、恨みと憎悪のこもった目を向けながら、裏返せばこの男は他の誰よりも二人のことを理解しているのかもしれない。 十九歳だった晩秋のあの夜、ジンは全てのものを捨てユウヤの手だけを掴んだ。海道ジンが消えるということはどういうことか理解していなかった訳ではない…と言いたいところだが実際はどうだったろうか。黒木の言う通り、自分は愚か故に現実から逃げ出したのか。 ――僕にとってユウヤは…。 心の奥。魂の一番重要な場所。そこで静かに守り続けてきたものの、ユウヤは象徴だ。黒木の言葉に惑わされることはない。これはジンにとっての真実なのだ。 しかし彼の言葉が真実の一側面であることも事実。エンペラー社の、自分を信じてついてきてくれた社員たちの顔を思い出すと傷痕がまた破られて抉るような痛みが蘇る。自分の肩には彼ら何百人の生活がかかっていた。それをジンは無残にも放り出した。 ――これら全ての痛みを引き受ける覚悟をして、僕はあの炎の中に海道ジンを捨てた。 決断の時は人生に一度とは限らない。 ジンは隣に横になるユウヤを見た。ユウヤはベッドに棒のように真っ直ぐに身を横たえ、胸の上で手を組んでいた。瞼は閉じているが眠ってはいない。静かに、ゆっくりと呼吸している。 イェーテボリで暮らして、もう十年以上になる。工場では機械を一つ任されているし、ユウヤも坂の町では郵便屋さんとしてすっかり馴染みの顔だ。シャワーやテレビの音がうるさくていつも管理人から怒られている上の階の住人、窓枠にたくさん花を咲かせた隣の部屋の住人、ジンには厳しくユウヤに甘い管理人、隣のビルの食堂、スーパーのレジ…、数え上げれば次から次へと顔が浮かんできてきりがない。それほどにイェーテボリでの生活はジンの身に馴染んだものだった。 居心地のよい生活。 ――それは認めよう。 たくさんの思い出がつまったあの街。 ――僕は…あの街が好きだ。 否定できなかった。 しかし。 「ユウヤ」 呼ぶと薄く目が開き、ジンを見る。 「次はどんな場所に行きたい?」 「…ジンは後悔してないの」 「何を」 「僕がいなかったらって思ったことはない?」 ジンは首を横に振った。 「ユウヤがいなかったら…僕の魂の一番大事なところは欠けたままだったろう。十九歳のあの時、再び巡り会った君を手放していれば、死ぬよりつらい苦悶を味わったに違いない。君がいないこと以上の苦しみはない」 後悔などするものか、と言うとユウヤがじんわりと目を閉じた。 「ジン……」 吐息のように名前を呼ばれる。ユウヤはジンの方に寝返りを打ち、腕を広げた。ひんやりとした手がジンを抱く。 「…少し、震えてるね」 「そうか…?」 「腕が震えてる」 「そうかな…」 ユウヤに抱かれたままジンは苦笑する。 「君が恐いことを言ったからかもしれない」 「恐いこと…?」 「自分が盾になるという…」 そう口に出すと、改めてユウヤを失う恐怖が襲う。抉られた傷の反対側から、それは今にも噛みついてジンの心の残った部分を喰らい尽くそうとする。機械でできた獣のように、感情もない、冷たい恐怖。 「ジン」 ユウヤの声音が諭すような響きを含む。 「僕も君がいなくなったら生きていけないんだよ」 黒木の言ったことは本当だ、とユウヤが呟くので、そんなことはない、とジンはユウヤの胸を掴んだが、 「そうなんだ」 とユウヤはやはり静かに言った。 「どうして生きているか分からなくなって、きっと息もできない。ママゴトの生活だって言われたけど、僕はそれで構わない。…そう言えばママゴトって何だろう…。僕はジンの真似をして、一つ一つ覚えていく。魚の味も、ジャムが甘いことも、掌に太陽の光を受ければ暖かいことも。