煙草の匂いより不慣れであたしの知らないこと







 シーツに顔を押し付けていると男の匂いがした。肌の匂い、整髪料の匂いだ。真野はすっかり慣れてしまったそれをかいで、フン、と怒った息を吐いた。
 シャワーの水音は冷たい。ガラス張りのシャワールームにはコブラのしょんぼりと項垂れてたシルエットが映っている。傾いた首は腫れた頬を冷やしているのだろう。真野が殴ったのだ。
 拳で思い切り殴った。真野はハッカーだが元々荒事にも身を置いている。イノベーターでは軍事とも呼べる演習が行われたし、事件の端緒であるエターナルサイクラーの設計図奪還の為山野バンの家をLBXで襲撃したのは彼女たちだったのだ。まだ何も知らない善良な少年の家を、である。
 繰り出す拳には必ず意志が宿っている。女にしては重い拳だ。それがコブラの頬を直撃した。
 争いの原因は今もベッドの上に転がっていた。真野は薄目を開けて、足元に転がるそれを裸足で弄った。真新しいプラスチックの光沢がラブホテルの照明と釣り合い、いよいよ真野を不機嫌にした。何度も身体を重ねた男から初めてプレゼントだといって差し出されたものがピンクローターだった時、果たして喜ぶ女はいるのだろうか。いるかもしれないが、真野は違う。
「女の身体は開発次第って言うだろ」
 コブラは真剣そうに、そして曰くプレゼントを取り出すとちょっと照れたように言った。
「これで乳首を…」
「男だって開発できるらしいじゃないか。マゾに目覚めてみるかい?」
 右ストレートは半裸の男をベッドから吹っ飛ばした。
 指先で抓み上げるとちゃちな玩具のようにも見えた。ピカピカのプラスチックがいかにも、という感じだ。本体のツマミを動かすとコードで繋がった卵形のそれが振動する。
 馬鹿馬鹿しいにもほどがある、とスイッチを切った。シャワールームの中から半ば期待を込めた目でこちらを見ていたコブラがまた項垂れた。
 シャワールームから出た男はしばらく所在なげに床の上の服を拾ったり投げ捨てられたプレゼントの箱をゴミ箱に捨てたりとしていたが、結局ベッドの端に腰掛けて煙草を吸った。真野が起き上がるとちょっと身体をびくつかせる。
「くれないのかい」
 手を伸ばせば差し出される煙草。安いライターがカチリと音を立て火を点けた。真野は深く吸い込んだ煙と共に溜息を吐いた。
「お互いウブじゃないんだ」
「じゃあ…」
 コブラがまたすぐに喜ぶような顔をするので、真野は思い切り唇を曲げた。
「でもこれは最低だよ」
 爪先でピンクローターを蹴りやると、コブラは叱られた子どものようにしょげた。
 黙って煙草を吸った。灰が落ちそうになった時、真野は二人の間にいつの間にか灰皿が置かれていることに気づいた。
 気遣いのできない男ではないのだ。コブラ。山野淳一郎のエージェント。本名は知らない。先の事件があって初めて知り合った。密な関係ではなかった。コブラは子どもたちと一緒に事件の起きるところ世界中を飛び回っていたし、真野は八神の下で働いていた。それでもバンたちの動向を追っていれば自然とその姿は目に入った。まず特徴的な髪型、一度見たら忘れられない。戦闘には不向きな男らしいのは実証済みだ。自身のLBXも持っていない。最前線で仕事を行うほど能力は高いが、ハッカー、エンジニア、どれとも分類しがたい。
 外見とスキルとプレゼントのセンスを天秤にかけ、それでもマイナスに傾くこの男を置いてホテルを出て行こうとしない自分に真野は思い至る。
 煙草を揉み消し、もう一息吐く。いつもと違う煙草の匂い。
「これでもあんたのことは気に入ってるんだ」
 コブラが短くなった煙草の煙の向こうで頬をさすり、情けなく顔を歪める。
「これでも、ねえ。愛が痛いぜ」
 誰も愛なんて言ってないだろ、と反射的に思う。
