30代編 3







 テラスに射す木漏れ日からは夏の匂いがした。森の梢は穏やかに鳴り、時折吹き込む風は爽やかだ。お茶がお供にあれば、長い夏の午後を過ごすにも快適だろう。しかし目の前の男にはそれを楽しむ気など微塵もないようだった。不機嫌そうに腰掛け、目顔で向かいの席を指す。
「私は立ち上がって出迎えたりはしませんよ。握手もハグも論外です。ほら、座ったらどうですか」
 語調がぶっきらぼうなのはわざと取っている態度に思われた。ジンはこの黒木という男との付き合いは長くない。十数年前、シュトゥットガルトでCCMスーツの開発に携わった、あの一ヶ月程度のことだ。しかし彼の地はこうではないのだろう。彼はもっと冷たく、感情に無関心で、言うなれば研究者気質だ。
 ジンが席に着くと、ユウヤもその隣に座った。黒木は半眼を閉じてその様子を見ていた。ボーイが紅茶を運んでくる。このホテルに来て、二人が毎日飲んでいるお茶だ。その後ろ姿が去るといよいよテラスは三人だけとなり、ジンはわずかに身構えた。
 テーブルを挟んで対峙したものの、黒木は何も言わなかった。相変わらずコーヒーに口をつける様子はなく、それが徐々に冷めていくのが消えてしまった湯気で分かった。
 ざわざわと森が鳴る。風が吹きすぎる。
「何か言いに来たのではないのか」
 ジンが口を開くと、何か、とわずかに口元を歪めて黒木が訊き返す。
「そちらこそ、何か言うことはありませんか」
「何を話せと?」
「こちらも同じ心持ちですね。犯罪者と裏切り者を目の前に何を言えというのかな」
 黒木の指先がこつ、こつ、とテーブルを叩く。
「罵倒されたいですか、断罪されたいですか。そうやって楽にはすまいと決めていた。相応の罰が与えられるということは赦しと同義だ。分かりますよね、海道ジン元社長。灰原ユウヤに執着した挙句こんなことになったのは、海道義光の犯した罪の罪滅ぼしをしようと躍起になったからだ。苦しみの味をよく知るあなたに、救いなんか容易くくれてたまるかとね」
 黒木の指にジンは青黒い染みを見つける。人差し指と中指に。ジンの手に染みているような機械油の染みではない。多分、インクの染みだ。その指がジンを指差す。
「海道元社長、自分がどういう立場に身を落としたのか自覚はありますか」
 ジンが答えないでいると、黒木はにやにやと笑う。
「逃亡者などという甘いものではありませんよ。灰原ユウヤの拐取、世界唯一だったCCMスーツ被験体の窃盗、我々ひいては日本という国に対しての契約不履行の数々…、あの分厚い契約書にサインしたのを忘れましたか。いやそれだけじゃない、社長の突然の失踪がエンペラー社や関連企業に与えた損害の見当がつかない人じゃないでしょう、海道ジン。少なくとも、あなたを信じてついてきた何百という従業員は路頭に迷うところだった」
 日本への損害賠償、研究機関への損害賠償、止まった工場と取引先への損害賠償、エトセトラ、エトセトラ。その他という言葉で片付けるには大きすぎる額が社長を失ったエンペラー社に雪崩のように襲い掛かった。あの時、ろくな場所で寝起きできなかったジンの耳にさえ、それは届いていた。自分はお尋ね者だったのだ。
「責任というものがあるじゃないですか」
 黒木は指先でテーブルを叩きながら言う。
「あなたが負わなかった分の責任は誰に回ってきたのか」
「…赦してもらおうとは思っていない」
「赦そうとも思いませんね」
 テーブルを叩く指が止まり、ぱっと手が開いた。
「私の指が気になる?」
 黒木は自分の指先に染みついた青黒い染みを見た。
「報告書、始末書、そしてなんと反省文というやつを書かされたんですよ。しかも全て手書きで。このご時世に馬鹿馬鹿しい。手書きですよ、手書き。こんな量の」
 親指と人差し指を開き、厚みを示す。
「毎日毎晩寝ずに書きました。目の下の隈はその時の名残です。消えないんですよ、これが。あれで万年筆を三本駄目にした。一生分の文字を書いたと思うな。もう二度とペンは持つまいと決めた程だ。この染みを見るたび私は……いや、失礼、不幸自慢は見苦しいですね。コウスケさんのセリフじゃないが、美しくない」
「愚痴を言いにきたのか」
「その通りですよ。私は研究者としてはまあまあだが、そう出来た男でもないので。この十数年間胸の中がぐらぐらと煮詰めては繰り返してきた愚痴の一言でも本人の目の前で吐き出してやろうとね。が…」
