10代編 1







 シュトゥットガルトの上空は薄曇りだった。時々、ところどころで小雨が降って、銀色の街を静かに濡らした。ドイツ南西部のこの街は古くから工業都市として栄えており、高名な自動車メーカーの本社のみならず、新進のLBXメーカーが頭角を現す土地でもある。
 海道ジンがビルから見下ろす景色は、まるで強化ダンボールの中のジオラマのような工業都市の風景。工場やビルのメタリックな輝きは、曇天模様の今日は息をひそめている。視線を遠景に投げると、街を流れるネッカー川を越えた先に丘陵地帯を望んでいた。秋が近づき日に日に黄葉へ向かうブドウ畑の景色は、この古い都市に馴染みのもので、ビルに囲まれて暮らしてきたジンには遠く、目新しい風景だ。
 世界に名だたる工業都市でも五本の指に入るこのビルは、海道ジン率いる新進LBXメーカーの本社である。社長は若干という言葉も驚愕の十九歳だが、秒殺の皇帝の異名を持つ世界最高レベルのLBXプレイヤーであり、何よりあの海道義光の跡継ぎだった青年だ。しかし彼は祖父の威光を借りたのではない。
 財閥の長となった海道ジンがまず行ったことは、海道家が、そして祖父が生み造り殖やし営々と築き上げてきた王国を解体することだった。一族が富を独占することを時代はもはや望んでいない。そしてジン自身も『海道』を乗り越えることで彼自身の人生を踏み出すことができると信じてそれを断行した。財界、政界問わず激震の走るニュースであり内外からの反対も大きかったが、ジンの決意は固かった。
 受け継いだ遺産を全て処分し渡欧した六年前、ジンにはまだ人脈も住む家もなかった。ホテルの狭い部屋で暗い天井を見つめた。思い出すのはあの日々。山野バンと出会い、戦い、一時は学校にも通った、楽しさも、倍の苦さも感じた忙しい一年のことだった。
 持てるだけの金、持てるだけの知識、技術、時間、そして持てるだけの情熱を何に投じるか。迷いはなかった。
 がむしゃらに駆け抜けた日々はバンとの戦いを彷彿とさせた。人生に正面から向き合うのは、なんと苦しくなんとやり甲斐のあることだろう。そして今、ジンは自分の会社に誇りをもって初代愛機の名を冠している。そこへは人生の荒波にも耐えうる自分へと育て上げてくれた祖父にして養父、海道義光の忘れ得ぬ思い出もないではなかった。今や歴史の中でどのように名前の刻まれている人物だろうと、自分にとって海道義光はかけがえのない人であったことも事実だと、ジンは最近ようやく受け容れられるようになったのだった。
 今、目の前に広がる薄曇りの景色は妙な胸騒ぎをジンの胸に呼び起こした。午後から、日本の先進開発省、大学の研究者たちと会談することになっていた。
 CCMスーツ。
 かつて神谷重工が独占的に持っていたその技術は、現在は日本の国営事業として研究が続けられている。それを知ったのは会社を興して数年後のことだ。正直、封印されたものと思っていたのでショックなニュースだった。ジンは懐かしさとも哀しみともつかない思いの中、ある面影を思い出す。
 灰原ユウヤ。
 自分と同じくトキオブリッジ倒壊事故で身寄りをなくした少年。病室の隣のベッドで、一人にしないで、と涙を流し続けたか弱い声。傷だらけの身体。その記憶は自身も抱いた悲しみと共に長く封印されてきたが、ジンはそれを思い出し、自分と彼を巡ることの真相を知ることとなった。
 海道義光に引き取られ、何不自由なく、また最高の教育を受けてきたジン。対して灰原ユウヤは同じく海道義光の指示の下、神谷重工でCCMスーツ開発の被験体として過酷なテストに傷ついた身を晒されてきた。そしてアルテミス決勝戦でのあの暴走。
 今でも忘れることのできないバトルだ。ジンは山野バンと協力してLBXを破壊したが、それは同時にサイコスキャニングモードによって繋がった彼の精神を砕くということでもあった。そのことに気付きながらも、ジンは暴走するLBXを、悲しみ、憎悪、そして孤独にもがき何もかも破壊しようとするジャッジを倒すことを決断した。
