20代編 4







 二人で一緒に眠る。花柄、動物の柄、まるで子供のようなシーツに包まれて。少し温度の違う体温を溶かして、互いの寝息に耳をすませて、触れ合い、抱き合い、眠る。もうあのベッドには戻りたくないから。ここがイェーテボリの裏通りにある古アパートで迎える朝だと、今本当の人生を生きていると、実感したいから。
 硬い床の感触。背中がわずかに痛む。しかしそれよりも腕に絡みつく温かな手がジンの目覚めを促した。
 床の上で目が覚めた。
 瞼を開くと、いつもより少し寝坊したらしい、カーテン越しの光を明るく感じた。穏やかな呼吸を耳元に感じる。首を傾けるとユウヤが静かに息をしていた。もう眠ってはいなかった。名前を囁きかけると瞼が開いて、大きな黒い瞳がジンを見た。ジンは腕を伸ばしユウヤの身体を柔らかく抱いた。呼吸が胸元にかかる。ジン、と囁く声が聞こえる。
「起きないと」
「…もう少しこうしていよう」
 温かな吐息。
「分かった」
 ユウヤは脱力した身体をジンの腕に委ねる。長い髪を撫で軽く抱きしめると、ジン、と再び囁く声。
「昨夜のこと、話してもいい?」
「…何だ」
「ジンは僕としたいの、ああいうこと」
 セックスを、と囁かれ、ジンは髪を撫でる手を止める。
「ユウヤ」
 ジンは軽く腕をほどくとユウヤの顔を覗き込んだ。
「僕は約束した。もう君をつらい目にはあわせない、君を傷つけるようなことはしないと」
「あれは僕を傷つける行為?」
「少なくとも…負担のかかる行為だ」
「どうして」
 ユウヤは無垢な疑問をそっと差し出す。
「当たり前にしてるんじゃないの、みんな」
「僕達は男同士だから」
「男同士では…特別?」
 昨夜はごく自然にキスを望んだ。ジンの心の動きはもうそのように傾いている。しかしユウヤがそれを受け容れたのは知識がなかった故、それにジンを信じ切っているが故だ。
「ジンはしたかったんじゃないの」
「僕は…」
 ジンはユウヤの手を握りしめて言った。
「君が愛しい。だから君の傷つくようなことはしたくない。あの行為は…」
「僕の身体は丈夫だよ」
 ユウヤの手が伸びて頬に触れる。
「心配しないで」
 ぎこちないキスが唇に触れた。昨夜覚えたばかりの行為。足が絡みつく。太腿が触れ合うと、パジャマ越しにも一瞬危うさを感じたが、それよりも愛しさが満ちて身体よりも先にジンの心を熱く充たした。
「ユウヤ…」
 ジンは同じようにユウヤの頬を撫でた。自然と微笑みが浮かぶ。ユウヤ、と繰り返しジンは囁いた。
「僕は君に歓びを与えるためにこそ、あの行為をしたい」
「僕の、歓び…」
「そうだ。僕の欲望のためにしてはいけない。君が歓びを感じなければ意味がない」
「僕は…」
 黒い瞳がかすかな戸惑いに揺れた。
「僕の歓びは…ジンがくれるのに」
 ジンは首を横に振った。
「今は、こうさせてくれ」
 腕は強くユウヤの身体を引き寄せ、抱きしめた。ユウヤの吐いた息が熱く胸に触れた。
 もしもこれが週末の朝だったら誘惑に負けていたかもしれなかった。しかし窓の外には平日のざわめきが始まっていた。二人は朝食を摂ってそれぞれの制服に着替え出勤しなければならなかった。それをよかった、と思うのは自分の臆病さでもあるとジンは認めた。
 ――もうユウヤを壊すことはしない。
 したくない。
 ――もしもユウヤがいなくなったら…、
 その日が世界の終わりだろうとジンは感じている。

 週末、図書館に行きたいとユウヤが言うので二人で自転車に乗って出掛けた。ユウヤが手に取った本は義務教育向けの保健の教本や、教師の為の性教育の方法論を書いた本だった。おそらく自分だったら照れがあっただろうというラインナップにもユウヤは動じない。
