クリプトグラファー ―聖夜―







 暗号化されたメールにはCとだけ署名されていて、思い当る節は一つしかなかったがそれにしても個人のアドレスに一国の大統領がメールを送るとは、事件の余波もようやく静まり始めた頃だったので宇崎拓也は緊張しながら暗号を解除した。
 執務室の窓からはクリスマスのイルミネーションの彩られたトキオシティが一望できた。しかしそれを見下ろすのは拓也一人だ。望んでの残業だ。社員は先に帰した。家族なり恋人なりを大切にしろ。今夜は年に一度の特別な夜だ。
 すると秘書の霧野紗枝が言う。
「あなたにとってもそうですよ、社長」
 いいや特別な夜は終わったさ。
 そうは答えずに拓也は霧野も追い出すように帰した。この感傷は自分一人のものでいい。
 クリスマス・イブはブルーキャッツで過ごした。毎年だ。そもそも訪ねることが多いから特別という感じがないが、拓也は特別な思いをもってブルーキャッツに足を運んだ。
 檜山にとっては…どうだったろう。強烈に思い出すのは最後のクリスマス・イブだ。ドアを開ける前から大きな声が響いていた。タイミングが悪かっただろうかと思いつつも何が起きているか心配でドアを開けると、仁王立ちになった女がカウンター席に腰掛けた檜山に向かってグラスの酒をぶちまけたところだった。氷が床の上に落ちてやけに涼やかな音を立てた。
「この悪党!」
 叫んだ女は続けてグラスを床に叩きつけた。割れる音が耳に刺さる。女は拓也を押し退けて店から出てゆき、急にしんした中拓也は檜山と取り残された。
 話の流れが見えない中、何と声をかけていいか分からず拓也は呆然とその場に佇んだ。低い笑い声が鼓膜を撫でた。見ると檜山がカウンターに肘をつき、俯いたままうっそりと笑っていた。真正面に立った女の角度からは見えなかったろうが、きっと檜山は酒を浴びせられる前から笑っていたに違いなかった。
 最後にして最も後味の悪いクリスマスの記憶。その後のことは思い出したくもないが、今でも低い嗤いが鼓膜を撫でる時、拓也は全身を包むアルコールの匂いと濡れたカウンターに顔を押し付けられた記憶が蘇る。
 一人になりたかった。仕事に打ち込み、自分は一企業をその肩にあずかる身なのだ、社会的責任と立場のある宇崎拓也なのだと言い聞かせ、実感したい。そうだ、俺はタイニーオービットの社長で、自分の仕事をまっとうしてこそあいつの残した世界の役に立ち、LBXを守ることができるだろう。
 経営者としては世間のイベントには敏感でなければならないが、自身のプライヴェートとは断絶と言ってよいほど切り離してしまった拓也にとって、受信したのは――差出人も含め――全く意外なものだった。送られてきたのはクラウディア・レネトンからのクリスマスカードだった。
 金色に縁取りされたメールは、遅くなってしまいましたが、とタイニーオービット社CEO復任を祝う言葉に始まり、先の事件へのねぎらいの言葉が綴られていた。
  ――LBXを巡る事件において世の平安を守ろう、人々を救おうと前線で戦うのは常に子どもたちでした。私たち大人は彼らの幼い手に全てを委ね、祈ることしかできませんでした。戦場が柔らかな心を傷つけ、瑞々しい感性をどんなに痛めつけるかを知りながら。ミスター宇崎、私は、私たちはあなたに感謝しています。祈ることしかできなかった私たちに代わり、あなたはどんな時も子どもたちの側に寄り添ってくれました。彼らの戦場のすぐ側に立ち、彼らを見守ってくれました。見守ることしかできなかった、とあなたは思うかもしれませんが、私は子どもたちの背中に眼差しを送ることさえできなかったのです。
  ――ミスター宇崎、これからも子どもたちを見守ってあげてください。彼らが学び、傷つき、成長してゆく様をあなた自身の目で見つめてください。あなたはLBXと子どもたちの繋ぎ手です。彼ら――子どもたち、LBX――の未来が希望を生み続けるための守護者であってください。私たちは大人であるが故に、子どもたちより先に多くの傷を経験しました。子どもたちの手が傷ついた時、痛みに倒れてしまいそうな時、しっかり支えてあげるのが大人の使命です。
  ――そしてあなたよりも先に大人になった者として、あなたの傷にも私から敬意を、神の御慈悲を。偉大なるお兄様と、レン・ヒヤマの魂が今宵も安らかに眠りますように。
 気付けば机につっぷしていた。涙が溢れて何も見えなかった。心が繰り返し何かを叫んでいるような気がした。何かは分からない。誰かの名前を呼んでいる気がする。兄の? 檜山の?
