30代編 2







 夏の海を渡って吹きつける風が心地良く大草原を吹き抜ける。背の高い木は生えておらず、視界はどこまでも遮るものがない。草原の向こうにはもう苔しか生えていないような湿地帯。そして島が終わる。その向こうに広がるのはバルト海。
 南東端に近い街カルマルから六キロもの長さの橋を渡り辿り着いたエーランド島。夏のバカンスを過ごすと言えば五本の指に入る観光地…。だがその景観はあまりに長閑で、人の姿もまばらにしか見えない。
 石灰石を敷き詰めた薄灰色の道は真っ直ぐ島の南端まで続いていた。青く塗られた自転車に跨がり、ジンは真っ直ぐ前方を見据えた。
「緊張しないで」
 後ろで荷台を掴んで支えるユウヤが言う。週末ごとの教師はこれを最後の仕上げとばかりに、ぽん、とジンの背中を叩いた。
「行くぞ」
「うん」
 地面から足を離し、ペダルを最初の一漕ぎ。車体は平衡を保っている。ユウヤが荷台を掴んで支えてくれている。平坦な道を自転車はスピードを上げて走り出す。
 どんどんスピードに乗る。ジンは身体の底から浮き上がるような感じを覚えながら大声で教師の名を呼んだ。
「ユウヤ!」
 おーい、と返す声は遠く背後から聞こえた。振り向くと、後ろから支えてくれていたはずのユウヤが道の半ばで手を振っている。
「ジンくーん!」
 支えがないと分かった瞬間にも、ジンは慌てふためいたり倒れることはなかった。胃の奥からきゅうっと冷えて全身から冷や汗がふき出したが、彼はペダルを漕ぎ続けた。そうする限りバランスは保たれ倒れることはないと彼は学習していた。
「ユウヤ!」
 ジンはもう一度叫んだ。自転車の上からよく晴れた七月の青空を見上げて。
 ペダルから足を離し、石畳の道を踵で滑りながら停車する。ユウヤがこちらに走ってくるのが見える。ジンはもう一度自転車に乗って迎えに行こうかと思ったが、心臓は桁外れにどきどきと鳴っている。転ぶだろうな、と思い、転んでもいいじゃないか見ているのはユウヤだけだ、とも思い、ユウヤに格好悪いところは見せたくない、と本能により近いところから抗議の声がした。
 結局ジンは自転車を押しながらユウヤの元に向かう。
「乗れたね」
 息を切らせたユウヤが笑顔を浮かべて言った。嬉しさが溢れてきてどうしようもないという顔だった。
「うん」
 ジンも息を切らせながら頷く。
「上手だよ」
「ありがとう」
「かっこよかったよ」
「…先生が良かったから、そのお蔭だ」
 若い頃は数多の賞賛を受けた。本来ならば自分のような子どもに頭を下げることのない大人たちがこぞって頭を下げ、自分を褒め称えた。LBXプレイヤーとして世界中から敬意と畏怖をもって秒殺の皇帝なる異名を戴き、呼ばれたのだ。百も千もの言葉を尽くした賛辞。
 しかし今、ジンは幼い子どものように嬉しかった。身体の奥からくすぐられるような喜びが彼を満たした。
 自転車を挟んで二人並び、道の終わるところまで歩いた。南端の湿原は生き生きとした緑に覆われていた。苔と名前も知らない背の低い草。強い風がねぶるように吹く。道の終わりに自転車を倒し、二人は湿原の中を進む。
 海岸線に辿り着くとユウヤが口を開けた。歓声の上げ方を知らないまでも、身体が自然と反応してユウヤの表情を変えていた。
 色とりどりの花が溢れんばかりに犇めき、咲いている。短い夏をこれでもかと満喫するように、どの花も色鮮やかで生命力に溢れていた。そして花咲く岸辺の先には宝石のような輝きをたたえた海。
 ユウヤは自分の両手を握りしめ、きつく目をつむった。足元から湧き上がる震えが頭のてっぺんに抜けてしまうまでぎゅっと身体に力を込めていた。それから息をつく。
「ああ……」
 バルト海の深く鮮やかなブルーの、水平線までなぞるように見つめユウヤは言った。
「いい匂い」
 潮の香り。海風の香り。吹き流される湿地の匂い。ユウヤが何かを良いと自発的に口にするのは珍しい。それら感覚は基本的にジンの真似なのだ。
「いい匂い?」
 ジンは尋ねる。
「うん。僕はずっと前……覚えていないけど、ずっと昔にね、この匂いをかいだことがあるよ」
 イェーテボリは海辺の都市だ。しかしユウヤは一度もそんなことを言ったことがなかった。スウェーデンに渡る前? あの暗い夜に乗った船の中でもそんな言葉は一言もなかった。それどころか笑顔で思い出せるような夜ではない。冬の時化で船はひどく揺れた。ジンは二度吐いたし、ユウヤは死んだように眠っていた。それ以前の日々のユウヤはCCMスーツの被験体として十五年もの時間を過ごした。人工灯の照らす施設内から一歩も外へ出ることのないまま。
 海の記憶。
 潮の香の記憶…。
 ジンも思い出していた。あの日は海に行った。父は魚を釣っていた。自分は魚に興味がなくて――だってぬるぬるしたものは嫌いなんだ――カニばかり探していた。
 あの日だ。
 両親と過ごした最後の日。海で一日中遊んで帰る途中だった、あの日。
 トキオブリッジ倒壊の日。