 ――勿論、当然のことだ。
 ジンは読書テーブルの向かいに座り、ユウヤの真面目な顔を眺める。
 ――これはごく真剣な話なのだから。
 ただ待つことも出来ず本棚の間を歩くと、サンルームのように張り出した空間があり、丸く配置されたベンチの中央に据えられた本棚には雑誌の最新号が並んでいた。ジンは英語版のLBXマガジンを手に取り、ぱらぱらと捲った。先日の安全会議でデモンストレーションを行った山野バンのロングインタビューが掲載されていた。
 ――バン君。
 立ち読みをしていると司書が近づいてきて咳払いをする。ジンはそれを手に元の席に戻った。
 ユウヤが読書をする速度は速い。もう次の本にかかっていた。ジンが席に着くと、本から視線を上げる。
「Lマガ」
「ああ」
 ジンはインタビューのページを開いて見せた。
「山野…バン…」
「バン君は先日の安全会議でのデモンストレーション、本気のバトルを見せたらしい」
「うん…」
 素直な頷きは些か虚ろだった。そうだ。ユウヤにとってバトルに本気も手抜きもない。課せられた条件をクリアし、目的を達成する。勝つ喜びも負ける悔しさもなく繰り返されるだけのテストだったのだ。
 開いたページの文字をなぞりながらジンは言った。
「安全会議の席だ。LBXを開発製造している各社は規制が厳しくなるのを恐れている。勿論、プレイヤーも。しかしバン君は敢えてLBXの威力を示した。その上で夢や笑顔も与えるものだと説いている。ほら、ここ」
 バンの写真が並んでいる。真剣な表情から笑顔へ。その下の記事をジンの指ななぞる。
「強化ダンボールの中でなら、僕らは騎士にも戦士にもなれる。僕は強化ダンボールの開発者、LBXの開発者に感謝している。僕はLBXを通してたくさんの友達や仲間を得た。楽しい思い出もたくさんの笑顔もLBXと一緒にある。だからこそ次の世代にも、僕らがもらった笑顔を与えたい。絆を受け継ぎたい。それにLBXは……」
 ジンは言葉を途切れさせた。ユウヤの視線はジンの指の止まった先をなぞり、黙読した。そこでバンは医療や福祉のリハビリテーションの現場で活躍するLBXについて言及していた。そこには懐かしいあのシュトゥットガルトの、エンペラー社の名前も出されていた。
 静かにページが閉じられた。ジンは立ち上がり、それを本棚に戻した。背中をユウヤの視線が追っていた。振り返るとこちらをじっと見つめている。ジンは微笑み、何でもないようなふりをした。
 帰りの自転車の上、ユウヤが言った。
「コピーサービスがあった」
「…興味のある本が?」
「Lマガ」
 ユウヤが自転車を停める。文房具屋の前だった。
 図書館でバンのインタビューをコピーすることは可能だ。文房具屋でスクラップブックを買ってそれを貼り付けるのも。どれも簡単なことだった。何一つ障害はなかった。しかしジンはそうしなかった。
 これまでも私物をほとんど持ったことがない。この四年間、何があってもすぐに逃げられるように必要最低限のものしか…、時には着の身着のままの逃亡だった。掴んだのはユウヤの手だけだった。
 ジンはユウヤの背中に額をぶつけた。
「…ありがとう」
 ユウヤはしばらくじっとしていたが、やがてゆっくりと自転車を漕ぎ始めた。
「僕はお礼を言われるようなことをしてないよ、ジン」
 感情に乏しい声が律儀にそう言った。

 帰宅はだいたいユウヤが早い。今日もジンが帰ると、ユウヤは居間の窓辺で夕焼けの明かりに照らされ雑誌を読んでいた。夕食の支度はしない。ユウヤは未だに味が分からない。