僕は毎日が楽しいんだ。毎日、何があっても幸せなんだ。だから急に今日で人生が終わっても、僕は怖くないし後悔しない。それにジンのためならなんだってできる」 「君が死んだら、僕は…」 「僕は君に、君は僕に。僕たちは同じことを言っている」 ね、とユウヤが顔を覗き込んだ。ジンはユウヤの洋服を掴んだ自分の手が震えているのをはっきりと見た。 「ジン、君が約束してくれたみたいに、僕も君を一人にしないよ」 ひんやりと冷たい手が髪を撫でる。静かで穏やかなその仕草が心臓の鼓動を落ち着かせる。嫌な焦燥に身体を駆け廻っていた血液がいつものスピードを思い出し、手の震えが徐々に治まった。 ジン、と内緒話を持ちかけるようにユウヤは言った。 「…する?」 「今…?」 「本当はそのために帰ってきたのに」 ユウヤは腕をほどくと、身体を起こして服を脱ぎ始めた。ジンはユウヤに抱かれた時の格好のままベッドに横たわっている。ユウヤに見下ろされ、ジンは苦笑した。 「すまない…、ユウヤ」 「ジン君ができないなんて、初めてだね」 しかしユウヤは脱いだ服を再び着ようとはしなかった。裸の胸にジンを抱きしめて、それから寝息に近い呼吸をした。 「僕が眠る時の呼吸はね…」 ユウヤが呟く。 「君の息を真似してるんだ」 裸のユウヤの背に手を回し縋りつくと、冷たい手がまた優しく髪を撫でる。 「…泣いてるの?」 ユウヤは尋ねる。 「君も、さびしかったんだね」 冷たい手は二人の体温を溶かして生温く優しい熱を孕む。 「子どもの君に伝えて。泣いている僕の様子を見に来てくれた、あの夜の君に伝えて。君は捕まらないよ。君を恐い目にはあわせない。CCMスーツの被験体になるのは僕の役割なんだ。君は安全だ。だから……ずっと後になって僕を助けに来てくれるんだよ」 ユウヤと呼ぼうとして、それができなかった。喉が引き攣り、声になるものは何もなかった。 「あの時は僕ばかり泣いていたね。泣いてもいいんだよ、ジン君」 自分では気付いているのだろうか、涙声になりながらユウヤは言う。 「僕は君がいとしいよ」 翌朝は空腹で目が覚めた。空腹すぎて、二人はしばらくベッドから起きることができなかった。アパートに置いているそれより広いベッドの上でごろごろと横になり、二人は顔を見合わせる。 「子どもみたいな顔をしてるよ」 「そうか?」 「赤ちゃんみたいな顔」 君は…、と言いかけてジンは言葉を途切れさせた。 カラフルなシーツの上、長い黒髪を広げ、毛布からは裸の肩が出ていた。そこには今も大きな傷痕があった。白い肌の、そこだけ血の色を透かしたような色をしている。ジンは指先で傷の上をなぞった。ユウヤの表情は笑いを含み、ジンの手を掴まえようとする。髪が揺れる。その隙間からいつも前髪で隠れている右の頬や白い耳がちらちらと覗く。 いつか言われた通りだった。自分が頷いた通りだった。 ――ユウヤは僕の…、 天使だと面と向かって口にすることができなくて、ジンはユウヤの手を掴まえて指先を噛んだ。 「…もう駄目だよ」 「どうして」 「朝だよ?」 「休暇で来てるんだ。構うものか」 「でも…」 ユウヤは不意に真面目な顔になる。 「電話をするんでしょ」 いつの間にそれを察したのだろう。しかしジンは慌てなかった。 「時差がある」 「あんまり変わらないよ」 「一分一秒は争わない。それに…」 裸の胸の上に手を這わせ、心臓の鼓動を掌に聞く。 「僕は君の…僕らのために生きると決めた」 ユウヤの心臓の鼓動は、静かな時のジンの鼓動よりもほんの少し早い。 そのことをジンは、肌で触れて直接確かめた。 |