ステアウェイ・トゥ

ノット・パーフェクトワールド







「おかえりなさい」
 と満面の笑みを浮かべた西原誠司がここへ飛び込んでおいでとばかりのの大仰さで両腕を広げてサイバーランス社のエントランスに現れたお蔭で、ジンは自分たちが帰ってきたのは本当にこれまでの人生と地続きの世界なのだろうかという心の奥底に残った疑問の最後の最後の残滓まで消し飛ばして確信した。ここは自分の暮らす世界で、目の前の男は間違いなくあの西原誠司だ。
 ジンが腕の中に飛び込んでくる確率など惑星直列現象ほどに低いことを理解していた西原はあっさりとそのポーズをやめ握手に切り替える。それに応えるに吝かではない気分だったので――なにせ住み慣れた世界にやっと戻ってきたという安堵があった――手を伸ばすと、西原はそれを両手でぐっと握り締めた。
「おかえりなさい」
 重々しい実感を伴って、西原は再び言いジンを迎えた。聡明そうな額の下、いかなる時も相手を正面から見据える黒い眼が真摯に見つめた。
 ジンもその眼を正面から見つめ返し、一度しっかりと手を握り返した。
「無事で何よりだ」
 ディテクター事件の前からジンは日本を離れてしまっていたから、サイバーランスの本社ビルを訪れるのは本当に久しぶりのことだった。開発室に足を踏み込むと心地よい懐かしさが胸の中に蘇る。
 ケースから取り出したトリトーンを、西原はわが子に触れるかのようにそっと触った。
「先の事件がどれほどの混乱だったか…我々には記憶がないのですが、よほど激しい戦いだったようですね」
 塗装が剥げヒビの入ったトリトーンはまさしく満身創痍で、自分のデスクについた西原は破損個所を目と指先で一つ一つ確認しながら厳しい目をした。
「真正面から被弾している…三…四発? ああ、シーホースアンカーが防ぎましたか。しかしこんな…」
 よほどの相手が?と西原が問いかけるのにジンは返事をしなかった。
 あの光景は何度も再生した。脳裏に、瞼の裏に。フィルムであれば擦り切れデータであれば劣化しそうなほどに再生して、あの出来事は尚鮮やかに細部まで覚えていた。
 リュウビの銃口がこちらを向いているのに気づく。ユウヤが操作しているのだこのまま撃つはずがないと思うと同時に手は反射的に防御の姿勢を取っていて、果たしてそれがなければコアボックスの上を直撃しただろう弾が西原の数えただけめり込んだ。火花が飛び散ったのはトリトーンだけではなくジンの頭の中で、銃声の瞬間引いた血の気が急激に逆流し怒りまかせの声が口から飛び出していた。次に血の気を失ったのはユウヤだった。しどろもどろになり狼狽えるユウヤに浴びせかけた言葉。
 記憶はふき出す血のように鮮やかに残っている。いつか忘れるだろう。しかし一生忘れないだろう。傷が思い出になる。トリトーンが修復されてもジンはその傷を撫でるたびに、もう二度とこんなことは繰り返さないと言った先日のユウヤの決意や、戦場から生きて帰った歓びを思い出すはずだ。
「ジン君?」
「…呼んだか」
「ええ、呼びました」
 西原はしごく真面目な顔で頷く。
「本格的なメンテナンスの必要があります。詳しくはスキャンしなければ分かりませんが、この掌は一体どんな熱に触れたのか…データもうまく読み取れない。ああ、ご安心を。君の帰国には間に合わせますから」
「そう急ぐ必要はない。しばらくは日本でゆっくりするつもりだ」
「ほう」
 勿論、戦いの後には休養が必要です、と西原は頷く。
「暇を取ってどこかに行きましょう。横浜の水族館はどうですか」
「……?」
「私たちが知らない間に君が世界を救った話を、もっと詳しく聞かせてください」
「水族館…?」
「お嫌ならば江ノ島でも、鎌倉でも」
「いや、だから何故…」
「言ったでしょう、休息が必要なんです戦いの後には」
 この男はまた徹夜をするつもりに違いない。
 軽くため息をつくと、どこに行きたいか決めておいてください、と観光案内のURLをCCMに送られた。
「ところでプロトゼノンは?」
 ジンはURLを開く気になれないまま尋ねる。すると答える男の声は弾む。
「準備万端ですよ。連絡を受けていの一番にメンテナンスしておきましたから」
 西原がケースを開けると、そこには懐かしい機体が収まっている。これを駆ったのはほんの一年前のことなのにもう遠い昔のことのようだ。
「テストルームは」
「空けています。存分に」
 ジンは立ちあがり、西原を見下ろした。西原はその顔を齢より幼く見せる大きな眸をぱちくりさせた。もうトリトーンのことで頭がいっぱいなのだろう。仕事馬鹿とはこのような男を言う。だからジンは敢えて提案を口にした。
「来るか?」
 ジンの誘いには一も二もない。

