30代編 1







 夏至祭りの近づく六月、日は長く空はいつまでも明るい。街角は賑わいを見せ、街頭ディスプレイやテレビが今年のイベント情報や気になる天気を繰り返し流している。しかし雨が降ったってこの国の人間は夏至祭りの夜は外で食事をするし、歌って踊って一晩中眠らない。
 肌をふわりと包む熱気。夏の気配。太陽はまだビルの上でぼんやりと輝いている。日本で暮らしたのはほんの十三歳までのことだというのに、今ジンの身には梅雨の長雨が懐かしく感じられた。昨日、雨の音が好きだとユウヤが言ったからだろう。
 今年こそポーチドサーモンの成功を祈り、鮭と注文していたワインを手に家路についた。裏通り、相変わらずの古アパート。一階に並ぶポストの扉を開けると小包が入っていた。ユウヤ宛て。差出人の欄には出版社のスタンプ。しかしもうジンは慌てない。ワインと一緒に大事にそれを抱えて、三階までの階段を上る。
 ユウヤの帰宅はまだだった。台所でちょっとワインの味見をしようかと封を切り、いやユウヤが帰ってから…、と冷蔵庫にグラスを冷やしていると玄関のドアが開いた。
「おかえり」
 ジンは廊下に顔を覗かせる。俯き加減に歩くユウヤが、…ただいま、と返事をして紺色の帽子を釘にかけた。
 ――元気がないな。
 ちらりとそう思った。
「小包が届いている。三国志だろう」
 居間に向かったユウヤが小包を取り上げる気配。
「大分読み進んだな。そろそろ最終巻だ」
 返事はない。包みを開ける音もしない。鞄を置く音だけが聞こえた。
 静かだ。
 窓の外はまだまだ明るく上の階のテレビの音が賑やかに降ってくるのに。
「ワインの味見をしないか」
 努めて明るく声を出す。
「乾杯をしてもいいんだが、折角取り寄せた品だし…」
 生温い部屋を風がよぎる。上着の脱ぎ捨てられる音。ほどけたネクタイが床に落ちる。それをジンは振り向きざまに視界の端に見る。
 ユウヤの身体が、とん、とぶつかった。
「ジン君…」
 いつからか親しみを込めて呼ぶようになった名前。ただの記号としての名前ではなく、ユウヤは心からそう呼ぶ。ジンが山野バンに対し親しみと敬意を込めてバン君と呼ぶのを真似て。
 しかし今日の声は何故だか苦しげだった。白い手がジンの袖を掴む。
「もうすぐ夕飯なんだよね」
「ああ…」
「分かってる……」
 分かってる、ん、だけ、ど、と言葉を詰まらせユウヤは俯いたままジンの肩に額を押し付ける。
「ジン…」
「どうした」
 ジンはユウヤの肩を抱き、髪を撫でた。ユウヤが何か伝えようと言葉にするのをじっと辛抱強く待つ。次の言葉はなかなか発せられなかった。躊躇い、飲み込みを繰り返し、あの、と顔を上げる。
「夕飯の前にしたら、駄目?」
 ユウヤと一緒に暮らしてもう十年以上だ。色んな状況に遭遇してきた。思いがけない小包に戸惑ったこともあれば、朝食の席で初めてユウヤの笑顔を見たこともあった。ユウヤが日々の生活の中で一つずつ新鮮なものを発見し、自分の世界に取り込むのをジンは見てきたのだった。
 しかしこれは久しぶりのヒットだったと言わざるを得ない。
 ジンとユウヤは血が繋がらなくとも魂を分け合ったような存在であり、大事な家族であり、世間一般では恋人と呼ばれるような関係でもある。――むしろ夫婦と呼んだ方が近いかもしれない。土曜日はいつもと違うシーツを敷いて、日曜日は幸せな寝坊をする…。
 今日は何曜日だろうと考えた。水曜日、普通の平日だ。時計を見る。午後七時過ぎ。外は明るいが時刻の上ではもう夜なのだ。夕飯をキッチンテーブルの上に並べなければ。俎板の上の鮭。沸いた湯の中でハーブが踊る。ポーチドサーモンを作らなければ。
 夕飯の前に。
「駄目?」
 ユウヤが繰り返す。
「シャワーも浴びてないけど、僕は準備もしてないけど、それでもしたら、駄目?」
 白い手がぎゅっとジンの袖を握り締める。押し付けられた身体が内側の感情を制御できないかのようにかすかに震えた。
「言っただろう、ユウヤ」
 ジンはユウヤの前髪をそっとかき分け、白い額にキスを落とす。
「君の感情は何一つ間違っていないんだ」
 慌ただしく、と言うほどどたばたとはしていなかった。しかしそわそわと、せかせかと最低限の準備をして――少なくともコンロの火を落とさなければ一時間後にはアパートごと黒焦げだ――二人は寝室に向かった。カーテンで明るい空を締め出し、まずはぎゅっとお互いを抱きしめて身体の震えを静める。それからいつもより丁寧にゆっくりと互いの裸を重ねた。
