孤独と寂寞と贅沢であるということ







 事務所は一本締めで締めた。
 仕事納めも済んだことであるし本来ならば出てくる道理もなかったが、八神だけでなく真野も細井も顔を出した。矢壁は十年ぶりに田舎に帰ったそうだ。両親は老いたが健在らしい。大事にすべきだと八神も長年の相棒たちも言った。皆、家庭を持たない。
 故に集まったのかもしれない。念を入れて事務所を掃除し、ビル前まで綺麗にした。別のフロアに入った中小企業の社長が顔を出して、一緒にゴミを捨ててくれた。
 良いお年を、と数年ぶりにその挨拶を口にした。

 真っ暗な玄関の壁を探り、スイッチを入れる。明かりをつけてもなお暗く見えるのは部屋が無人のせいだ。妻と娘がいる時、このように感じたことはなかった。しかしその薄暗さも妙な懐かしさを八神の胸に喚起させた。若かりし時代。独りだった頃。
 リビングの写真にただいまを言い、コートをかける。肌寒さに身震いを一つ。エアコンを入れたが吹いてくる風は生温かった。
 台所に立つと独りの音は際立つ。一人分の蕎麦、一人分のビール、ほんのちょっぴり。ダイニングキッチンのカウンターにかけ、リビングを振り返る。目が慣れてきたせいか天井の明かりは眩しいほどで、生温い風に攪拌される空気の中、舞う埃さえ目に見えるようだった。不在と無人の向こう、フォトフレームは慶子とユキの笑顔を映し出す。
 リモコンを手に取ると、途端にテレビから笑い声があふれ出て慌てて音量を下げた。年末のテレビ番組を楽しむということさえしてこなかった。家族三人だった頃は…? 下らないと思いつつ観ていたものだ。お笑いの番組、歌番組、もちろん紅白。格闘技は趣味ではなかった。紅白にチャンネルを合わせるとティーンエイジの少女たちが露出の多い衣装で踊っている。
 年越し蕎麦をすすりながら視線はぼんやりとテレビの上を彷徨い、目の裏側には様々な光景が蘇っていた。財前の手を取り、新たな人生を歩み出したこの年。ディテクター事件を契機に見つめた風景、見つめなおしたもの。
 自分の側には常に子どもたちがいた。守るべき存在が、守られるべき未来が。我が家で今日こそゆっくりとした時間を過ごしているだろう、山野バンたち。留学先のA国に戻ってしまった海道ジン。初めて触れる世界に惑いながらも足を踏み出した灰原ユウヤ。父親思いのジェシカ・カイオス。常にその場の空気を明るくさせてくれた古城アスカ。彼ら皆、世界のためならばと自ら戦地に赴いた強い子どもたち、そして誰よりも優しい子どもたち。
 不意にテレビ画面が滲んだ。胸は慶子とユキの名を呼んでいた。私は今日生きていることを感謝する…、そう呟いた。
 冷めかけた蕎麦をかきこみ、改めてビールで乾杯をする。
 紅白は演歌続きで、ビール一杯分の軽い酔いに珍しくだらだらした気分になった。その時、コートの中でCCMが音を立てた。八神は立ち上がり生温くなった床を踏んだ。
「八神」
 電話の向こうから呼んだのは財前。
「塔子が初詣の護衛は君がいいと言うんだ。とんだ我儘だが聞いてくれるか?」
 齢の割にわきまえた…自分が総理大臣の娘であるという自覚を持った娘だ。その彼女が大晦日のこの夜に父親の部下とは言え大人を困らせるようなことを言うだろうか。この部屋を想像したのは誰だろう。独りの部屋の眩しすぎる明かりや、やけに響くテレビの声、なかなかぬくもらないエアコンの風を想像したのは。
「すぐに参ります」
 迷わず答えた。
「しかし…アルコールが…」
「もちろん徒歩で行こう」
 洗面台の前に立ち支度をする。歯を磨きながら、ああ、これが自分の家の歯磨き粉の味だと思った。官邸の、財前や塔子が使うのと同じものの味に慣れてしまっていた。ミントの香りを思い出すだけで、八神の瞼の裏には自然と二人の笑顔が浮かぶ。
 歯にネギなど挟まっていないよう、と鏡の前でチェックをし、自分の顔に笑いそうになる。大真面目だ。そして一生懸命だ。今年一年の自分を総括し、それがこの笑いだと思った。
 タクシーに乗り込み、流れる街並みの人通りは真夜中に近づくにつれて増えてゆく。神宮はもちろん混んでいるだろう。塔子が迷子にならないようにしっかりと手を繋がなければ。
「大トリですよ」
 運転手が話しかけた。ラジオからは紅白の最後の歌が流れていた。官邸はもう目の前だ。門の前に止まると、玄関から塔子が飛び出してくるのが見えた。その背後からゆっくりとついてくる財前が手を振った。




2012.12.31