 胸の中で繰り返す愛という言葉は人生の中に存在したようで、手に取ってみれば紛い物で有り、本物は遠いどこかに置き忘れていた。イノベーターの兵隊。LBXは街を破壊し、人を殺すこともできると真野は様々な事件の前から知っていた。
 愛。何を愛したというのだろう。
 目の前の男を見ても、抱いた感情は愛ではないと思った。愛とは何か…それは自分の人生に存在したものだったろうか。一度もイッたことのない自分にも愛は宿るものなのか。きっとこの感情は愛ではない。愛はもっと素晴らしい感情だ。
 コブラはフィルターまで燃え尽きた煙草を灰皿に横たえ、へっ、と息を吐いて笑った。
「悪かったな、今日は…」
「違う…」
 真野は手を伸ばして男の裸の胸に触れた。
「違うんだよ…」
 片手でボタンに手をかける。荒事には本来向かないだろう、あまりにも女性的な身体。好色な視線を集めることも少なくはない大きな胸。果てる快楽を知らぬ肉体。
 セックスをするためにホテルに入ったのだ。最初からそうだった。たとえ今夜もイくことがなかろうと、真野は。
 コブラの腕が身体をベッドに押し倒した時、真野は少しだけ驚いた。灰皿が滑り落ちて床の上で音を立てた。灰が舞い上がったのか、また煙草の匂いがした。
 男の手は真野のシャツのボタンを一つ一つ外した。ブラジャーが押し上げられ、豊満な胸が揺れながら顔を出す。指先がその先端に触った。
 真面目な顔だった。いつも軽薄な男がこれでもかというほど真剣な顔で胸をいじっている。はは、と短い笑いが漏れた。
 両腕を伸ばしてコブラの頭を抱き寄せ、胸の間に埋めさせた。
「…どう?」
「オレは最高だ」
 やわやわと胸を揉む手が、また思い出したように先端に這わせられる。
「コブラ」
 両手で促すとコブラは玩具のような機械で開発しようとしていたそこへキスを降らせた。それから子どものように吸う。
 真野は抱き寄せる手でコブラの髪を乱しながら、もう一度、本当の名前でないその名を呼んだ。
「プレゼントを用意してくれた気持ちだけは受け取ってやってもいいよ」
「なあ、真野さん」
 胸の間からコブラは真面目な顔で見上げた。
「オレのこと、好きか?」
「気に入ってはいるさ」
「なあ」
 コブラの指は胸の先端を強く擦る。
「好きか?」
 不意に濡れた。
 勿論そのためにホテルに入った。最初からそれが目的だった。しかし真野は顔を赤らめて内股を擦り合わせた。
 コブラが胸の谷間から顔を上げる。跨がった身体が沈む。裸が触れ合う。触れ合った肌の間で生温かいものが生まれ、流れ落ちる。汗に濡れる。鼻をくすぐるのは何の匂いだろう。整髪料。煙草。
 こねられ、真野は声を堪えた。結んだ口元は微笑もうとするが、鼻から漏れる息も声も掠れる。コブラはじっと自分を見ている。いつもサングラスに隠れて見えない眸が、真野の目をじっと見つめている。
「…気に入ってるよ」
 ようやく一言答えると、コブラは表情を緩めた。
「オレはあんたが好きだ」
 内股の間がぬめる。真野は両腕で強く相手を抱き締めながら吐息をはいた。
「もういっぺん言っとくれよ」
「好きだぜ、真野さん」
「もっと」
「あんたのでかい胸を独り占めするのも、あんたをイかせたくて頑張るのも。あのオモチャ、ただのネット通販じゃねえんだぜ。人間工学と匠の技を選びに選び抜いて…真野さんの裸を考えながら買った」
「…やめて」
「あんたがどうやってよがるのか。初めてイくときはどんな顔してくれるのか、オレの名前を呼んだりしてくれるのか、想像しながら」
「……やめて」
「真野さん」
 手が太腿を這う。じわじわと濡れた内側に滑ってゆく。
「しようか」
 頷きながら、視界がわずかに滲のを不思議に思いぱちぱちと瞬きをする。コブラが目元にキスを降らせ、涙か男の唾液かも分からなくなった。
 真野は微笑み、小さな声で囁いた。
「しよっか」




2013.7.3