「ジン…」
 薄暗がりの中で聞くユウヤの声は涙ぐんでいる。
「怒らないでね、ジン…」
 ジンは仰向けになり腰の上にユウヤの重みを感じた。縋るように爪を立てる手を優しく掴み、握り返す。怒るものかと言うかわりに、座り込んだまま動けない腰をなだめるように撫でた。

 白く大きな浴槽の縁、ユウヤがぐったりと持たれている。ジンはよく冷えたグラスとワインをタイルの床の上に置き、浴槽を背に座り込んだ。
「乾杯をしよう」 
 ワインを注いだグラスをユウヤの手に持たせる。それから自分のグラスと触れ合わせた。
 澄んだガラスの音が浴室に響いた。
 乾杯、と囁くとユウヤも小さな声で、乾杯、と呟きグラスに口をつける。
「僕はこの味が好きだ」
 そう教えるとユウヤはそれを学ぶ。そして自分の味覚と照らし合わせ、いつか美味しいとは何かを学習する。日常の中でアルコールを入れることは滅多になかったから、ワインの味はこれからだろう。
「ジン…」
 ワインから口を離し、ユウヤが呟く。
「ジン…君…」
 微笑もうとして失敗した表情が俯いた。頭を撫で顔を寄せると、ユウヤはそれに擦り寄った。
「君は優しい」
 ワインの香りの吐息がそっと言葉を吐き出す。
「僕は何もかも忘れそうになる」
「昔は何もかも忘れたいと言っていた、君は」
 ジンは目を閉じ、ユウヤの息が頬をくすぐるのを楽しむ。忘れたくないことが増えたよ、とユウヤは囁いた。耳元にキスが降った。
 夕飯は更に遅くなったが、それでも空はまだ夕焼けの頃だった。上の階からは天井越しに――あるいは床越しに――テレビショーの歌声が響いてくる。エンディングの歌だ。時計はもう九時近い。時々思い出し笑いを堪えながら作ったポーチドサーモンはやはり失敗作で、ごめん…、とジンはテーブル越しに頭を下げる。
「夏至祭りの夜には成功させてみせる」
「僕はジン君の料理、好きだよ」
 ソースのせいで酸っぱすぎるポーチドサーモンをユウヤはもぐもぐと咀嚼する。
 こうしていつもの夜が来たような気がした。シーツを取り換えたベッドに横になって、軽く腕を掴まれて眠る。しかしいつまで経ってもユウヤの呼吸は寝息に変わらなかった。
「…眠れないみたいだな」
 ジンは腕を伸ばし、ユウヤの肩をぽん、ぽん、と叩く。心臓の鼓動よりも緩やかなテンポで。
 眠ろうとしているのかしばらく呼吸の繰り返しだけが続いたが、不意に、ジン君、と呼ばれた。
「今日のこと、喋ってもいい?」
「何か…あったのか?」
「赤ちゃんがね」
 郵便配達を終えて局に戻ると、出産のために休暇を取っていた女性職員が生まれたばかりの赤ん坊のお披露目に来たそうだ。ユウヤはそこで初めて赤ん坊の身体を抱いた。
「小さくて、柔らかくて、今にも壊れそうだけど、赤ちゃんは人間の形をしてたんだよ。小さな指の先に一つ一つ爪が埋まってるんだ。目の白いところは少しだけ青いんだ。澄みすぎてそんな風に見えるんだ。僕は…自分の身体を思い通りにできるはずなのに、赤ちゃんを抱く手は…なんだか怖くて震えそうだった。落としてしまうはずなんてないのに…不思議なんだよ、ジン君。僕は赤ちゃんを抱いて心地良さを感じるのに次の瞬間には落としてしまうんじゃないかという恐怖を感じた。二つの気持ちが混ざっているんだ。ううん……僕が感じた感情は二つだけじゃないんだ」
 ジン君、と息を吐きユウヤは腕を抱きしめる。
「色んなことを感じた。複雑な気持ち…なんだ。上手く言葉にできない」
「急がなくてもいいんだ、ユウヤ」
 ジンはユウヤの身体を抱き寄せ、言った。
「僕たちは何も急ぐ必要はない」
「何も…?」
 何も、と囁き返してジンは先に瞼を閉じた。手の中にはユウヤの体温があり、呼吸は耳に届いていた。カーテンの向こうの空は日が沈み、短い夏の夜が訪れる。
「ジン君も、生まれた時は赤ちゃんだったんだ」
 新しい発見でもしたような呟きが聞こえた。
「君もだ、ユウヤ」
 目をつむったまま応えると、無言のまま身体が擦り寄った。

 手を繋いでいる夢を見た。心地良い夢だったが、目覚めの時間がいつもより早いのを惜しいとは思わなかった。心地良い夢がそのまま自分を現実世界に押し出してくれたような気がした。ベッドの中でジンはユウヤと手を繋いでいたから。
 ユウヤがジンの手を繋いでいるのだった。