 黒木は薄く刷いた皮肉な笑みを消して、研究者黒木の、かつてよく見た無表情に戻って言った。
「分かっているんだ、私も。ちっとも気が晴れないことくらい。たとえあなた方をこの手で殺しても鬱屈は濃くなるばかりなんだろうってことは」
 お前を見て確信したよ、灰原ユウヤ。と。
 感情のこもらない声で黒木は言った。
「変わらないな」
「僕は……」
 初めてユウヤは顔を上げ、黒木を見た。
「変わった」
「変わっていない」
 ただ事実を淡々と指摘するように黒木は断言する。
「三年間の流浪の果てにスウェーデンのイェーテボリか。裏通りのボロアパート。灰原ユウヤ、お前は海道ジンに所有されてままごとの生活を送っているに過ぎない」
「違う」
「随分自信ありげに言うじゃないか。自分自身の人生を生きていると? そう言いたい訳か。それなら灰原ユウヤ、お前は海道ジンがいなくても生きていけるか。人間らしい生活がどういうものか知っているのか。言ってやろう、灰原ユウヤ。お前は海道ジンがいなくなった途端に、呼吸一つまともにできはしない」
 我々の元にいた時と同じことだ、と黒木は言った。
 喋り疲れたように黒木が溜息をついた。テラスはまた静かになった。誰も、黒木さえも激昂した訳ではなかった。しかし言葉の一つ一つは鉛玉のように発せられ、景色のあちこちに虚ろな穴を空けた。爽やかな夏の午後の森は彼らを取り囲んでいるのに別世界のように遠い。テーブルの上は乾いている。カップは三つとも冷めきっている。
 青黒く染まった指先が動き、カップをつまみ上げた。一口のコーヒーで唇を示し、かすかに顔をしかめて黒木は言った。
「嫌がらせをしに来た訳じゃない。我々にそんな暇はない」
 再び顔を上げた黒木の視線にはじっとりと湿った恨みがこもっていた。
「お前たちは…何故、旅行なんかしようと考えたんだ」
「何故…?」
「何故あのボロアパートで息を潜めて暮らしていない。いつか我々に捕まることを恐れビクビクしながら暮らしていればよかったんだ。どうしてこんな…バカンス向きの島なんかに出てきたんだ、海道元社長。あなたの感覚は全く理解しかねる」
「ホテルに泊まったことで足がついたのか。現金払いにしていたんだが」
「それ以前だ。列車のチケットを取った時から分かっていた」
「ならば何故すぐに姿を現さなかった」
「観察させてもらったんですよ。いきなり実行に移すなんてドジはもう踏まない。被験体を観察、機を見て実行。研究者の基本だ」
「今がその機か」
「あなた方があまりにも楽しそうなんでね。邪魔するには絶好の機会じゃないですか」
 ねえエンペラー社元最高経営責任者にして元最高執行責任者の海道ジン、と嫌味ではなく彼の元々の立場を再確認するように口に出し、黒木は言った。
「あなたは灰原ユウヤへの贖罪には腐心しているようだが、他はまるで放り出して顧みようともしない。エンペラー社がその後、どんな道を辿ったか知っていますか」
「…サイバーランス社」
「そう。あなたもお世話になったサイバーランス社があなたの捨てた沈没寸前の会社を拾った。CPU駆動プログラミングに秀でた社がCCMの操作性が売りのあなたの社を子会社化する。これは奇跡的な確立の幸運としか言いようがない。エンペラー社は潰れずにすんだ。信念を持って作り続けたLBXの工場を再び動かすことができた。現在、あの椅子に誰が座っているか…」
「西原誠司」
「ほう」
 知ってましたか、と黒木は片眉を吊り上げる。
「野心家だが信頼できる人だ」
「そこにいちいち逆接の接続詞がつく理由が分かりませんね。西原氏の采配は経営に素人の私から見ても素晴らしいですよ。エンペラー社は社長が失踪、お尋ね者になるという大スキャンダルを乗り越えて、今ではあの頃以上の活躍を見せている」
 日本で最後まで使っていたLBXはサイバーランス社がジンのために作ったゼノン。それを与えた男、西原誠司。アルテミスの会場でエンペラーM2が自爆し、相棒を失った時。そして自分の築いたエンペラー社の命が風前の灯だった時。彼は二度の危機を救ってくれた。西原に言わせれば一度目は世界最高レベルのプレイヤー海道ジンによるLBX操作のデータ欲しかっただけで、二度目は自分の野心を果たすチャンスであったに過ぎないのかもしれないが。
