20代編 5







 よく晴れた土曜日だった。乾燥室を借りなくとも、窓の外に干すだけで太陽が洗濯物を乾かしてくれた。干したシーツの作り出す光と影の下、二人は静かな時間を過ごす。ユウヤはテーブルの上に伏せて、以前ジンが買ってきた花を見つめていた。コップにさされた白い花はそれが最後の一輪で、明日の朝にはゴミ箱に捨てなければならないだろう。最後の花を惜しむように、ユウヤはじっと見つめていた。
 ジンは爪にやすりをかける。機械を扱う仕事で爪はいつも切り揃えていたが、今日はそれだけではない。特別に、念入りに。先刻ブラシを使ってよく洗ったのだが、それでも幾らか自分に染みついてしまった機械油の色がある。夜を前にまた手を洗うが、それでも落ちないだろう。全く綺麗な手でないことが少し残念だった。
 やすりをかけ終えるとジンは爪の先の滑らかさを唇の上で確かめる。薄く柔らかい皮膚の上を、それは抵抗なく滑る。そうやって一本一本磨きをかけると、いつの間にかユウヤが花ではなく自分の手を見ていた。
「…僕のために?」
「そうだ」
 やすりをかけ終えた右手を差し出すと、ユウヤはそれを両手で押し戴いて爪の先に囁きかけた。
「よろしく、ジン」
「こちらこそ」
 一つ一つ準備したものがある。洗濯した新しいシーツ。滑らかな爪。午前中はユウヤに洗濯を任せている間、コンドームの他必要なものを買うために薬局へ行った。持っていくまでが恥ずかしかったが、カウンターにどんと置いたら後は開き直りの境地で、店主がやたらにこにこしながら紙袋に入れてくれた。
 ――今日は特別な日だ。
 至極普通に金を渡し、おつりを受取った手を握り締める。
 ――誰に恥じることもない。
 買い物はまだ紙袋から出さないまま、椅子の上。
 午後が妙に長い。
「ジン」
 やすりを手の中で弄んでいると、ユウヤが声をかけた。
「そわそわしてる?」
「…ああ」
 ジンはやすりをテーブルの上に置き、苦笑した。
「そわそわしている」
「緊張しないで」
「ユウヤは?」
「僕は……」
 ユウヤは自分の胸に手をあて、目をつむった。
「心臓がどきどきしてる」
 触る?と尋ねられた。
 ユウヤの手にいざなわれるままに、シャツの上から胸に触れた。心臓の鼓動を感じる。ジンはもう片方の掌を自分の胸にあてた。やはりどきどきしている。リズムはユウヤの方がわずかに速い。それなのに音楽のような静かなテンポだった。
「君の胸から音楽が聞こえる」
 ジンは教えた。
「僕の…心臓から…」
 ユウヤは自分の掌をジンの手の上から胸に押し当てた。
「心臓の鼓動が…音楽?」
 味が分からないユウヤは、その他のものもまだよく分かっていない。音楽の楽しさ、絵画の美しさ、テレビ番組の面白さ。人生に一番密着していたLBXバトルの興奮も知らない身体はいつもひんやりと冷たく、感情も心も殻の奥で眠っているかのように思える。しかし、心臓から…。
「君の心が聞こえる」
 テーブルの上で手を重ね合わせた。今、こんなにも満たされているのに更に求める心がある。
 ――僕たちには心があるから。
 シーツが大きく翻り、春の午後の日差しがユウヤを照らし出した。一瞬微笑んで見えて、ジンはその表情を胸に焼き付ける。
 ――ユウヤを笑顔にしてやれたら…。
 淡い望みを抱きながら静かに夜の訪れを待つ。春の香りのする洗濯物を取り込んで、真新しいシーツでベッドを包んで、……夕食を作って。夕食は相変わらず酷いできだったが、ハッピーバランスの比重は夜に傾いているのだと言い聞かせることにした。ユウヤはそれを完食した。
 浴槽には湯が張られていた。薬局で買い物をした紙袋はベッドの上だった。準備は万端だった。

 シーツは花の柄だった。買った時は可愛すぎる趣味かと思ったが、今はこれが一番相応しく感じる。ユウヤの裸を包み込むためのものとして、優しく暖かなシーツでありたい。
 ジンが浴室から出てくると、先に準備を済ませたユウヤはバスタオルをマントのように羽織ってベッドに腰掛けていた。
「…お待たせ」
「ううん」
 ユウヤが首を振る。
 ジンは部屋の明かりを落とし、ちょっと立ち止まった。真っ暗な中でできることではなかったが、電気の煌々と点いた下でやるにはあまりにムードがなかった。
「カーテンを開けよう」
 そう言ったのはユウヤだった。