 瞼を開いたジンは呆然とユウヤを見つめていた。ユウヤは開いた両の瞳からはらはらと涙をこぼし続けていた。
 ユウヤ、と囁き頬に触れる。不随意の涙は止まらず、それどころかユウヤ本人が泣いていることに気づいているのかも分からない。涙を拭うとゆっくりと瞬きして視線を彷徨わせる。
「ジン……」
 囁くように呼ばれた。
「ごめんなさい、ジン…」
「どうしたんだ」
 不意に聞かされた言葉に――しかも起き抜けだ、何の罪もないはずの早朝――ジンは不安を隠すこともできないまま尋ねる。
「一体何が…」
「僕は君からもらってばかりで…奪ってばかりで…」
 このように不安定になることは滅多になかった。そうである時は兆候があった。悲惨な夜、事故、残された子ども…。こんな朝から出し抜けに、とジンも内心戸惑う。
 どうした、と囁きながら抱きしめようとするが、ユウヤはその腕から逃れてジンを見た。黒い瞳。涙の膜の向こうから、ちゃんとジンを見つめようとする。
「僕は女になりたかった」
 そう言ったユウヤは、軽く言葉を失ったジンの掌を掴み自分の胸に押し当てる。
「君と違う身体なら、作りかえられた身体なら、僕は女になりたかった」
「どうして…」
「赤ちゃんが産めたら」
 ぎゅっと冷たい手で心臓を掴まれたような感触。ユウヤもまるで痛みに耐えるかのように眉を寄せた。
「ジンの…ジンとの赤ちゃんがほしい」
 言いながらユウヤの涙は溢れてくる。息がわずかに乱れて、ユウヤは震える吐息を吐いた。
「女だったらそれができたのに。僕はそうしたかったのに。君は…本当はちゃんと子孫を残せる身体なのに僕がいるせいで」
「ユウヤ」
 強い声で呼び、しかしジンの手は濡れた頬を優しく撫でた。
「そういう言い方はしないでくれ」
「ロジックじゃないんだ、僕は本当に…」
「そんな風に思わないでくれ」
 ジンの顔もユウヤの表情を映すように眉が寄せられ、涙の出る前のように歪む。
「僕が君と一緒にいたかった。僕は…」
 寂しかった、という一言をジンは飲み込んだ。
 この寂しさは誰にも言えない。ユウヤにしか言えない。しかし今のユウヤに押しつけるものではない。
「僕こそ君をここまで連れてきてしまった。しかし、ユウヤ、僕たちはもうこの街で生活をしている。当たり前の日常を築いている。僕たちは家族だろう?」
 まだ手を繋いでいる。大丈夫だ、僕らは手を繋いでいる。ユウヤは目の前にいる。その黒い瞳には揺らぎながら自分が映っている。
 ユウヤ、と今度は優しく囁いた。
「君と僕は家族だ」
「家族…」
「君と二人で紡いだ時間はかけがえがない。君がいたからこそ生まれた思い出なんだ」
「ジンがくれた…」
「それだけじゃない。僕が与えただけじゃない。君こそが僕にくれた」
 涙に濡れた顔が胸に押しつけられた。ジンはそれを優しく抱きしめ髪を撫でながら、ありがとう、と囁く。
「驚いた。僕の子どもなんて考えたことがなかった」
「僕は…昨日から…そればかり考えてたんだ」
 二人の子ども。
 まるで夫婦のように。
 ユウヤの涙が止まるまでジンはその背中をあやし続けた。
 朝食は少し豪勢に。いつもの紅茶ではなくジンがコーヒーを淹れた。
「おかわりもある。遠慮なく」
 給仕のような態度でキッチンテーブルに座るユウヤの前に皿を並べるとユウヤがもじもじして、落ち着かないよ、と言った。困ったような笑顔が滲んでいる。戻ってきた表情にホッとしながらジンも向かいの席についた。
 通勤の自転車の上、ジンはユウヤの背中に声をかけた。
「休みを取ろうか」
「休み…?」
「今年の有給休暇はまだだろう」
「うん…」
「旅行に行こう」
「旅行…」
 ジンの言葉を一つ一つユウヤは繰り返す。そのことに気づいて、ジンは次の言葉を口に出した。
「新婚旅行だ」
 今度はユウヤは繰り返さなかった。
「……パリ?」
 ようやくして声が返る。
「え?」
「ハネムーンはパリなんだって」
「パリに行きたい?」
「僕は……」
 自転車が減速し、ユウヤが振り向いた。
「君の行きたい所に」
 すぐに前を向いてしまう。懐かしい気がした。ここは暗い森の中ではなく、十代も随分遠くなってしまったが、このまま自転車に乗ってどこまでも行けそうな気持ちになった。
「ユウヤ」
 ジンは、見えていないにも関わらず、照れて赤くなりながら言った。
「僕は自転車を練習する」
 ふわりと吹いた夏の風に乗って自転車が加速する。
「うん」
 こそばゆくなるような声音で、ユウヤは返事をした。