美しい世界の終わり







 その巨大な建造物は一世紀も昔の公共事業の産物だった。灰原ユウヤはそれを目の前にして世界の果てを感じた。ここで世界は終わっても不思議ではないと、そう思った。
 目的のあった旅ではない。ユウヤにとっては旅そのものが目的だ。年明け前の冬、アメリカ東海岸で開催されたLBX大会に海道ジンは出場しなかった。タイミングをアルテミスに合わせたのだ。調整のために日本に行っているということだった。擦れ違いになってしまった。大会後、西海岸まで歩いてみようと思った。
 実際に全行程を歩く訳ではない。ヒッチハイクを繰り返しながらの旅だった。砂漠の入り口のダイナーでトラックから下され、蜃気楼に揺らぐハイウェイを歩きながら何日目だろう。
 コンクリートの灰色の壁。この冬の乾季、乾ききった高い高い青空の下、それは世界の最後を暗示するかのように建っていた。一世紀もの間風雨に晒され続け、褪せ、くすみ、表面には無数の罅割れが走っている。触れればその部分はさらさらと砂のように崩れた。しかし芯はまだ頑強だ。
 赤い谷間の、とうに枯れた河を堰き止める巨大なダム。ユウヤは大昔川底だった場所に佇み、灰色の巨大な壁を見上げていた。一枚の壁であるそれは、同時に人類の文明が最後に残した骨のようでもあり、汗ばむ肌の下で一瞬、自分の骨がぞくりと震えるのを感じた。
 僕もいつか死ぬ。
 そして世界もいつか終わる。
 膨張する太陽に飲み込まれ、その太陽さえも燃え尽きて、宇宙は静かに温度をなくし平らになる。
 それはいつのことだろう。ユウヤには想像することができない。しかし目の前のこの巨大な壁を世界の果てであり、世界の終りだと説かれれば…きっと信じたに違いない。
 厳然としてある。冷然として聳えている。一月の灼熱の太陽の下、無感情に焼かれている。その崩れかけた白い表面に両手と頬を押し当てれば、死も生も隔てのないもののように感じられた。
 そしてじわじわと、
 ――生きている。
 と思った。
 ユウヤは分厚いコンクリートの壁に耳を押し当て、聴覚を研ぎ澄ます。最初は何も聞こえないように感じる。焼かれたコンクリートが耳に熱い。しかしそれが過ぎ去ると膨大な静寂を圧縮したような密度の巨大なコンクリートの塊の奥の奥から不思議な振動が聞こえてくる。口を閉じて声帯を震わせ骨に響かせるような低く不思議な音色だ。
「人がいる」
 耳を押し当てたまま瞼を開き、ユウヤは呟いた。
 コンクリートの壁から手を離し、首が痛くなるほどに見上げる。そそり立つ巨大な灰色の壁の果て、砂漠の一月の青空が広がっている。水気のない、生き物のいない、いっそ清浄なほどの空の下。
「生きた人間がいる」
 ユウヤは枯れた川底をゆっくりと歩き出した。堤頂まで二百メートル余り。どう上ったものかな、と考えた。

 堤頂の端にある鋼鉄製の扉は電子錠の形式はあったものの、今は作動しておらず画面は砂埃で覆われていた。昔ながらのドアノブ。足元にはいつ打ち捨てられたものだろう、赤錆びて形さえ歪んだ錠前が落ちていた。鍵は勿論開いている。ユウヤがドアノブを回すと、蝶番が重苦しい軋みを上げてドアは開いた。
 太陽の照りつける下は灼熱にも関わらず、ドアを開けた瞬間流れ出してきたのは寒いと感じるほどの冷たい空気だった。籠った熱気を想像していたユウヤは驚いて、少しだけ震えた。
 氷でも貯蔵しているのかと思えるほど冷たいコンクリートの内部に靴音が反響する。幾重にも重なりながら奥へ木霊する自分の足音を追いかけるようにユウヤは進んだ。
 しばらく歩いて辿り着いたのは鉄格子だった。電子ロックがまだ生きている。
「誰か閉じ込められているのか、それとも…」