「言い訳をしなければ、感謝もしないんだな、海道ジン」
 世界的に指名手配をされた男が、十数年前の事件では諸悪の根源となった男が沈黙を守ったままなのを、黒木は諦めきったように見た。
「冷静沈着なプレースタイルは変わらないという訳か」
「これはゲームではないだろう」
「当然」
「ならば本題に入れ」
 ジンは冷たい視線で黒木を貫く。
「僕らの罪悪感と良心を刺激して、お前は何を成し遂げようとしている」
 自分で言ったように黒木は暇ではない。既に分かっていることをねちねち言うためにここを訪れるなどとは考えられなかった。彼はこう言った。
 世界唯一だったCCMスーツ被験体。
 研究は続けられているのだ。
「僕ら、ねえ…」
 黒木はちょっとの間嗤っていたが、座り直すとわずかに椅子を動かしユウヤを視界の正面に据えた。
「戻って来い、灰原ユウヤ」
 黒木が動くということはそういうことだ。それ意外にない。しかしジンに向かって、返せ、と言うのではなかった。黒木はユウヤの目を見て、ユウヤの意志を確かめようとしていた。そしてそれは半ば、何が何でも連れて帰るという前提の下で行われていたが。
 ジンからユウヤを奪い去るのではない。ジンがユウヤを差し出すのではない。ユウヤが自らの意志でジンから離れるという、ジンへの最大のダメージを狙っているのだ。
 ――ユウヤは…
 その顔を振り向く前に
「いやだ」
 一言、答えた。
「お前には帰ってくる責任がある」
「僕はもうあそこには帰らない」
「希望を訊いているんじゃない。いいか灰原ユウヤ、お前には、責任があるんだ」
「わからない…」
「わからない?」
 大した言葉を覚えたな、と黒木はおどけた。
「もう一度言う。帰ってこい、灰原ユウヤ。お前にはそうする責任がある。お前しか加納先生を助けることはできない」
「…………」
 ユウヤの瞳が暗くなり、ジンは思わず聞き返す。
「加納…加納義一か」
「先生は、お前に呼び捨てにされるような人じゃない」
 黒木は目をそばめてジンを睨み、再び視線をユウヤに戻した。
「四歳の時からお前を育てた加納先生だ」
「育てただと! あれが…」
「口を挟んでほしくないところで入ってくるんだな、海道ジン。まあいい、君にも説明しよう」
 ただし説明する間は横やりを入れるなよ、と釘を刺す。
「加納先生は今、A国で訴訟を受けている」
 最初に端的な、しかし衝撃を与える事実を提示し、黒木はいったん口を噤んだ。ジンも、そしてユウヤも口を挟まなかった。黒木はその様子には満足したものの、これから話す内容を考えると渋面にならざるを得ないようだった。
「イノベイターの崩壊後、加納先生は秘密裡に渡米した。そこで新たな出資者を得て独自にCCMスーツの…サイコスキャニングモードの開発を進めたんだ。しかしその成果を発表する直前になって人権団体を後ろ盾に被験体とその親族から訴えられ、現在法廷で争っている」
「曖昧な言い方をするな」
「隠すつもりはない。調べれば分かることだ。正確にはCCMスーツの被験体となった十三人の精神・知的障がい児とその両親、それに人権団体障がい児の会と障がい児の親の会、子どもの権利を守る会の三団体に加えてLBXによる事故を巡る訴訟を得意とする弁護士団体を相手に、国選弁護士と加納先生の二人だけで立ち向かっている」
「正義は我にありと信じているのか」
「正義? そんな曖昧なものの話をしていない。加納先生は成果を出した。CCMスーツとサイコスキャニングモードは灰原ユウヤただ一人のものに留まらない、汎用性のあるシステムとしての完成を目前にしていたんだ」
「完成は…しなかったのか」
「被験体は奪われ、資料もデータも差し押さえられた。あとは全て…」
 黒木は青黒い指でこめかみを叩く。
「加納先生の頭の中だ」
 それが誇らしいことであるかのように黒木は言った。
「証言は加納先生お一人でも十分だ。しかし我々には証拠が必要だ。サイコスキャニングモードは遊びでもサディストの趣味でもない、れっきとした科学の成果なのだ。このシステムによって何が可能になるか…。障がい者が予想されていたレベルを遥かに超えた能力を持ち、それを発揮することができる。これは実験の中で実証されたことだ。CCMスーツとサイコスキャニングモードは肉体に閉じ込められていた人間の本来の能力を引き出す鍵だ、ゲートだ。この二つが揃えば人間は本当に新たな段階へ変革を果たすことができる」