 悲しんでもいいのか、と泣きながら思った。
 コートを掴んで執務室を出る。通路で、エレヴェーターで、涙は時々滲み窓や自動ドアに情けない顔が映し出された。そのたびに拓也は手の甲で乱暴に目元を拭いながら足を踏みしめるのだった。
 街頭の自動販売機で缶コーヒーを買う。一気に呷ると味わいとしては物足りない、しかし十分に熱い液体が喉から胃の腑へ滑り落ちる。拓也は鼻を鳴らし、笑った。少し落ち着いていた。追い込みとばかりに店頭で売られるケーキ。すれ違う人々の抱えるプレゼントは様々な色の包み紙とリボンにくるまれ、それそのものがあたたかそうだ。
 ふと見ると、子どものプレゼントにとLBXも売り出されている。アキレス・ディードはやはり目玉だ。拓也は見慣れた箱の中からサラマンダーを選び出した。アルバイトらしい、サンタの扮装をした若い店員は既に決まり文句となっているのだろう「メッセージカードをおつけしますか?」と早口に言った。
「ああ…」
 一瞬の戸惑いの声を肯定と取った店員が、柊のリースのプリントされたカードを差し出す。一緒に渡されたマーカーを手に、拓也はぼんやりとカードの空白を見つめた。
 誰に。
 何のために。
 檜山の顔が、兄の顔が、死んだ父の顔が脳裏をよぎり、首を振る。現実の世界、生きた人々が俺の周りにはいる。霧野、結城、自分を囲む社員の顔。シーカーの仲間。かつて対立した人間さえ今は仲間だ、八神探偵社の面々…。
 クラウディア・レネトンのクリスマスカード。
 あなたはいつでも子どもたちの側に。
 山野バン、カズ、アミ、海道ジン、灰原ユウヤ……子どもなどまだ持ったことがないのに、こんなにも沢山の子どもたちの顔が浮かんでくる。
 傷ついた時は支えに…。
 神の御慈悲を…。
 子どもたちの他にも、同じ傷を負った人間を拓也は知っていた。魂の安らかな眠りを望むのは自分だけではない。
 しかし何と書いていいのか分からなくて、拓也はありがとうとマーカーを返し白紙のままのカードをラッピングされた箱に添えた。
 手に提げた紙袋が時々足にぶつかって音を立てる。家へ向かう足はだんだん速くなる。まだ何をどんな言葉をかければいいのか分からないが、拓也の見つめた同じ戦場で傷を負い支えを必要としている人間のために届けたいものがあった。そのためにはまずクリスマスカードの返事を。それからタイニーオービット社の社長であり、シーカーの創始者であり、あの戦場を己が目で見つめた者として、宇崎拓也としてクラウディア・レネトンA国大統領に打診を。
 今もA国内に留置されている檜山真実への面会を。
 クリスマスに間に合うだろうか。いや、間に合わせてみせる。一年に一度しかない特別な日に。
 ブルーキャッツの横を通り過ぎるとコーヒーの匂いが鼻を掠めた。酒の匂いではない…、そうだこの店で過ごしたクリスマス・イブはあの日一度ではない。それまでも穏やかな夜はあったのだ。コーヒーの香りと、古いジャズのレコードと、あとは沈黙だけ。檜山蓮が自分のためだけに淹れたコーヒーを味わう、そんな贅沢な夜があったのだ。
 また涙が滲み、拓也はそれを袖でごしごしと拭った。
「あの悪党め…!」
 小声で呟き、笑い、また涙を滲ませ、拓也はクリスマス・イブからクリスマスへ移ろうとする真夜中の街を駆ける。




2012.12.15 敢えて言わせてもらおう、ダン戦のヒロインはクラウディア・レネトン大統領であると。