 手を伸ばすと
『触れてはならない』
 と割れた声が響いた。
『高圧電流が流れている。手を引きなさい。今、開けてやろう』
 ユウヤは手を引き、二、三歩と後ずさった。
 電子錠が音を立て、鉄格子がガラガラと左右にスライドする。その余韻が消えてもユウヤは動かなかった。もう一度電子錠を見る。シグナルはグリーン。
『来なさい』
 声が言った。電子錠のスピーカーから聞こえてくるものだった。
 溝をまたぐ際、ここでロックをかけられたら自分は見るも無残死んでしまうだろうと思った。しかしそのようなことは起こらなかった。通路はまだどこまでも続いていた。時折灯る小さな青白い照明に照らされて、ユウヤは通路を奥へ進んだ。
 果たして今自分がどこにいるのか。このダムのスケールと歩数からすれば堤頂から数十メートル下、距離は対岸まで半ばというところだろう。目の前が再び鉄格子の鋼鉄の扉に遮られた。ユウヤが立ち止まると、何も言わない内からロックが解除され、ユウヤは緑色のシグナルを横目に通り過ぎる。
 鋼鉄の扉に鍵はかかっていない。
 押し開いたそこは意外なほど広いスペースで、そしてこれまたユウヤが驚いたことに人工照明ではなく炎の明かりに照らされていた。
「火……」
「蝋燭だ。珍しいかね」
 老いた声が問うた。
 蝋燭の明かりが、ホールのような空間の中央だけを照らしている。その揺らめく光の中にユウヤは、鎮座するグランドピアノと、磨き抜かれた木のテーブルと、椅子を数脚、ワインのボトル、空っぽのグラスが優雅に配置されているのを、そして明かりの消えようとする狭間にマットレスがむき出しのベッドが置かれているのを見た。
 声の主はピアノの影に座っていた。ユウヤの視線に気づいたのか立ち上がる。思ったより背が高い。十九歳のユウヤよりも大柄だった。彼はゆっくりと蝋燭の明かりの中に姿を現した。
「俺は君を知っている。灰原ユウヤ、日本人だ」
「何故…」
「テレビを見るからさ。先月Nシティの大会で優勝していただろう。ステイツの大会で優勝するのは…確か二度目だな?」
「三度目です」
 ユウヤは恐れず答えた。
「五年前、BCEでも一回」
「ああ、そんなものもあったのか」
 男は声だけ楽しそうに、しかし顔を歪めながら笑った。
「すまない。足が悪くて出迎えるのも辛い。ここから失礼させてもらう。ようこそ我が城へ、灰原ユウヤ」
「あなたは…」
 深々と頭を下げた老人の灰色の髪を見つめる。礼の間、背は曲がることなくしゃんと伸びている。躾けられた形の通りの美しい姿勢だ。さっきピアノの影から出てきた時は足をかばうようにして歩いていた。どことなく全身から倦怠の雰囲気が発散されていた。だが今は。
 老人は顔を上げる。眼鏡が蝋燭の明かりに反射する。
「若者の記憶に刻まれるような名は持たない。俺は朽ちたこの城の主だ。前世紀の遺産が滅ぶその時までここにいる墓守さ」
「墓守…」
 世界の果てのようなコンクリートの壁。圧倒的静寂を詰め込んだ静けさ。
 人類の文明の終焉。最後の骨。
「さて、質問はこちらの番だ。夢多き若人がこんな場所に何の用だろう」
「僕は…太平洋まで歩いてみようと思ったんです。途中でここへ…」
「なんと、北米大会チャンピオンがか?」
「海道ジンも、山野バンもいない大会です」
「いやしかしステイツの実力を侮ってもらっては困る。君は力ある人間だ」
「技術があるだけです」
「思うところありか。人生の迷い道の途上という訳かね」
「どうでしょう。旅はもうずっと続けているんです。何年も…」
 旅、と口にしながら人にこの旅のことを話す自分にユウヤは驚いていた。今まで誰にも話そうとしたことがなかった。何故旅をするのか。何故旅を続けているのか。自分は一体何を考えているのか。本当はそれさえよく分からない…。
