粉雪の匂いは心たぐり寄せる糸口
年越し蕎麦も食べたというのにランが台所に立っていて、そもそもランが台所にいること自体珍しい。花咲の家は代々の道場ということもあってか古く、板張りの台所は北を向いていて寒かった。足下に小さなストーブがついていて、それが唯一の暖だ。 「ラン君」 「ユウヤ? いいよ、テレビ観てなって」 「何をしているの」 「明日初稽古でしょ。下ごしらえ」 ランはその手に包丁を持ち、危なっかしいとは言わないもののやや大雑把な手つきで人参を切っている。傍らには型抜きがあって、それで花の形に整えるようだ。他にもテーブルの上には様々なものが載っていて、ボウルには水で戻した椎茸、お盆の上がこんもりしていて、被せられた新聞紙を捲ると先日ついた餅が四角に切られて詰まれていた。 「うちの道場はね」 視線は手元に集中させながらランが言った。 「初稽古は元旦にやるんだ。最初は十キロのランニング。高台の神社まで走って初日の出を見て、それから帰ってきて稽古。稽古の後はみんなでお雑煮食べるんだよ」 「毎年…?」 「そ、毎年」 「この…お雑煮の準備も毎年ラン君がやるの?」 「あたし料理は得意じゃないけど、これは道場のことだもん。あたしがやらなきゃ」 「…手伝おうか?」 ユウヤがおずおずと申し出ると、ランは振り返ってにっこり笑った。 「じゃ、人参切って」 型抜きをして、じゃないのだ。 実際人参を均等に切るのはユウヤの方が上手で、ランは次から次にやって来る輪切りの人参を花の形に型抜きする。 「ユウヤは明日の朝、何すんの」 「初稽古のランニング…僕も行ってみたいな。師範が許してくれるなら」 「え! 本当!」 ランは目を輝かせ、大丈夫だよ絶対喜ぶって、と声を上げた。 「でもついて来られる? いきなり十キロだよ?」 「そのくらいなら、多分。ランニングマシンで走ったことはあるんだ」 「あー…」 ユウヤの過去はある程度ランやヒロたちにも知られるところとなった。CCMスーツの被験体としてイノベーターの研究所に閉じ込められた半生。思い出したくない記憶も多い。それを思っての曖昧な返事なのだろう。 困らせてしまった、とユウヤが眉を曇らせるより早く、じゃ、とランは切り替えるように手を打った。 「競争、する?」 「競争?」 「神社まで競争。負けたら…そうだなあ、負けたら勝った人にお年玉!」 「ええー」 「LBXのパーツでいいよ」 「…ラン君、勝つ気満々だね」 「ふっふーん、あたし、まだ道場の誰にも負けたことないんだよね」 敢えて強気で、いつものランのままで。 ユウヤも、ふ、と笑った。 「いいよ、その挑戦受けて立った」 「おおっ。男に二言はないって言葉知ってる?」 「勿論だよ」 ラン!ユウヤ君!と座敷から祖父の大門が呼ぶ。 「紅白! 大トリじゃ!」 「今行くー!」 ランはバタバタと走っていってしまい、廊下を走るな!と大門に怒られていた。ユウヤはまな板の上に残った人参の型抜きをすませると冷蔵庫に入れ、手を洗ってから座敷に戻った。 「ほら、ユウヤも観なよ。今年の衣装もすっごいんだよ」 両手両足を炬燵に突っ込んでランが言う。丸まった背中を、姿勢が悪い、と大門がぴしゃり、叩く。 ユウヤは端の席に座った。炬燵の上には蜜柑と、ランが無精をして書きかけたままの年賀状。 テレビに映るのは初めて見るものばかりだった。ポップス、ロック、演歌も。アイドルの着た煌びやかで露出の高い衣装も、まるで舞台装置のように派手な衣装も。 しゃっくりが出る。お腹の中に蕎麦の香り。炬燵に蜜柑。十二月三十一日という日がカレンダーの数字ではなく生活の中にある。それを誰かと過ごす。一人ではない。 ユウヤはジンを思った。心底会いたいと思った。今の気持ちを聞いて欲しかった。自分が今どんな気持ちなのか…上手く言葉には出来ないが、彼に喋りかけたかった。 でも、とユウヤはポケットの中のCCMを握りしめる。大晦日から元旦にかけての深夜は電話やメールは控えるようにって。回線がパンクするからって。 「どうしたの?」 その声にハッとすると、正面からランが顔を覗き込んでいた。 「お腹痛い」 「い、いいや…」 「じゃ、足痺れた?」 炬燵の中でランの足が伸ばされ正座したユウヤの膝をつつく。その瞬間、ピリリと走る電気のようなもの。 「あ…」 「やっぱりか。うりうり」 「やめて…ラン君…」 「足崩しなよ。そんなに行儀良くしなくったってさ」 「ランはもう少し行儀良くすべきじゃな」 「来年からね!」 大門にも笑顔で言い返し、ランはようやくユウヤの痺れた足をつつくのをやめた。 「ユウヤ、ジンがいなくて寂しい?」 「え?」 「だってジンがA国に帰ってからずっと元気ないじゃん」 「そうかな…」 普通だと思っていた。確かにディテクター事件において自分たちはいつも一緒にいたけれども、それはバンやヒロ、ランだって同じだし、それにジンとは離れて暮らしていた時間が圧倒的に長い。