 力。
 敵を打ち負かし、破壊する力。
 圧倒する力。支配する力。
 自分は力の行使者であると、自惚れではなく思う。LBXは強化ダンボールの外に出た瞬間、人間さえも傷つける機械になる。相手は掌に乗るほど小さいのに兵器と同等の力を持っていることが、相対すれば分かるだろう。恐怖を感じ、脂汗がふき出し、足が竦む。
 人を殺しうる力さえ、この手には握られている。
 ジンは遮蔽物や障害を多く設置した大会用の広いフィールドにプロトゼノンを投下した。一通り基本的な動きをこなした後、ブースターに点火する。小型のロボットから発せられているとは思えない爆音が一瞬耳を圧し、西原が軽く口笛を吹く真似をした。プロトゼノンは大きく舞い上がり猛禽類が空を羽ばたく荒々しさで天井を旋回すると、岩山に照準を定めオベロンを振り下ろした。
 岩の砕け散る音。もうもうと舞い上がる砂煙。破壊のパワーはフィールドだけでなくテストルーム全体の空気を震わせた。
 ジンが静かにプロトゼノンを下ろすと砂煙で濁った空気の中西原の拍手が響く。
「さすが我々の……いや、あなたのプロトゼノンだ」
 破壊の衝撃と熱の残るフィールドに西原は恐れず手を伸ばしオベロンを取り上げる。傷一つない。
「あなたは何故、LBXにこのような力を与えた?」
 ジンが問うと西原は顔を上げたその瞬間だけ何を言われたのか分からないという顔をし、目の前に降り立ったプロトゼノンに相対する。
「我々の…夢だからです」
 西原の手は恐れることなくプロトゼノンに触れる。
「敵を打ち砕く力、どんな苦境も困難も押し返す力、悪夢さえ切り裂いて飛ぶ翼。音より早く、光の速度に近づけとばかりに…夢ですよ。何をも恐れない力。夢です」
 振り向いた表情が妙に切羽詰まって、ジンはそんな西原の顔を見たことがなかった。
「君がいなければ叶うことのなかった夢です」
「僕が…?」
「これは君のプロトゼノンです。我々はこの開発に心血を注いだ。しかし君というプレイヤーがいなければプロトゼノンは我々の本当に夢見た姿として完成しなかったのです」
 コンセプトは悪魔、と西原はプロトゼノンを掌の上に載せた。
「LBX業界に、まるで自らが王であるかのように傲然とふんぞり返るタイニーオービットに一つ食らいついてやろうと。デザインはできるだけ禍々しく、邪悪であるほど良い…。しかし楽しかった。プロトゼノンを完成させるのは面白かった。その先にはさらに時代を次へ移行させるゼノンが待っているかと思うと胸が躍った」
 君は、と西原はプロトゼノンに話しかけ、そしてジンを振り向いた。
「我々の夢を叶えてくれたんです。そして君の夢が私たちの夢になった。私たちはゼノンを完成させた」
「しかしゼノンには翼がついていない」
「LBXは強化ダンボールの中でこそ本領を発揮するものです。我々が作っているのは兵器ではありません。強大すぎる力で何もかも薙ぎ倒してしまってはバトルも楽しくないでしょう。力を追い求めてがむしゃらに走り続けてきた我々開発室にそのことを思い出させてくれたのは君ですよ? 君とプロトゼノンのバトルです。我々は君が胸躍らせるバトルをしてくれることをこそ望んでいるのです」
 今回の戦場では、そのジン自身が戦いに呑まれかけたというのに。戦いを消し去る戦いのための戦い。終わりのない破壊。声を上げないLBXの苦悶の呻き。誰のものか分からない銃弾が飛び交い、弾けた火花。
 バトルを…LBXの本領を、LBXの本当の姿をプロトゼノンが気づかせた、と?
 LBXは道具ではない。兵器ではない。自爆装置を組み込んで誰かを陥れるための道具でも、人殺しの道具でも。
 相棒であり、仲間。
 力であり、夢。
 ジンはCCMを閉じた。力を失ったプロトゼノンを西原の掌は優しく抱きとめた。
 テストルームを出ながらジンは言った。
「週末は休みなのか?」
「休みにしましょう」

 土曜日、二人は横浜の海に浮かぶ人工島の水族館を一日中満喫する。受付でうっかり親子ペアチケットを切られてしまったが、西原はそれさえ楽しんだようだった。
「もしジン君が気を悪くしなければ」
「…構わない」
 記憶に残る父親とも、海道義光とも全く面影の重ならないこの男は、しかし…。
 と逆接の次に来る言葉が何であっても西原本人には言わないつもりだ。野心家の炎を燃え立たせておくには簡単に満足を与えてはならない。
 ともあれジンは兵士ではなくここでは秒殺の皇帝と言うより十四歳の少年で、西原誠司も休日の会社員であり、ここには休養のため、イルカとのふれあいプログラムと、大水槽の中を通るエスカレーターと、間近で見るアザラシやホッキョクグマを楽しむために来ている。まずはシロイルカのショーからだ。
 昼食で西原は一杯だけビールを飲んだ。ジンはジュースで乾杯した。そして先の戦いの話を少しずつ話し始めた。




2012.12.13 映画の脳内補完