「外はどうだ」
「え?」
「暑いか?」
「ええ…はい…」
 ユウヤは急に冷やされ痒くなった鼻先を掻く。
「昼過ぎかね。夕食まで時間があるな。ゆっくりするといい。何日水を飲んでいない?」
「昨日の夕方から…」
「ではまず乾杯を」
 老人は空いたグラスにボトルの中身をなみなみと注いだ。ゆっくりと歩き、それをグランドピアノの背に載せる。
「礼を失するが、俺が給仕をできるのはここまででね」
 ハッと気づいてユウヤは老人に近づいた。平らな闇の中から、ものの輪郭を表す蝋燭の明かりの下へ。そして確かに老人は自分より背が高いことを知る。彼は自分のグラスにほんのちょっぴりのワインを注いでユウヤを待っていた。
 そっとグラスを持ち上げる。目よりも高い位置に。そこで老人の目を見る。灰色の瞳はほとんど白濁していた。
「喜ばしき客の来訪に」
 老人のグラスは違わずユウヤのグラスに触れた。
 乾杯の音にユウヤはまた自分の骨が震えるのを感じた。

 老人が墓守だという言葉はあながち間違いではなかった。その夜、ユウヤは入り口の壁に掛けられた幾つかの額縁を見た。老人はこのダムが稼働していた時最後の管理者で、同時に廃止から処分までの担当責任者だった。書面によればこのダムはもう三十年も前に爆破されているはずだったが、現に今もこうしてある。
 老人の名は黒く塗りつぶされていた。
 レトルトの夕食を分けてもらい、冷たい床の上で寝た。その程度はユウヤは慣れていた。
 外の光は一条とて射さないが、ユウヤの中には精密な体内時計がある。夜明け前には目が覚めた。老人はベッドの上でいびきもかかず死体のように眠っていた。姿勢を真っ直ぐに両手は胸の上で組まれている。
 涼しい内に出発したいと思ったが、黙って出ていくのは気が咎めた。ユウヤは老人が起き出すと一緒に朝食を摂り、それから鋼鉄の扉を開けた。
 ふと違う風の匂いがホールに吹き込んだ。
 老人がテーブルの頬杖をつき、目を細めた。
「熱い風の匂いだ。君は外の扉を?」
「あ…すみません…まさかこういうことになるとは思わなくて、昨日、開けっ放しで…」
「いや構わん。そうか、久しぶりの匂いだ…」
「あなたは…外へは?」
「もうどれだけ出ていないかな。一時間も一日も、一年も変わらないように感じる」
 ユウヤは長い通路を抜け、階段を上り、昨日開けた扉までやってきた。空は今日も晴れていた。昼間はかなり熱くなるだろう。ここから再びハイウェイに戻り、車を見つけて、それから西へ…。
 開け放した鋼鉄の扉に背をもたれ、ユウヤは腰を下ろした。空を見上げると、昨日は気づかなかった黒い鳥影が見えた。弧を描いて飛んでいる。腕時計を見ると、もう十一時に近かった。あの場所は時が止まっているかのようだ。精密だと思っていた体内時計はまだ朝も早いと思っていたのに。
 扉を閉め、ユウヤはホールに戻った。老人はワインで出迎えた。

 滞在して何日、とまたユウヤも数えなかった。ここは世界の果てで文明の終焉だった。カレンダーは最早必要ない。
 老人は様々なことをユウヤに教えた。このダムが稼働した頃のこと、仕組み。力学。自然環境。公共事業と金、政治の話。この国の歴史。キリスト教。飢え乾いてここへ辿り着いたのは肉体的な意味だったが、同時にそれはこの魂にも言えることだと言うようにユウヤは老人の教えを吸収した。
