スーパーヒーロー







 センド・コンプリート。
 西原誠司はコンソールの上に両手をつき、ぐったりとうなだれた。今、サイバーランス社がその頭脳とアイデアと技術の粋を込めた全てのデータがタイニーオービットへ送られたのだ。
 悔いはない。後悔などないよう覚悟していた。緊急取締役会に召喚される前から西原はこの覚悟を少しずつ固めていた。ミゼルと名乗る謎の存在による攻撃。常識の通用しないLBX、ベクター。それが自分たちの科学力を軽く飛び越えていたショックもさることながら、改めて西原に胃の絞られるような悔しさを与えたのは、それらが奪った街の光景だ。
 ディテクター事件、それに続くこのミゼルの事件は子どもたちからLBXを奪ったばかりではない。技術者たちの心もずたずたに切り裂いた。LBXに託した夢と希望は、かつて子どもだった彼らの夢と希望に他ならない。子どもたちが傷つけられると同時に、もっと強いもっと格好いいLBXを作ろうと汗を流してきた彼らの心も深く傷つけられたのだ。西原が退職の相談を受けたのは部下の一人や二人ではない。同僚、また自分の上司さえぽろりとそんな言葉をこぼした。
 そんな彼らを励まし西原が浮かべた笑みは決して空元気から生まれたものではなかった。西原の胸の中には一つの光景があった。それが西原の心を支え続けた。
 ――プロトゼノン。
 リニアさえ止めるあの威力。ライバルのタイニーオービット社屋の目の前で、あの小さな機体が巨大な暴力を止め、多くの命を救った。西原たちの夢。もっと強く、もっと格好よく。そしてそれを可能にしてくれた少年、海道ジンのゆるぎない瞳。
 人はピンチの時、ヒーローの名前を呼ぶ。たとえ大人になって信じていないふりをしていても、彼らの中の少年がきっとその名を呼ぶ。だから西原はジンの名前を呼んだ。
 ――海道ジン、君なら世界を救ってくれる。
 西原はそれを信じている。だから。
 ネットに流れている言葉を上申したのは西原だった。理事会は西原を喚んでこう言った。街角から子どもたちの姿が消え、このまま社会が崩壊すれば、社の命運も何もない。LBXで遊ぶ子どもたちがいてこそ、その笑顔があってこそ、この会社はある。世界を救うためにデータが必要であれば、理事会はそれを提供することを決定した。しかし。
「最後に決めるのは君たちだ」
 と社長は西原の目を見つめ、言った。
「現場の君らが汗水を流して作り上げてきたLBXであり、プログラムだ。そのデータを本当に、しかもあのタイニーオービットに渡しても構わないのか。我々は君たちに強制はできない。君たちが納得するならば…」
 お偉方の思惑がどうであれ、言葉の裏に秘められたものが何であれ、世界の明日がなければ守る会社もないのは事実だ。それに西原は言葉の裏に含まれたものがなんであろうとも、胸の奥では歯を剥き出しにしこう思っていたのだ。
 ――受けて立とうじゃないか!
 最後に決断を下すのは自分。データ送信のコマンドを打ち込むのも自分。いいだろう。誰にもこの役目を譲らない。その決断、下させてもらおう。
 そして彼は今日、タイニーオービットへの回線を繋いだ。モニタの向こうには海道ジンの姿もあった。久しぶりに見る少年の顔立ちは凛々しく、仲間たちに囲まれている力強さもあるのだろう、泰然としていよいよ心強い。
 ――海道ジンなら…、彼らなら信じられる。
 そしてその最前面に立ち、少年たちの信頼の視線を集めている宇崎拓也なら…。
 ――信じるしかあるまい。
 ただの七光りかと思っていれば、どうして、最前線で戦う彼らからこんなにも信頼を受ける男だったとは。
 西原の胸は鎮まった。社の命ともいえるデータを渡すのだ、やってみろ、という挑戦的な気持ちもあった。しかし今は信じて、託す気になった。
 コンソールを指は静かに滑り、データ送信のキーを叩いた。
「…主任」
 後ろから声をかけられる。西原は軽く手で制すると、胸ポケットから煙草を取り出し口にくわえる。
「禁煙ですよ…」
「知ってる」
 今まで忘れていたが。
 西原は声をかけた部下を振り返り、火のついていない煙草を軽く振って笑ってみせた。
「あとは任せるよりないさ」
 再び煙草をくわえ手の中でジッポーをいじりながら喫煙ルームに向かう。しかし窓から自分が顔を覗かせた途端、煙の向こうから幾つもの視線が集中した。西原はそれらしく頷いてみせ、そのまま喫煙ルームを通り過ぎた。