四歳での出会い。十三歳での再会。自分が病院で目覚めた後も、しばらくしたら留学の為に目の前から姿を消してしまった。リュウビがいたから寂しくはなかった……寂しくはないと思っていた。 「素直になりなよ。電話してきたら」 「でも…、ううん、話すことは、特に、何も大事なことは…」 「あのさあ、電話って用事がある時だけかけるんじゃないじゃん。フツーにお喋りしたりさ」 ユウヤが躊躇っていると、大門がすっと差し出したものがある。真新しい年賀葉書だ。ユウヤはまばたきをし、大門の顔を見た。一瞬、空白のような沈黙が下り、大門がランそっくりのおおらかな笑顔を浮かべた。 「そういう時は書くんじゃ。自分の思いを文字にしてしたためると良い」 「したためる…」 「昔はメールも、CCMも、携帯電話もなかったぞ」 ランも続きを書かんか、と促され、ランは炬燵にぐったりと伏す。 「だっていちいち字を書くのって面倒くさいんだもん…」 「情緒のないやつめ」 「情緒…?」 「情は心。緒は糸口であり、お主の心に張られた琴線よ。それを震わすものがないかの。感じんかね、ユウヤ君」 ユウヤは無地の葉書を受け取り、手にしたペンを下ろした。 ――ジン君へ すらすらと文字が書かれる。心のままに。花咲家のみんなと年越し蕎麦を食べた。初めて紅白歌合戦を観た。明日は道場の初稽古に混じって初日の出を見に行くことに決めたんだ…。 うわあ、とランが小さく声を上げた。 「キレーな字」 「癖のない字じゃの」 肉体を正確に動かすこと、それはユウヤの得意だ。胸を張ってそうと言うよりも、九年間の訓練で身体に染みついたものだった。操作の正確性はCCMスーツの動作実験において重要な要素だ。どれだけ正確な動きを思い描き、その通りに肉体を動かし得るか。それがLBXの動きに繋がる。文字を書く訓練が特別にあった訳ではないが、ペンを握り、必要な力で、思い描く形をなぞることは他の訓練の応用だ。 しかし、ユウヤはランの書きかけの年賀状の方が良く見える。字は、本人も言うとおり得意ではないのかもしれないが、それでも一目見てランの文字だと分かるし、添えられた猿の絵も可愛いと思う。例えばユウヤは何か手本を示されればそれそっくりの絵を描くことができるはずだった。しかし。 例えばLBXに関して、ユウヤの操作の正確性はバン以上だろう。それでもバンには勝てない。バンには強さがある。山野淳一郎博士ハンドメイドという機体性能の差を考慮しても、やはり隔たりがあるとユウヤは知っている。それを端的に表すのが、ランが描くことのできてユウヤに描くことのできない絵。感情、イマジネーション、人間らしさが強さを生む。それが勇気だ。 「ユウヤ君」 大門が書道道具一式を入れた木彫りの箱から封筒を差し出した。A国までのエアメイルだ。このままでは届かない。ユウヤは礼を言ってそれを受け取り、記憶したジンの住所を英語でしたためた。 「何、気にすることはない。その内、君が嫌でも癖がでてくるぞ」 パッと顔を上げると大門が見守っていた。ランはもううとうとしかけている。 ユウヤはジンの名をしたためた。ジン・カイドウ。力がこもり、Jの文字が滲んだ。 「折角じゃ、コレクションからとっておきの切手を進呈しよう。村上華岳の裸婦図なんてどうじゃ。レアものじゃぞ」 それを真面目に受け取ったユウヤは何種類かの切手と一緒に右端に貼る。さっきまでうとうとしかけていたランが炬燵に顎を載せてジト目で、やらしい…、と呟いた。しかし耳まで届いたその言葉はユウヤの中にまでは入ってこなかった。 生まれて初めて書いた手紙で、年賀状だった。 これがA国のジンのもとに届くまで何日かかるだろうか。明日、ランニングの途中で投函しよう。そう思うと明日が待ち遠しい。明日も、その次も。これが届いたらジンは電話をくれるだろうか。それとも返事の手紙が来るだろうか。 さざめく胸の中を鎮めるように、夜陰を渡って除夜の鐘が届く。鐘の音は低く、重々しくて、同時に静けさを際立たせる、それそのものが静かなような不思議な音だった。 「さ、明日は寝坊するでないぞ」 大門に促され炬燵から出る。廊下は冷たく氷の匂いがした。 「あー…!」 まだ炬燵に残っていたランが身体を捻って縁側を指さす。 「雪…!」 暗い窓の外、ちらちらと白いものが舞っている。小雪だと大門が言った。 「初日の出、見られるかなあ」 「そりゃランの日頃の行い次第じゃの」 「じゃ大丈夫!」 ユウヤは胸の中の封筒を抱く。追伸、と書きたい。この花咲家の座敷から見た雪降る景色を伝えたい。しかしもう封をしてしまった。 封筒をそっと口元に寄せ、聞こえないように、封筒の中にだけ向かってユウヤは囁く。 「雪だよ、ジン君」 この匂いは雪の匂いだったのだ。
2012.12.31
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