白夜夢
机に突っ伏す。五分か十分まどろむ。短い悪夢を見る。 平らかで容赦なく冷たい空気が体温を奪い、肩から冷える。モニタの青白い光に視界がブレて、ヴィデオの光景に没入する。五感の揃わない疑似体験。海道ジンは灰原ユウヤだ。天井の隅から見下ろす監視カメラが定点の映像を記録し続ける、その中に眠っている。 覚醒状態から悪夢への転移は気付かれないほど滑らかでジンは自分が灰原ユウヤであることに違和感を覚えない。眠っていたのか、たった今目覚めたのかも気にしない。網膜に映るのは青白い天井。見覚えがある。それはジン自身の中にも残る記憶だ。 起き出す。泣き声に起こされたのではない。隣のベッドが空っぽなのを横目に病室を横切る。スライドドアの鍵は少し高い位置についているが、ユウヤは椅子を使ってそれを解除する。廊下は暗い。点々と非常通路を示す緑の照明が灯っている。 気付けば走り出している足。恐怖に駆られている。どこから来る恐怖だろうか。暗い、それは恐ろしい。お父さんとお母さんがいないこと。慰めてくれた友達とはぐれたこと。夕方。さよなら。ここは真っ暗だ。電気をつけてはいけません。とても怖い。 仄白い照明が一筋漏れている。ユウヤはその中に飛び込む。ベッドが三つ並んでいる。三つ並んだベッドは罠だ。大きすぎるものはダメ。小さすぎるものもダメ。真ん中のベッドに寝なければならない。 飛び込んだベッドのシーツを手繰り寄せて頭から被る。これでひとまず逃げ込んだ。もっと逃げなければ。――ぼくはもうあのベッドにもどりたくない。 その時急に隣のベッドから、カーテンの閉じられたベッドから妙な声が聞こえてきて、不意打ちの恐怖が心臓を突き刺す。息を止める。心臓の鼓動も血液の流れさえ止めてしまったかのようにシーツの中でじっとする。 この声は。 聞いたことがある。 この声が聞こえる夜は決してドアをノックしてはいけない、お父さんとお母さんの部屋に入ってはいけない、どんなに夜が怖くても、どんなに一人が怖くても、絶対にドアを開けてはいけない。開けたら……。 声が止む。カーテンを開ける音。「あら、誰かいる」お母さんの声じゃない。だけど怖い。もっと怖い。「誰だよ」お父さんの声じゃない。すごく怖い。「子どもだ」「子どもぉ?」「知ってる。見たもん。テレビじゃ言ってないんだけど事故の生き残りの子ども、もう一人いるの」「トキオブリッジのか」「そーそー、やだ、ほら」ライトを傾ける音。軋む。背中に当たる強烈な光。「ぶるぶる震えてる」「ほらじゃねえよ、馬鹿、やばいって」「何が」「海道先生の」「え、嘘」「この前のミーティングで、ほら、加納の話が」「でも私が連れてきたんじゃないもん。わあ、かわいそう、見て」 シーツがはぎとられる。撫でる手が見える。ユウヤの白い…背中?肉体、それは身体だろうか。本物の?白い?確かに肌は。しかし亀裂のように走る赤は?今も鮮血を溢れ出させるそれは? 「見て、梅の花みたい」 ジンは顔を上げる。青白いモニタに浮かんだ幾つものウィンドウ。幼少時の実験を記録した画像。監視用のヴィデオはその再生時間を終えて真っ黒に沈んでいる。写真の中の、黒い固定帯でベッドに縛り付けられたユウヤの身体は簡素な患者服を身に着けている。あれは夢か? 突然大きな音がして赤いランプが回る。警戒音。ジンは振り向く。 目が覚める。 心臓が強く打つ。十四歳の海道ジンの身体だとしばらく気付かない。黙って天井を見つめ、現実が肌に馴染むのを待つ。 長い長い時間が経ったようだった。その実の時間は分からなかった。いつまで経っても汗は引かなかった。心臓は相変わらず速く打つがしかしそれが自分の肉体の中にあることが実感できる。これが生きる自分の肉体だとようやく分かる。自分。海道ジン。 傍らには灰原ユウヤが眠っていた。うつ伏せになり、枕を掴んでいる。ジンは当たり前のことのようにシーツをはぎ取った。後ろを数か所紐で結んだだけの簡素な手術着。ジンはその結び目に手を伸ばす。端を引くとそれはするりと解ける。 背中。夢の中の女がしたように撫でる。赤い亀裂はない。梅の花のような鮮血ほとばしる傷口も。しかしその右肩に古い傷痕。 ジン、と。 囁かれる。その瞬間度を失ったジンはシーツでめちゃくちゃにユウヤの身体をくるみ自分の腕の中に抱きしめる。それは優しさの行為ではないことに気付いてもいない。恐怖から目を逸らすように強く腕の中に抱き、閉じ込める。 あれは夢だろうか。記憶だろうか…記録だろうか?本当にあった?自分はそれを見た?電算室に忍び込みハッキングをした、それは事実。幼い灰原ユウヤの心と身体に次々と実験が行われた、それも事実。