 狭い通りを挟んだ向かいのアパートの明かり、階下の食堂の明かりや、ホテルの入り口を飾る電飾の色のついた明かり。夜の通りにはまだ光が残っていて、しばらくすると夜目が利いてくる。それでも不安を感じた時、ふとシュヴァルツヴァルトの別荘で見つけたランプを思い出した。ちっともロマンチックに使うことができなかったランプ。
 ジンも隣に腰掛ける。とりあえず息をついた。
「不思議な気分だ」
「不思議な…」
「今夜のために全て準備したのに、まるで夢のようだ。今までのことも、全部…」
 するとひんやりとした手がジンの手を握った。
「僕はここにいるよ、ジン」
 夢ではない現実の存在。遥か昔、夢のように忘れようとしたつらい記憶の中にユウヤはいた。二人は何度も出会った。出会っては擦れ違い、別れ、だが今はこうして手を繋げる距離にいる。
「ありがとう、ユウヤ」
 抱き寄せ右肩に額を押し付けるとバスタオルが肩から滑り落ちた。露わになった大きな傷の上に唇をそっと押し当てる。
「どうして今お礼を言うの」
 ユウヤは自分の右肩を見下ろして尋ねる。
「君が今存在していることにお礼を言いたい」
「それは…神に感謝するという…祈り?」
「いいや」
 俯き加減のユウヤの頬に手を当て、視線を合わせてからジンは言う。
「君への感謝だ」
「僕は…ただ存在しているだけなのに」
「ただ存在しているんじゃない…いや、ただ存在しているのだとしても構わない。君が今ここにいることには奇跡のような価値がある。これは何物にも代えがたい素晴らしいことなんだ」
 ユウヤの肌の表面が震えた。それがジンにも分かった。ユウヤは震えが頭のてっぺんに抜けていくのを目をつむってやり過ごした。
「今」
 言葉を選びながら、ユウヤはもどかしげにゆっくりと口にする。
「何かが…溢れて…」
 ジンは黙ってそれを聞く。
「言葉が出そうになったんだ…、僕は何か言いたくなった……何かを」
「うん」
「分からないよ、ジン」
 ユウヤの瞳が急に潤む。涙の膜が厚くなって、薄闇の中でも分かるほどにきらきらと小さな夜の光を反射させた。
 うん、ともう一度掠れた声で応えて、ジンは顔を近づけた。
「僕も何と言っていいのか分からない」
「分からないのに…」
 うれしい、と。
 その言葉をジンは、ユウヤの口から初めて聞いたかもしれない。
 ――そうだ、僕たちは、
 傷や過去や悲しみ、痛みだけではない。
 歓びも嬉しさも、
 ――僕たちの全てを、
 分かち合うことができる。
 現在も。未来さえも。
 目頭が熱くなり、キスよりもまず手を繋いで頬を合わせた。ユウヤの涙はもう流れ出していて、触れあったジンの頬も温かく濡らした。
「君が愛しい」
 大事なことを丁寧に丁寧に、ジンは黒髪からのぞくその白い耳に囁きかけた。

 腰の下に敷いたクッション。掌から指先までをたっぷり濡らすもの。ぬめる指が滑る身体は確かに男のものだと実感する。体格も、骨格も、耳に届く浅い息も。
 ――だが、関係ない。
 ジンは指をもう一度下へ滑らせた。きれいに洗ったよ、とユウヤの言ったそこへ。
 ――欲情する。
 ユウヤに歓びを与えたいと、彼を笑顔にしたいと望んだのに興奮しているのは自分ばかりだ。身体の内部から直接刺激を与える方法も性機能不全の一つの解決法だったが、ユウヤの身体はただただ受け容れ、自らの快楽の発露はない。
 苦しかったらすぐにやめる。絶対に無理はしない。そういう約束で始めている。ユウヤは浅い息を繰り返している。しかし痛いとも苦しいとも言わなかった。我慢しないで教えてくれ、と言うと、ジンも我慢しないで、と返される。生温かい熱を孕む指先がジンのそこに触れた。
「ジン」
 息の合間にユウヤが囁く。
「興奮してる…?」
「とても」
 短く答えるとまた、うれしい、という言葉が返された。
「いとしい」
 ジンの言葉を真似てユウヤは繰り返す。
「ジンが、いとしい」
 身体が震えた。ユウヤの指がなぞり、また…、と呟いた。
 ユウヤ、と哀願するように呼んだ。許してほしい。赦してほしい。今から君を穢すことを。しかしユウヤは首を振って、ジンは僕を汚さない、と囁く。
「きれいなのは、ジンなんだから」
 僕はキスだってできるよ、とユウヤはそれを軽く撫でた。流石に掴むことはしない。優しい綺麗な掌が自分の体液にぬめる。
 コンドーム。セーファーセックス。初心者のためのセックスの注意点。雑誌で読んだ知識の半分以上は頭から飛んだ。ユウヤと裸で触れ合うだけで言葉が必要なくなり、吐息が会話の代わりとなり、体温を溶かしあう場所を探して指が滑り、互いを抱き合う。