 ふ、と一息をつき黒木はジンと目を合わせた。
「狂信者を見る目だ」
「間違っていないだろう」
「私が信奉するのは科学だ。科学に間違いも過ちもない。全ては真実の結晶だ」
 ジンは溜息をついたが、黒木はそれをそよ風の囁きほどにも感じなかったらしい。
「理解してもらえようがもらえまいが真理は揺るがない。その表出こそ私が…いや、加納先生が信じその身とその人生を捧げた科学だ」
 灰原ユウヤ、と青黒い指がさした。
「お前も、だ」
 ジンはぐっと口を噤む。唇が歪む。
「お前は加納先生が一から育て、我々の手で完成に近いところまで導いた科学の結晶だ。CCMスーツの性能、サイコスキャニングモードの力、そしてそれをその身に受けて尚、人はその精神を保ち、更に進化することができるという生き証人だ」
「それを…」
 ジンは椅子から腰を浮かせ、ぐっと前に身を乗り出した。
「貴様は本気で言っているのか」
「灰原ユウヤが法廷に立てば我々は加納先生の功績を立証することができる」
「本気でそう思っているのか」
「狂人でも見るような目だな。私はこの上なく冷静で、熟慮熟考の末の話をしている」
「ユウヤが貴様らに不利な証言をするとは思わないのか」
「それはありえない」
 そうだかつて加納がそうだったように、黒木たち研究者は容易くそれをやってのけたのだ。幼い少年の傷をいたわらず、心を顧みることなく、薬品と実験に浸けられた九年間。そして更に六年の歳月…。
 ジンは拳を握りしめた。
「ユウヤは渡さない」
「あなたの意志は聞いていない、海道ジン」
「ユウヤ」
 名前を呼ぶとユウヤが見上げた。暗い、虚ろな穴のような瞳がジンを見つめる。大丈夫だ、もう君を傷つけない、もう決して君をつらい目にはあわせない。
 ――僕が、この命に代えても。
 黒木がCCMを取りだし、時計を読む。
「夜のフライトでA国に渡る。準備はいらない。行くぞ、灰原ユウヤ」
「黒木…!」
 その名を呼んだのはもしかしたら初めてのことで、黒木が軽く目を剥いてジンを見た。
「そうだ、私には名があり社会の中でそう呼ばれている。現実を生きるとはそういうことだ。責任を持つ者とはそういうものだ。海道ジン、現実から逃げ出したお前には分かるまい」
 その時、突然ユウヤが立ち上がり、ジンの前に立ち塞がった。
 黒木がぐっと顔を引き攣らせる。青黒い指先が耳元を掠める。
「僕は戻らない」
 ユウヤは言った。
「これは僕の意志だ。僕には心があり、自分で用いることのできる意志がある。あなたの後ろに控えているアサシンを撤収させてください。もしジンに向かってイグゼキューショナーが発射されたら、僕がそれを受けます。僕はジンを守る盾になる。そのために死んでしまっても構わない。僕の覚悟はもう十年以上前から固まっているから、僕は迷わない。それに訓練を施したのはあなたがただ。僕がこの距離からの狙撃にも反応し、思い通りに動けることは分かっているでしょう」
 感情のない落ち着いた声が言った。
「僕は、そうします」
 黒木は滔々と喋るユウヤを見つめ呆然としていたが、短く息を吐くと耳の上でひらひらと手を振った。
「…シミュレーションはしていた。私は出来た男でもなく研究者としてもまあまあだが、観察者としては優秀だ」
 椅子から立ち上がり、黒木は二人にはもう目もくれず立ち去りかけた。しかしテラスを下りた所で不意に立ち止まった。首がもの言いたげに軋み、しかし振り返るのを堪えた。
「やはりお前は変わっていない、灰原ユウヤ。…そのことにホッとしたよ。あの夜、少なくとも目黒だけは消えたお前のことを心配していたからな」
 お前がちっとも変わらないと知れば安心するだろう、あいつも。
 独り言のように呟き、黒木は黒のBMWに戻る。エンジンがかかり動き出すまでひどく長い時間がかかったように感じた。メタリックな車体が森の木々に隠れて見えなくなるまで、二人はテラスを動かなかった。
 爽やかな風に梢が揺れる。鳥が鳴く。何も知らない素振りでボーイが近づき、紅茶を温かなものにかえた。しかし二人は席につかなかった。喉はからからだったが、動くことができなかった。