 あの時見た涙、瞳に渦巻く悲しみと混乱がユウヤの中に見た最後の感情だ。病院に収容されたユウヤは昏々と眠り続けた。ジンは日本を離れる直前まで毎日のように病院に通い続けたが、結局一度たりとも目を覚ますことはなかった。その後、どうなったのか…。
 同情なのだろうか。海道義光の真意を知った後では、自分とユウヤの立場は入れ替わりかねないものだったと分かる。優越者として自分は情けをかけているのだろうか。いや、ヨーロッパに渡ってからは連絡をすることも、病状を問うこともしなかった。しかしジンはユウヤを忘れられない。彼はまるで自分の影だ。
 インターフォンの人工的な音がジンの意識を現在に引き戻した。秘書が、日本からの使者の到着を告げる。若き社長は出迎えに向かおうとして、もう一度窓を振り返った。灰色の街を映すガラスの壁面は鏡のようにジンの姿を映しだした。そこに立っているのは間違えようもなく十九歳の自分だった。ジンは心の底に残った感傷を追い出し、部屋を出た。

 だがそこに待っていたのは、まるで幻覚かと思われる光景だった。先進開発省の役人、大学の研究者の後ろに立っていたのは、間違えようもない、灰原ユウヤ。さっきまで瞼の裏に面影を蘇らせていた、あの灰原ユウヤだ。六年の時の開きがあろうとも、ジンには分かった。だがそれは同時に、アルテミス会場での再会を彷彿とさせた。
 背は高い。自分と同じくらいだろうか。長く伸びた髪が無造作にくくられている。顔にかかる前髪から覗くのは、光を失った意思のない瞳。わずかに猫背気味に、まるでちょっと昔のラジコンで操作されているかのようにぎこちなく歩いていた。
「海道社長」
 先進開発省の役人は今では滅多に呼ばれないその名でジンを呼んだ。
 ジンは目の前の役人が一体どんな人物であるかは調べ上げていた。男は懐かしげな笑みを浮かべジンの手を取って握手した。
「お懐かしいですね。あなたは覚えていらっしゃらないかもしれませんが、幼いあなたを海道邸で拝見したことがあります。私も海道先生の薫陶を受けた者でして…」
 立派に成長されました、と握手する力が強くなる。この男は自分でも名乗った通り海道義光に育てられた役人であり、同時に財閥の解体時に最後まで反対した一派の一人だった。
 その後、一人ひとりと握手を交わし灰原ユウヤの番になる。ユウヤは素直に手を差し出した。しかし手を握ったのはジンだけだった。掴み返すことのない冷たい掌をジンは握った。
 ユウヤの目は自分を見ている。しかし気付いていないのだろうか。反応のひとつもない…。
「彼は灰原ユウヤ。海道社長もご存じでしょう。あのアルテミスで…」
「ええ、存じています」
 ジンは手を離すと、一団を招いた。
「詳しくはこちらで」
 分かっていますとも、と言うように役人は微笑した。
 エレベーターで上階に向かう、気詰まりな密室の中で、ジンはそっとユウヤを盗み見た。掌には乾いた冷たさが残っていた。ユウヤは俯いて顔を上げなかった。
 ジンの会社が得意とするのはCCMによる操作性にある。LBX本体だけでなくCCMの独自開発によってどんな条件の人々でも遊べるLBXを目指していた。大人、子どもという区別だけではない。右利き用、左利き用。足で操作するCCM。効果を振動で伝えるものなど。医療機関や福祉施設のプレイングルームやリハビリで採用されているLBXとCCMはジンの率いるエンペラー社製のものがほとんどだ。
 誰もが安全で安心して遊べるLBXを。それは日本を離れる際、バンと約束したことでもあった。イノベイター事件の後、日本の財前総理の呼びかけでLBXの世界的な安全会議が開かれた。子どもたちに夢を与える技術の軍事転用を許してはならないと倫理委員会が立ち上げられ、その中には、この根深い事件で同じく痛手を負った八神英二の名もあった。海道義光の元腹心であり、ジンと共にイノベイターを裏切った男は、今度こそ新しい未来を切り拓こうとしている。
