血を流す男であらんと男は浅ましく嗤い







 セックスのきっかけを。
 男と女がするものだと思っていた行為を男とすることになった時、八神は自分の中に抵抗も躊躇いもないことをさほど不思議には思わなかった。何せ相手はただの男ではなかった。命の恩人で、総理大臣だった。その男はかつて暗殺の指揮を執った自分を官邸に招き、夕食をふるまい、当然のようにシャワーを勧め、バスローブも何も用意されていなかったので裸のまま出てきたのを見ても動じなかった。
「来なさい」
 とただひとこと言われた。それだけで八神には十分だった。心は既に彼の下にあった。そして肉体もその下に敷かれた時、自分はようやく支配されたという歓びに似た充足を感じた。私を支配するのは正義だ。真っ直ぐな意志と命令、そこに愛情があることを八神は疑わなかった。勿論、財前はそれをもって八神を抱いたのだ。
 しかしある朝気づいた。
 ビルの屋上とは言え、谷間である。夏になると室外機の吐き出す熱が周辺のビルから滝のように流れ落ち、低い屋上に立方体をちょこんと載せただけの八神探偵社は、さながら滝の中途に突き出た岩のように熱い空気の流れに打たれ、息をするのも苦しいほどの熱帯夜だった。空調も効いているのか効いていないのか、こうまで目覚めれば効いていないも同然だ。夜明けの薄暗がりの中で八神はエアコンの表示する数字をぼんやりと見つめる。29、とデジタルの数字が淡い黄色に光っている。
 熱は肌の外に纏わりつくだけでなく肉体の奥底にもわだかまっていた。暑さで眠れないのは久しぶりだった。いつもなら寝てしまう。どんな環境でも必要なだけの睡眠を摂ることができる。八神は自分が肉体と精神を律することをこそ誇る。大人だから、ではない。プロだからだ。
 その魂さえ焦点の定まらぬ目で、肉体から溢れ出し揺れる。思考と行動が一致しない。壁にもたれかかるように歩き、シャワールームに自分の身体を投げ込んだ。
 ぬるい水に打たれながら何も考えない。しかし瞼の裏には望む景色も望まぬ記憶も勝手に蘇る。この世でこれ以上愛せる人はいないと思った妻。魂を捧げうる存在を授かったあの日。娘の穢れない瞳。雨の夜の記憶。サイレン。滝のように落ちる音。魂を砕く音。
 八神は壁のタイルに手を這わせる。
 閉ざされたマンションの一室からこの肉体を連れ出した手。涙の曇りを払った目が見た太陽。真昼の日の下に見たトキオブリッジ。何度、あのたもとに通っただろう。そして彼も何度その自分の背後に現れただろう。手には献花があった。
 先生、と心が呟く。
「海道先生」
 強烈な磁力、力強く前をさす指。その傍らに立った八神は三百六十度の景色を眺め、その中心に立つ海道を見つめ、己自身の目と脳みそで判断した。そして信じた。彼こそ間違いなく世界の羅針だ。
 スーツの上にマントを羽織るようになったのは海道から贈られたからだ。黒の部隊を任され、時には本物の死線を歩き、目的のためにとるべき手段を見極めたからには躊躇しなかった。羅針の指し示す未来の礎とするために、必要だという結論が出されれば犠牲を払うことさえも。――否、犠牲を払うことなど八神にとっては当然なのだ。八神は既に天に支払うべき以上の犠牲を支払っている。瞼の裏の面影。慶子。ユキ。
 妻と娘を穢すようなことはしない。彼は心を、魂を黒いマントで覆い隠す。天に昇ってしまった二人の魂が、その足跡が面影が血で汚れることのないように。
 あの夜、マントは砂埃と硝煙の匂いとそして血の香りに噎せ返っていた。赤の部隊との合同演習は壮絶を究め、双方に多くの負傷者が出た。赤の部隊が受けた被害に関して言えば、その多くが八神の手によるものである。
 このしばらく後、直近の部下となる真野ら三人が部屋を出るのと入れ替わりに海道が姿を現した。海道の姿は勿論、その肩に塵一つのっていない、正常でまっとうで清潔な世界のものだった。だから尚のこと血と硝煙の匂いは鼻についたに違いないが、顔をしかめるどころか眉一つ動かさずわずかな笑みさえ浮かべて八神に近づいた。
「今日の演習は大変だったそうだな。手違いがあったとか」
「責任は私と貞松双方にあります。後日しかるべき場で…」
「君の責任は君の預かる黒の部隊とその部下たちを守ることだ。今日の君はそれを立派な果たした。次は自分の身を顧みたまえ。黒の部隊の司令官をまっとうすることこそ使命と思うなら、君は自分自身にもその責任を果たさなければならない」
 老いて乾いた、しかし清潔で、年齢を感じさせぬ力強さをもった手が躊躇いなく、砂埃に汚れ血と硝煙の匂いの染みたマントの肩に触れた。その瞬間、八神は自分の表情が抑制の綱を振り切り素直な感情のまま歪みそうになるのを感じた。皮膚の下で何かが這う。血の熱さを感じる。その顔を見られないように、海道への敬意を溢れさせた礼をした。頭を下げ、伏せた下で手綱を噛みしめるような顔をした。
 肩に置かれた手の力強さと一緒にかけられる言葉が染みこんだ。
「君も部下を大事にしたまえ。今すれ違ったが彼女…彼らは心から君を信頼している。あの目を見れば分かる」
「…はい」
「戦地においても他人の命、他人の家族を気に懸けたそうじゃないか。躊躇も…容赦もない銃口をつきつけながら」
 やおら気配が近づいた。体温に近い言葉が耳の側で吐かれた。
「なかなかの悪党だな、君も」
 眠れぬ夜の正体はこれだ。熱くて眠れない夜は必ずあの一夜に繋がっている。道を異にし、立場が変わっても、八神英二の熱帯夜とは肉体の奥から発せられる熱であり、放散する出口を見つけられず渦巻く思いが肉体を覚醒させ続ける夜のことだった。
 あの言葉。悪党、と自分を呼んだ一言が血に混じり今も肉体のどこかで蠢いている。時折目覚めて熱を発する。そして八神は気づく。自分の心は既に海道義光に抱かれていたのだ。
 ぬるいシャワーの中で目を開いた。次に財前から閨へ誘われた時、自分が拒むだろうかと考えた。拒まないだろう。財前宗助の愛情を八神は身を以て知っている。理解し、受け入れている。信じている。財前は自分の身体では穢されぬ強い魂の持ち主だ。悪党の血が流れるこの肉体を抱きしめ、混じりけのない感情で淀みなく愛していると言うだろう。自分はその魂に導かれている。
 八神はシャワーの下、自分を嗤う。この浅ましい身体さえあの人は抱く。私はあの男に支配されている。その名は財前宗助。その名は正義。この浅ましい身体さえ…。
 脚の間に手を伸ばす。掌に熱帯夜の熱を握り込む。浅ましくも、瞼の裏に正義の笑顔を浮かべ、自分はこの行為に耽るだろう。悪党ではある。




2012.12.18