 老人はまた音楽を愛した。この分厚いコンクリートの壁の中、唯一時を刻むものがあるとすればそれは音楽だった。音楽には沈黙を打ち破る始まりがあり、再び静寂を迎える終わりがあった。音楽は有限であり、また無限だった。老人はピアノを弾いた。ユウヤはピアノの下に潜り込んで、全身を包む音楽を感じた。哀しげなノクターンが終わっても、ユウヤの中から音楽は消えなかった。幾重にも木霊し、ユウヤの心を揺さぶり続けた。ユウヤは音楽の中に様々なものを見た。星空。宇宙。森林を打つ雨。川と慰霊碑。病院の揺れるカーテン。
「…泣いているのか」
 老人が膝をつき、ピアノの下にじっとうずくまっているユウヤを覗き込んでいた。ユウヤは思わず頬を拭った。しかしそこは乾いていた。けれども乾いていることが不思議なほど、ユウヤの心は涙に濡れていた。
 その夜――おそらく夜だったろう――老人はユウヤにベッドを貸した。剥き出しのマットレスの上、埃くさい毛布に包まってユウヤは眠った。しかし人に抱かれているような心地だった。老人はピアノの脇に佇んでヴァイオリンを弾いていた。自分がここに訪れたあの日、コンクリートの壁越しに聞いたのはこの音だった、とユウヤは思った。

 時折、二人は外へ出た。
 ユウヤは用具室で見つけた古い折り畳みのテーブルとイスを堤頂に運び、セットした。夕飯はレトルトだが、ワインは上物だ。風は止み、月が静かに上る。ユウヤは老人の身体を支えてゆっくりと歩き、階段では彼の身体をおぶった。自分より背の高い老人の身体は、肉体を強化されたユウヤには思いの外軽く感じた。
 月明かりの下でディナーを摂る。それから老人のヴァイオリンを聞く。時々、遠くで獣の遠吠えが合唱した。ユウヤは音楽が満たして溢れさせた自分の心を言葉にした。海道ジンとの思い出を語った。老人は止まらないユウヤのお喋りに静かに耳を傾けた。
 熱い風が吹く日は階段の下に腰掛けて鋼鉄の扉の向こうに広がる青空を見上げた。老人の目に、それは映っているのだろうか。しかしユウヤは尋ねない。
 ――この人は美しいものを知っている。

 老人はユウヤにピアノを教えた。乾いた手が背後からユウヤを導いた。
「覚えが早い」
 手の離れる残像をユウヤは追いかける。指は止まらない。
「あなたの教え方が上手なんです」
「いや、君は優秀な生徒だ。まるで…」
 老人が乾いた手をふわりと動かすと、ユウヤは彼の示すとおりの強弱をつけ鍵盤を叩く。
「思った通りに指が動く。まるで俺の夢見た通りに。理想的だ」
「そういう風に…訓練されました」
「誰に」
 瞼の裏にはフロートカプセルの揺れる視界の向こう自分を見上げた二人の男の姿が映った。
 自分を被験体にCCMスーツとサイコスキャニング技術の研究を進めた加納義一。
 そして海道ジンの祖父、海道義光。
「僕を選んだ人と…選ばなかった人に」
 自分の心がLBXを動かすように、命令通りに肉体を動かす。そのための素体として加納義一は自分を選んだのだ。ユウヤにとって両親の記憶は遠い幻だ。あの幼い日、トキオブリッジ倒壊事故の時点で既に自分は孤独の恐ろしさを知っていた。お父さん、お母さんが自分の手を離し、独りになってしまうことの恐怖を。その愛情を取り戻すためならばユウヤは自分の心を殺しても肉体を動かすことができる。そういう素体だと…加納は知っていたのだ。
 それは同時に海道義光も知るところだった。だからこそ彼は自分の孫にジンを選んだ。両親と別れてしまう最後の瞬間までその愛に包まれていたジンを。心豊かな子どもを。愛情と教育が育て上げる人間のことを海道義光はよく知っていたに違いない。
 ジンはおそらく義光の想像以上の人間に育ったのだろう。ジンは決して盲従しなかった。自分の目で真実を確かめ、育てられた心の、良心の訴える正義の道を歩んだ。それが祖父と袂を分かつことになろうとも。その手で祖父の姿を葬る結末になろうとも。