 結局エレヴェーターを一階まで下り、社屋の外に出る。玄関から見通すことのできる大通り。そこにもかつてはLBXバトルをする姿が見られたものだ。今はそれもない。それどころか、このトキオシティが真昼だと言うのに人通りの少ない街となってしまった。
 西原はその場にしゃがみこんだ。虚脱感が想像以上の勢いで内側から食い荒らす。西原は言うことをきかずそのまま垂れ下がっていたいと言う腕をなんとか持ち上げ、煙草に火をつけた。
 煙とともに吐き出す。
「信じる…」
 ――だがあれは同時に私たちの命だった。
「だから、信じる…」
 ――海道ジン、
「信じています」
 更に深く深く西原は息を吐いた。泣いている訳ではなかった。しかし虚脱した身体の内側を煙で満たし、その煙を吐き出すことでなんとか人間の呼吸を保っていた。
 その時、肩に重たい手が載った。斜睨みに見上げると円卓の中央から自分を見つめていたあの社長が立っている。
「一本くれ」
 社長は西原の傍らにしゃがみこみ、手を出した。西原は手の中に握りしめていた箱から一本差し出す。
 煙草を受け取る手も火を吸いつける仕草も慣れたものだった。社長は目を細めて深く煙を吸い込むと、空に向かって吐き出した。
「禁煙三年目だったんだ。水の泡だな」
「お気の毒に」
「西原」
 厚い手が背中を叩く。
「よくやってくれた」
「…これは私の仕事ですから」
 半ば睨みつけるように言うと、社長は目の奥で懐かしそうに笑った。業界でもまだ若い男だ。しかし間近で見れば目元の皺、鬢に混じる白いもの。そして西原を見る目には子どもを見るような優しさがあった。
「君と面接をした時のことを覚えている。二十歳そこそこの若造が食らいつきそうな目で野望を語った」
「そうでしたか」
「覚えてないのか?」
「どうでしょう」
 西原は覚えている。野心にたぎる自分の目を、この社長は挑戦的に見返したのだ。
「この事件ももうすぐ終わる」
 社長は立ち上がり、言った。西原はしゃがみこんだままそれを見上げる。
「随分楽観的ですね」
「君が信じてデータを託した。ならばタイニーオービットも、小さな戦士らも応えない訳にはいかんだろう」
「…そうですね。私は海道ジン…たちを信じています」
「みんなの力を合わせて世界を救う…。子どものころ夢中になったアニメのようだ。我々は主役にはなれなかったが…、なかなかいい脇役だとは思わんか?」
「そうそう…」
 西原も立ち上がり、口から煙草を離した。
「思い出しました、社長。私は戦隊モノではブルーが好きだったんです。主人公のレッドではなくて」
「私もだ。気が合うな」
「ですからあなたの部下で、この会社の社員ですよ、私は」
 社屋の玄関で社長と社員が煙草を吸うなど言語道断だが、警備員は見ないふりをし、フロントの女性社員は戻ってきた二人にそっと携帯用灰皿を差し出し、二人の吸い殻を押し潰すとするりと自分のポケットに滑り込ませ何もなかったかのように仕事を続けた。
「楽しみが増えたな」
 エレヴェーターの中で社長が言った。
「次はタイニーオービットに送ったデータにもない、彼らが目を剥くような全く新しいLBXを作ってやろう」
「…望むところです」
 鋼鉄の扉が開く。開発部のフロア。そして目の前のエレヴェーターホールには社員が集結していた。皆が拍手をした。泣いている部下の姿もあった。西原は社長の手に軽く背中を押され拍手の中を歩くと、泣いている顔を一つ掴まえて、みんな、と声を上げた。
 ぐるりと見回す。皆、自分を見ている。
「私たちは私たちのやれることをやった。後は我らがヒーローを信じよう。これで仕事は終わりじゃないぞ。世界が救われて、子どもたちの笑顔が戻ってきた時のために、準備をしなくちゃあいけない」
 西原は指を一本立てる。
「作るぞ、新しいLBX」
 力強い拍手がフロア一杯に沸いた。西原は皆の背をそれぞれの職場に追い立てる。振り返ると、エレヴェーターの前で社長が親指を立てていた。西原は今度こそそれに心から頷き返した。

 その夜、遅くまで社に残っていた西原は届いた膨大な量のメールに目を通していた。タイニーオービットからの謝辞を始め、各社からの連絡、総理府を通じてのメールもある。目が疲れてぐったりと椅子の背もたれに反り返ると、ポケットの中で携帯電話が震えた。霞み目のまま、眩しく光る小さな画面を見つめ、西原はらしくなく「くはっ」と声を漏らした。
 笑ったのだ。
 ヒーローからのメールだった。一声笑って、西原は目を覆った。泣いていた訳ではない。ただ霞み目にその画面は眩しく涙はちょっと滲んだかもしれないけれど。




2013.3.14