 しかしユウヤは穏やかな顔で海を見つめている。つらい記憶を思い出した様子はない。
 ジンもそっとあの日のことを思い出した。都会の海だ。ここまで澄んだブルーではなかったものの、子ども心に海の大きさと輝きはときめくものだった。母はつばの広い麦わら帽子をかぶって折り畳みの小さな椅子に座っている。釣竿を振る父の広い背中が影になる。ジンはその影の下でカニを探す。あの波音。あの海の匂い…。
 あの海にユウヤとその家族もいたのだろうか。
「百花繚乱、だね」
 いつの間にかユウヤは浜に座り込んで、足元に咲く花を撫でている。
「夏が短いから一気に咲くんだ」
 ジンは立ったまま花の咲く浜辺を見渡した。
「遺伝子を残そうとしている」
 ユウヤの指はその花を一輪摘み取るようなそぶりを見せ…、そうはせずそっと花弁を撫でた。
「命の色」
 赤い花弁。
「だね」
 黒い瞳がまっすぐジンの赤い両の瞳を見つめた。
 長閑な、穏やか過ぎる時間がゆっくりと二人の上を流れる。島に来てまだ数日しか経っていないのにもう何年もこの場所で一緒に呼吸をしているかのような心地良い錯覚をした。
 二人で取った十日間の有給休暇。一週間では物足りない気がし、二週間だと仕事が懐かしくなってしまいそうだった。間をとって十日間。初日は列車でカルマルへ。遅い昼食を摂った後、今度はバスに揺られてエーランド島に渡った。長期滞在用のホテルは自然公園に近い森の中にあった。森は明るく、天気のいい日が続いている。
 街の中心で自転車をレンタルし、毎日好きな場所へ出掛ける。つまり、どこへでも。思いつくままに自転車を走らせ、ジンはユウヤを後ろに乗せて走る練習をする。
 今日はレストランで弁当を作ってもらい、こうして島の南端まで来た。
 本当に二人きりだ。
 二人きりで、こんなにも美しい場所にいる。
 ユウヤが花を撫でていた指を差し出す。ジンは跪き、白い指先をそっと噛む。
 視線を合わせた。真面目な目だった。ユウヤが小さく息を吐き出し、目を伏せる。ジンは印をつけるかのように一度歯に力を込めてからそれを離した。
 夏の日はまだまだ高いが、二人はホテルに戻ることに決めた。休暇に入ってからは初めてだった。そう言えば初日はどうして普通に眠ってしまったのだろう。シーツの柄が面白い模様だったから、そのことが面白くて? 予約をした時、シーツにだけ注文をつけた。真っ白ではなく、柄物にしてほしいと。小さなダーラナホースが線で描かれた野を走る柄だった。ユウヤは赤いダーラナホースが何頭、黄色いのが、青いのがと全部数えた。
 今日は一体何色が何頭いるのか気にしていられない。
 後ろに人を乗せて走るならユウヤの方が速い。しかしジンはサドルに跨がり、ユウヤを振り返って一つ、強く頷いた。
「…よろしく」
 荷台に座ったユウヤは腰に手を回し、背中に頬を押し当てる。
 石灰岩の道をひたすら北上する。途中、自然公園の中で何台かの自転車とすれ違った。ジンは手を離して運転することができなかったので、ユウヤが手を振った。
「ちょうど、二人きりの時間だったんだな」
「なに、ジン君」
「何でもない」
 ――贅沢だ。
 なんて贅沢な休暇なんだ。ジンは自転車を漕ぎ続ける。重くはない。ペダルを踏む足はそれなりの重量を感じているが、心が軽い。
 とは言え南北に百四十キロも伸びる島だ。そう簡単にはホテルに辿り着かず、途中で何度かユウヤが交代しようかと提案したが、ジンは首を横に振った。
「でもね」
 ユウヤは呟く。
「ジン君が疲れたら…困るよ」
 選手交代。
 流石に週五日は自転車を漕いでいるユウヤだ。すいすいと進む。風景は映画のカメラをパンさせるように滑らかに流れる。
 ホテルに辿り着いた時は二回目の交代でジンが運転をしていた。ホテルが見えた時、何故か早めにブレーキをかけた。建物よりも随分前で自転車は停まった。ユウヤが荷台から下りる。二人は何も言わず、ホテルの前に停まった黒のBMWを見つめた。
 表に自転車を停め、黙りこくってホテルに入る。カウンターからボーイ長が声をかける。
「お早いお帰りです。約束をされていましたか。お客様がお待ちです」
 掌が指し示したテラスには同じくらいの年代の、顔色の悪い男が座っていた。手元には温かなコーヒーが湯気を立てていたが、それにはまったく口がつけられていなかった。
 ジンは、ありがとう、とカウンターに一声かけるとテラスに向かってゆっくり一歩を踏み出した。それは鷹揚で、冷たく優雅な仕草だった。その後ろから歩くユウヤは、まるで付き従うという表現がぴったりで、軽く顔を伏せてはいたが不安そうな表情ではなかった。心の中もおそらくそうだったろう。ユウヤにとってジンは正しく、自分は何も恐れない。
 だから。
「これはこれは、お待ちしてましたよ。海道元社長に……灰原ユウヤ」
 目の下にうっすら隈を浮かべ無表情の下から疲れた笑みを浮かべたこの男、自分達二人に恨みのこもった視線を向けるこの男、黒木が嗤った時も、ジンは冷たい視線を逸らさなかったし、ユウヤは取り乱さなかった。