 これでよかった。ジンがあんなに格好いいのは家族がいたからだ。家族のいる家で育てられたからだ。僕はCCMスーツの被験体に選ばれた、それでよかった。悪いことじゃない。イノベーターに属していたから、ジンとも再会できた。LBXだって上手だと褒められる。ピアノだって教わったばかりなのに、こんなに弾ける。
 ピアノを弾く手が止まっていた。ユウヤは小さく呻き、泣いた。涙をこぼすまいと両手で顔を覆うと、老人の手がそっとピアノの蓋を閉めて、ユウヤの肩をぽんぽんと叩いた。ユウヤはピアノの上に突っ伏し、小さく嗚咽した。
 その夜、老人はまたユウヤにベッドを譲ると言った。ユウヤは首を横に振り、できません、と答えた。
「主はあなたです」
「主が客をもてなすのは道理だ」
「僕はもう客ではない。あなたの教え子です…」
 縋るように跪いた。老人は乾いた手でユウヤの頭に触れた。
 初めて受ける手ほどきをユウヤは全身で享受した。そこにあったのは痛みや苦しみではなかった。剥き出しのマットレスの上、経験豊かな老いた手が自分をどう扱うのか、一つ一つをしっかりと感じ取った。裸に触れられ、その感触が皮膚から神経を伝い脳に到達する。脳では化学反応とユウヤの魂がごったになりながら反応し、恐怖するように、助けを求めるように彷徨う手を老人は全て受けとめた。ユウヤは自分でも知らなかった自分の肉体を知った。完璧にコントロールできると思っていた肉体の知られざる機能、隠されてきた秘密。声帯が震える。息に熱が籠もる。俯せになり、毛布を強く掴む。
 ユウヤは自分を抱く男の名前を知らない。
 世界の果てで隠された闇の中、老いた手が命を教える。命の行為だ。
 狭いベッドの上、ユウヤは老人の身体に重なるように横になった。
「これきりだ」
 老人が呟いた。
「本当に好きな相手とするがいい。灰原ユウヤ、よく聞きなさい。愛するべき人間に出会ったら、その手を離さないことだ。魂が肉体をぎゅっと掴んで離さないように、相手を抱きしめて離してはならない」
 それを聞いたユウヤが乾いた手を掴むと、呆れたようにユウヤ…と呼ばれた。
「俺の言うことを聞いていなかったのか」
「離すな、とあなたは言いました」
「俺じゃない。本当に好きな相手だ。君が愛する人間」
「僕は……」
 ユウヤの瞳に誰かの面影がよぎったのを老人は見逃さなかっただろう。しかしユウヤもまた目を背けなかった。蝋燭の明かりの下、老人を見つめた。
「でも僕はあなたを愛していると思います」
 一言一言確かめるように言うと、老人は鼻で笑う。
「俺の名も知らないのに?」
 その言葉に俯くユウヤの頭を老人は撫でる。
「俺は手ほどきをしたに過ぎない。教えるのはいつだって年取った人間の役目だろう。俺は導きはするが君のゴールじゃない。旅の途中だと、ここに訪れた最初の日、君は言った」
 覚えている。
「覚えていません」
 老人はいつもよりゆっくりとベッドから起き上がり、ユウヤの裸の上に毛布を被せた。その腕が疲労しているのをユウヤは見て取った。そしてマットに顔を埋め、目を閉じた。
 頭上からは弱々しいヴァイオリンの音色が聞こえた。老人が小さく溜息をついた。

 魂は今にも天に浮遊しようとしているのだと老人は言う。
「肉体は己の存在を地上に留めるための錨であり、重石だ」
 故に肉体は重たく、生に苦痛は多い。
「魂が肉体から手を離した時」
 とうとう天に召されるのだという老人の言葉を最後まで聞いて、ユウヤはその膝に縋りついた。
 先を言わせまいと口づけられるかと思ったよ、と老人は笑った。

 だが、ある日老人は言う。