「ただいま」
 声をかけると顔が上がる。
「おかえりなさい」
 雑誌を椅子の上に置き、寄ってくる。汚れた作業着を脱がせ、ユウヤは洗濯に向かう。洗濯機はアパートの地下の共同ランドリーだった。明日は週末で汚れ物が溜まっていた。ユウヤはかご一杯の洗濯物を持って、いってきます、と声をかけた。
「一人で大丈夫か?」
「平気」
 シャツに袖を通したジンはほっと一息つきながら夕食の準備にかかろうとする。
 ふと、ユウヤが読んでいた雑誌が気になった。まさかLBXマガジンだろうか。自分が頑なな態度を取ってしまったから…。ジンは雑誌の伏せられた椅子に近寄り、橙色に照らされた窓の下でその表紙を見た。
 セーファーセックスという特集の文字が、ゴシック体で大きく書かれていた。表紙は男性同士のカップルが手を繋いでいる写真だった。
 ジンは手に取った雑誌をそっと元の場所に戻し、台所に向かう。まず水を飲んだ。もう一杯飲んだ。三杯目の途中で息が苦しくなり、流しに手をついた。
 ――知らないふりはできない。
 蛇口から溢れる水は手を濡らした。ジンは掌で顔を拭った。
 ――望んだのはまず、僕だ。
 しかし気もそぞろで、夕食にと買ってきたニシンをフライにしたものの半分が黒焦げになった。空の洗濯かごを持って戻ってきたユウヤは一度鼻を鳴らしたが、何も言わなかった。乾燥室に干してある洗濯物の取り込み時間を書いたメモを冷蔵庫に貼り、キッチンテーブルについて焦げていないフライが出されるのを待つ。
 黙々とした食卓だった。久しぶりに気詰まりな沈黙がテーブルの上を占めていた。食事を終えたユウヤが片付けのために席を立とうとするのを引き留め、ジンは尋ねた。
「あの雑誌は…」
「特集を調べてバックナンバーを取り寄せた」
 より安全なやり方で…、とユウヤは呟く。
「ジンに迷惑をかけたくない」
「いいや、僕こそ君には…」
 勢い込むと、急にユウヤが立ち上がった。突然のリアクションにジンは息を飲んだ。自然と身体が硬直した。
 ユウヤはジンに近寄り、ゆっくりと両腕を広げた。
 ゆっくりと、本当にゆっくりとした仕草でユウヤの両腕はジンを抱きしめた。ジンはユウヤの胸に顔を押しつけられながら、まだ息を詰めていた。
「ジン」
 穏やかにユウヤは語りかける。
「もう苦しまないで」
 手がぎこちなくジンの頭を撫でる。
「哀しまないで」
「…哀しむ…?」
「君のことは分かるんだ、ジン」
 ユウヤが目を伏せる。胸に、掌に感じるジンにそっと囁きかける。
「僕は君のことなら分かるんだよ。自分の感情は分からなくても、君のことなら分かる。君が苦しいと僕も苦しい。君が哀しいと、僕もこの感情が哀しいんだって分かる。だって、僕の心は君がくれたんだから」
 頭を撫でる掌に感情が宿るのをジンは感じた。ぎこちない動きの中にそれは確かに宿り始めていた。
「君を歓ばせたい」
 ユウヤが囁く。
「君に歓びを与えたい。僕に心を与えてくれた君に、お礼がしたい。僕はジンのためだったら何でもできる。ジンはいつだって正しいし、僕は何も怖くない」
 募る感情は優しさであり愛しさであり、人間の獲得した原初のあたたかい感情だった。ジンはユウヤの掌からそれが伝わるのを感じ、自分の中からもそれが生まれ充たされるのを感じた。そしてジンの熱がユウヤにも伝わる。
 二人で夕食の片付けを済ませ、額を付き合わせるようにして雑誌を読んだ。必要なものを書き出し、買い物はジンがすることに決めた。
「…明後日だ」
「土曜日の夜」
 そう、決めた。