 不規則に乱れたユウヤの呼吸が、深く吐かれ、少しずつ静まった。ジンも熱い体温に包まれた場所を感じながら強く目をつむり、動かなかった。
 ユウヤの手が背中を彷徨う。抱きしめては離れ、しっくりいく場所を探している。やがてそれは首に巻きつき、そっと、しかし力強くジンを引き寄せた。
 ジン、と熱い息が囁いた。
 それからまた言葉はなくなり、ユウヤは涙を溢れさせながらゆっくりと押しつけられる身体に自分の呼吸を合わせる。それを見下ろすジンは自分も涙をこぼしていることに気づかなかった。身体中、どこもかしこも熱かったから、生温い指先が撫でてくれるまで目尻から溢れるそれに気づいていなかった。
 涙を拭ってくれた指は窓明かりに白く浮かび上がる。ジンはそれにそっと歯を立てる。ユウヤの身体が芯の方から震え、小さな声が漏れた。裏声に近い、鼻にかかる小さな声。
 終焉に至る熱が急に加速する。無茶な交わりは禁物だ。初めての身体。傷つけたくない、つらい思いをさせたくない。
「ユウヤ…!」
 ジンはユウヤの胸に顔を押しつけた。

 浴槽の中で眠気に襲われながらユウヤはジンに向かって指を差しだした。ジンはそれを甘く噛み、舌で撫でる。
 初めての行為を終えて、二人の間にほとんど言葉はなかった。浴室で身体を洗い流し、シーツを取り替え、足下の覚束ないユウヤを抱き上げようとして自分も力が入らないことに気づいたジンが、ごめん、と短く呟いた。それくらいだった。
 取り替えたシーツは定番のムーミンで、やけにホッとする。
 それから泥のように眠り、朝日で目覚めた。カーテンを閉めていなかった。
 朝日が照らしても二人はすぐには起き出さず、しばらくベッドの上で抱き合っていた。溶け合った体温。生温かい指を絡ませ、何も喋らずお互いの目を見つめていた。言葉になる前の原初の感情が体温を通じて、視線を通じて行き交い、巡る。血液の循環のように、二人を一つの存在にしてしまう。
 日曜日の礼拝が始まる時間になって、二人はようやく身体を起こした。昨夜はふらついていたユウヤが今はもう普通に歩ける。
「…大丈夫なのか」
 長く黙っていたせいで掠れてしまう声で尋ねると、うん、とやはりユウヤも掠れ声で答えた。
 朝食はエッグトースト。ユウヤの淹れた紅茶。
 エッグトーストは片方、黄身が割れてしまい、ジンは綺麗な円を描く方をユウヤに差し出したのだが、ユウヤは黄身の割れたそれに手を伸ばした。
「それがいい」
 上の階の住人がつけた教会のラジオがミサの声を届ける。それを聞きながら二人はエッグトーストに齧り付く。
 ユウヤは不意に口を離し、頬にパンくずをつけたまま尋ねた。
「ジン、美味しい?」
 片方の黄身は割ってしまったが流石に味までは失敗していない。
「美味しい」
「おいしい…」
 ユウヤは両手でエッグトーストをつまむと、また一口食べた。
 咀嚼する、顔が上がる。
 ジンを見る目が細められる。唇の両端がかすかに持ち上がる。
 微笑みが。
 ラジオが鐘の音を鳴らした。神への祈りを唱和する声。ジンはぽかんと口を開けたままユウヤを見つめた。ユウヤはまた一口囓り、もぐもぐと噛んだそれを飲み込むと呟いた。
「これが、おいしい、なんだ」
「ユウヤ…」
 ジンは手を伸ばし、ユウヤの手を取った。しかし次の句を継ぐことはできなかった。溢れ出すものが多すぎて、それは言葉にならなかった。ユウヤはジンに手を掴まれたまま、今度はトーストに口を近づけて一口食べる。
「僕たち、こうしているだけで一日が終わりそうだ」
 トーストを食べ終えたユウヤが手を繋ぐ。
「ジンは、今日、したいことはないの?」
「今日…」
「日曜日だよ」
「僕は……」
 ジンは強く相手の手を握りしめる。
「図書館に…行きたい。コピーしたい記事がある。それから文房具屋に寄って、花屋にも…、いやそれより先に花瓶を」
「たくさんあるんだね」
 微笑みの余韻を残したままユウヤが言った。
「今日やりたいことのリストを作ろう、ジン」
 ユウヤはジンの両手を包み込むようにして手を組んだ。
「君のやりたいことを全部、僕は、君と一緒にするよ」
 キッチンテーブルの上を片付けて、皿を洗って、歯を磨いて顔を洗って、洗濯したシーツを明るい陽の射す窓の外に干し、清潔な匂いのするシャツを着て。
 リストには書かなかった、でも最初のこと。
 シーツの影でキスをする。