 実は八神を倫理委員に推したのは、かつて暗殺を企てられた総理大臣の財前なのだとバンを経由して聞いた。海道の名は消え、歪みは是正されていっているように見えたが…。
 根の深い事件だ、とジンは目の前の男を見て思った。先進開発省はかつて海道義光が大臣を務めた省。トキオブリッジ倒壊事故も、あの多大な犠牲さえも義光の計画の一部ではなかったのかと疑われているということは、悪の萌芽はもっと昔まで遡らなければなるまい。たとえ枝を落とし、地上にうずたかく積まれた葉を燃やしたとしても、地下に張り巡らされた根はまだ息を続けているのか。
「誰もが楽しめるLBX」
 男がパンフレットを捲りながら言う。肩書きに対してまだ若い。浮かべているのは気のいい中年の笑顔だが、かつて義光とて老獪という見た目ではなかった。個人的付き合いのある人間ならば誰もが口にする。あの方には威厳がありました。慈愛を感じる人でした、と。
「素晴らしい理念です」
 すっかり皮に張り付いたのだろう笑顔の仮面の向こうから投げられる声は、一つ一つ冷たい木霊を残す。少なくともジンにはそう感じられる。とて、感情に流されてはならない。ジンもまた社を代表する者としてかすかな笑みと共に礼をする。
「ありがとうございます」
「これまでも通信会談などで申し上げた通りです。エンペラー社のLBXは医療機関、保健機関、福祉施設において大幅なシェアを持っている…というか、非常に人気が高く、評判もいい。我々は数字を相手にする仕事です。確かに示されたグラフや結果が決め手ではありますが、我々は人々の心を動かす発明をされる御社にこそこの研究のパートナーを、と選んだのです」
「確かに」
 ジンも頷く。
「私たちの発明は結果的に、これまでLBXを手に取れなかった層への敷居を下げることに繋がりました。開発に際して私たちは積極的に病院や施設の利用者と面接を行い、彼らのニーズを聞いてきました。それが幾つもの発明に繋がり、相乗作用的に技術を革新した」
「素晴らしいことです」
「しかしその上で無視できない技術がある」
「CCMスーツ」
 その通りだ。身体に流れる神経パルスや筋パルスをLBXへの電気信号として送ることができれば、たとえ手足が動かなくても遊びたい気持ちにLBXが応えてくれる。耳の聞こえない子どもにはLBXが爆発のそばを駆け抜ける迫力を、目の見えない子どもにもその攻撃の鮮やかさを伝えられるかもしれない。もっとたくさんの子どもたちに遊ぶ楽しみを与え、小さな戦士になる夢を叶えることができる。
 神谷重工の手を離れたCCMスーツは独占され公開されない技術となった。しかしその門戸が今、目の前に開かれようとしている。
「我々が御社に共同開発を申し出たのは数字も理念も功績も勿論、その技術を我々が欲したからです」
 海道社長、と男は身を乗り出した。ジンはわずかに顎を引き、それに構えた。
「我々はこの技術をある分野に転用できないかと考えている」
「何の話です」
「まさか軍事転用とお思いですか?」
 男は両手を開き、まさか、まさか、と笑った。
「そう身構えないでください、海道社長。私は確かに海道先生の薫陶を受けた者です。が、盲目ではない。現在の歴史に先生のお名前がどのようなものとして刻まれているかも重々承知しています」
 おかしそうにくつくつと声を上げていたが、男は不意に笑いを収めた。
「私が信用なりませんか」
「それを今見極めています」
「歯に衣着せぬお方ですな。お若いが、切れ味は先生を思い出させる」
「私はあなたの笑顔にこそ祖父を思い出します」
「それは」
 男は本当に驚いたのか、それともポーズだろうか目を丸くした。
「いやはや。褒め言葉と受け取っておきましょう」
 ハンカチで汗を拭い、男はまた少し笑った。