事実は記録され、一年前自分はそれを見、記憶し――封じ込めた? 覚えている。灰原ユウヤは傷だらけだった。身体中包帯を巻かれていた。それはこの目で見た事実。しかし。 真夜中の病棟を逃げ出した記録は。あの医師とナースの顔はデータの中にあっただろうか。ユウヤは二人の行為を目撃した?否、あの声が聞こえる時部屋をノックしてはいけないのは、本当は、パパとママの部屋の前で蹲りシーツで耳を塞いだのは。 「ジン君」 睡眠の熱を帯びた手が伸びてきて両耳を塞ぐ。 「君は何も怖がらなくていいよ」 何を。 * 目覚めてベッドの端に腰掛け足の裏が冷たい床に触れても本当に目覚めたのか今ひとつ実感が持てなかった。ジンは俯き、窓の外が白むのを待った。まだ誰も起きていないだろう。早すぎる目覚め。暗い部屋、暗い窓の外。何もかもが夜の続き。現実である実感がない。NICS本部だろうとは思う。何度も寝泊まりした居住区の、見慣れたベッド、照明、冷たい床を踏む十四才の自分の足。 壁をノックする。間違えた。廊下に出てドアをノックした。応えるようにドアはすぐさまスライドして空気圧の音だけが耳に残った。 自分の名前を呼ぼうとしたユウヤを無理矢理抱きしめる夢想が、一瞬閃く。実際には不安そうな瞳のユウヤに小さな声で謝っただけだった。早くに起こした、すまない。寝ぼけていたんだ。間違えてはいない。寝ぼけているのかもしれない。あるいはこれも夢かもしれない。夢から醒めた夢の続き。 部屋の隅でフリックする。時計の数字が光る。アラーム、と小さな声でユウヤが呟いて振り返ったがドアの前から動かない。ぎこちない仕草で身体を斜めにして、部屋へ促した。 覚えたばかりの――覚えさせたばかりのキスをして、小さく、弱々しく息をするユウヤをベッドに横たえる。シャツに手をかけようとして、手をじっと見つめる視線が濡れた熱のように撫でた。 「脱いでくれ」 固定帯ほどの強制力はない。薬物ほどにも。しかしジンの声はユウヤにとって第一の律、ハレルヤの第一音、魂に直接響く命令。魂がどこかにあればだ。そしてそれがこの肉体の内にあるとジンは知っている。眠っていたそれは目覚めた。だからユウヤはここにいる。 そんなまだ柔らかい、自分の形さえ知らない魂に、しかしジンの言葉は躊躇もない。短く、容赦なく優しい。だからユウヤは言われた通りにした。 シャツを脱ぐ仕草はルーチン化された美しさを伴っている。全く無駄がない。そして背中が露わになる。ベッドの枕元で時計のフリック。半秒間隔で照らし出される背中は。 ジンは繰り返すように手を伸ばし肌の上に触れた。背中。滑らかな皮膚。右肩へ指先を伸ばすと古い傷痕が触れる。変わらない。それだけが変化せず二人を繋いだ。思い出させ、繋ぎ、再び結んだ。これは誰がつけた傷なのか、ユウヤにもジンにも分からない。この傷は記録にない。 背中に顔を押しつけるとユウヤが息を飲むのが直接感じられる。肺も心臓も、触れた肉体のこの中にある。自分とは別々の肉体。違う体温。自分の方が低い。眠りの熱にゆっくり頬から溶かされる。 「ジン……」 手を伸ばし片手は胸を掴む。もう片手で口を覆う。そのまま一緒にベッドに倒れる。ベッドは音も立てず二人を受けとめる。 シーツはたぐり寄せずただただ肌だけを密着させると、鼻にかかった声でユウヤが鳴いた。震える息だった。 「怖いものがある」 囁くと、本当、と掌の下で小さく尋ねる声。 「また目を瞑ったら夢を見る」 「夢が…怖い?」 「君の背中に梅の花が咲く」 口に出すべきではなかった。血の匂いは既に香っていた。 ジンは力をなくして、ぶるぶると震えているユウヤを柔らかなシーツの上にそっと横たえる。――僕はもうあのベッドに戻りたくない。 右肩の古傷にキスを落とし、掌で裸をまさぐった。柔らかい部分を押すとユウヤが両手で口を覆う。ジンは微笑みながらその手をどかす。 「大丈夫だ、誰も入って来ない」 * ドアが鳴った。 乾いた音だった。ジンは急な覚醒に頭がついていかず、ただただ身体ばかり目覚めたのに置いてきぼりをくらった魂が、肉体の底の方から天井を見上げていた。古い壁紙。窓を半分覆う隣のビル。パリのホテルだと、2058年、1月の朝だと、その言葉が自分の声として、思考として認識されるまで更に何拍もの心臓の鼓動。それを宥めるようにユウヤの掌が胸を撫でる。 「新聞だね」 ジンの腕を枕にしたユウヤが呟く。溜息をついたジンは安堵のまま瞼を閉じようとして、ハッと見開く。 小さな足音が二つ、廊下を遠ざかっていった。
2012.12.27
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