 ユウヤは彼を背負って堤頂に上った。暗い階段を一歩一歩踏みしめ、長い距離を上った。鋼鉄の扉を開けると湿った風の匂いが鼻をくすぐった。空は一面曇りだった。目の端で何か光ったと思うと、遅れてやって来た遠雷が鼓膜の底を震わせた。
「もう行きなさい。帰るんだ」
 折りたたみ椅子に腰掛けた老人がぐったりと言った。
 ユウヤは敢えて聞こえないふりをしようとしなくもなかったが、結局中途半端に空を見上げ、
「どこへ…」
 とぼんやり尋ね返した。
「海道ジンのいる世界へ」
「…僕は、あなたが…」
「灰原ユウヤ、君は俺の優秀な教え子だ。俺がもうすぐ死ぬ事も分からない訳じゃないだろう」
「分かりません」
 ユウヤは力無く首を振る。
「僕には…死が…分かりません」
「俺にもいまだよく分からんさ」
 老人は倦怠を滲ませて笑う。それはユウヤが訪れる直前までこの老人を取り巻いていたものだった。ユウヤがここに訪れてしばらく老人は自分を取り巻く死の倦怠を忘れていた。
「世界に果てはあるのか。宇宙にも死は訪れるのか。宇宙の死は永遠か…。こんな話を誰かとしたことはなかった」
 枯れ枝のような手が手招く。ユウヤは老人の前に跪き、膝の上に頭を載せた。
「永遠はどんな匂いがすると思う、灰原ユウヤ」
 ダムを越えてユウヤは歩き続けた。目指すのは西の果て、太平洋。
 世界の果てのような、その巨大な姿が岩山に隠れ見えなくなる頃、雷鳴にも負けない爆音が轟き腹の底からユウヤを震わせた。空気がプールの水のように振動し、空と雲が揺れた。そして雨が降り出した。
 爆発の前に老人の心臓は止まったのだろうとユウヤは思った。彼の心臓にはマイクロチップが埋め込まれていた。それが引き金だ。
 ハイウェイに出る頃は濡れ鼠だった。空は真っ暗で昼なのか夜なのか区別もつかなかった。バケツを引っ繰り返したよう、という表現がぴったりの雨の下、ユウヤは大きく口を開けて天から降るそれを飲んだ。
 ヘッドライトが銀色に光って暗闇を切り裂く。巨大なトラックが唸り声を上げて走ってくる。ユウヤが親指を立てると水を跳ね散らしながら止まった。
「どこから来たんだい」
 運転席の男が訛りの強い英語で言った。
 ユウヤは借りたタオルで顔を拭いながらバックミラーから背後を振り返った。
 岩山。
 涸れた河。
 巨大なダム。
 世界の果てと、世界の終わり。
「大西洋から」
 時間を教えて下さい、とユウヤは言った。正午を過ぎたばかりだった。ユウヤはカーラジオの時計と、自分の腕時計と体内時計の時刻を合わせ、ようやく穴だらけの合皮のシートにもたれかかり、大きな息を吐いた。
 腹が減ってるだろう、と運転手はポットのコーヒー、チョコレートバーを分けてくれた。
「太平洋までどれくらいですか」
「あっという間さ、ボーイ」
 眠っているうちに着いちまうよ。運転手の言葉を夢うつつで聞きながら、ユウヤはまどろみの中に魂と肉体を投じた。
 雨音の中に何かが見える。
 それは今もユウヤの中に流れている。
 音楽だ。ノクターン。ショパンのレント・コン・グラン・エスプレッシオーネ。
 ヴァイオリンの音色が聞こえる。ユウヤの指先は雨粒を押す。それはピアノの音を立てる。
 夜の奥深くへ、更に向こう側へ、そっと導くような音。
 行こう。
 帰ろう。
 どこへ?
 ――ジン君。
 瞼を開くと、黄昏の光が水平線を鮮やかな黄金と美しい紫に染めていた。
「太平洋…」
 ユウヤが手を伸ばすと、運転手が窓を開けた。湿った熱い風が車内に吹き込んだ。ユウヤは胸の奥から深く嘆息し、風の中に目を閉じた。
「ああ…」
 冷たい最後の空気が肺の奥から吐き出される。
「久しぶりの匂いだ」
 低く、灰原ユウヤは呟いた。




2013.1.29