「さて何の話だったかな。…そうそう、CCMスーツの技術転用のことです。こうなったら解答を引き伸ばしにするのはやめましょう。クイズ番組でもありませんし、我々は限られた時間の中でこの重要な会談を行っている」
 軽く指示が出され、ジンたち会談参加者の目の前に一揃いの電子書類が姿を現した。
「我が国が、そして我々先進開発省が進めているのはこの技術の義肢・義体への技術転用です。応用と言うべきかもしれないが」
「義肢……、義体?」
「最終的にその脳さえ生きていれば自由に動かすことのできる人造の肉体です。この技術が完成すればどうでしょう。難病に苦しむ人々だけではない。人間は老いからも自由になる」
「不老不死…ですか?」
「脳とて老います。それはまた別のセクションが研究を行っている」
「義体…」
 機械の身体。サイボーグ。ジンが最後に見た祖父は本当の祖父ではなかった。あれは海道義光らしく動くだけの機械、アンドロイドだった。
「今まで夢を諦めざるを得なかった人々、弱者として涙を呑んできた人々に大きく道を拓く技術です。そのためにも海道社長には是非、サイコスキャニング技術を完成させていただきたい」
「サイコスキャニングだと!」
 ジンは思わず声を荒らげた。それがもたらした悲劇を彼は目の当たりにした。いや、直接手を下したのが彼なのだ。
 しかし男は未来を語る微笑みを崩さないまま、掌でジンを制する。
「勿論、我々も何が起きたかを忘れたわけではありません。しかし精神との同期が可能になればどうでしょう。どんな人々を救うことができるか、海道社長ならば想像がつくはずだ」
 ジンはキッと相手を睨んだ。
 ――LBXの軍事転用が無理ならば、更に経由点を挟んで世間の非難を薄めようという訳か。
 義体という言葉の向こうにはかつてイノベイターの抱えていた野望が今なお燃え上がる時を待って燻っているのが見える。しかし。
「たくさんの子どもさんとお会いになられたのでしょう」
 男は微笑みながら頷いた。分かっていますよ、私には分かっています。彼らの笑顔が見たいでしょう。彼らがLBXで楽しく遊ぶ姿が見たいでしょう。あなたはLBX生みの親の息子である山野バンとも約束しましたよね。バン君は素晴らしい人だ。今年も世界チャンピオンを防衛しました…。
 分かっている。
 ジンと男の視線は同時に灰原ユウヤを見た。ユウヤは最初に席についた姿勢のまま、心ここにあらずという感じで机の上に視線を落としていた。
 ――分かっている。僕が頷かなければお前たちはユウヤを使うんだろう。
 そのために連れてきた。分かっているのだ。トキオブリッジ倒壊事故の生存者は唯一ジンだけと思われているが、本当はもう一人。同じ悲しみを抱えた魂がもう一つ。
 ――魂……、
 ユウヤの目には光がない。
 ジンは正面を向いた。氷のように冷静な視線で相手の笑顔を射貫いた。
「…私はあなたがたの技術を」
 男は細めていた目を開き、重々しく頷く。
「我々は御社の技術を」
 サインを前に契約の確認が行われた。男は立ち上がり二人の研究者の背中を叩いた。
「彼らがチームリーダーとなって、消し飛んだデータを修復し、研究を継続させてきたのです。彼らを中心に優秀なチームを送ります。そして灰原ユウヤ君、彼をお貸しする」
「…貸与、だと?」
 契約書の文言をジンは指差した。
「彼は一個人である以前に、我が国の貴重な財産です。世界で唯一のCCMスーツ被験体というね」
 再びユウヤを見ると、驚いたことに目が合った。自分のことが話題に上っているから、だろうか。しかしその瞳にはやはり意思が感じられない。
「…いいでしょう」
 ジンは不敵に笑った。
「彼のことは丁重にお迎えさせていただきます」
「ええ、勿論でしょうとも」
 男は笑い、二人はサインを終えた手を交わらせた。ジンは始終その笑みを崩さなかった。男もまたジンにとって祖父を思い出させるその笑顔の仮面を一度たりとも曇らせなかった。
 ユウヤは笑うことも、その他一切の感情を見せず、薄曇りのシュトゥットガルトの街を見下ろしていた。