瞳を閉じずに







 面の向こうから鋭い眼光が自分を射貫く。
 敵意ではない。まして殺意では。
 しかし。
 硬い音を立てて竹刀がぶつかり合う。
 攻撃は躊躇なく、容赦もない。
 それはこちらも同じだった。
「どうした、かかってこい灰原ユウヤ」
 目の前の男が言う。

          *

 夜が青白く光っている。湖の底に沈む街はいままで自分が見たどの街とも違っていて、ちらちらと光っているのに人の住んでいる気配がしなかった。ビルや高架の光が澄んだ水底から、上空の月明かりと同じ静けさでゆらゆらと立ち昇る。窓に顔を押し付ければ、やはり同じように静かな夜空が見えた。見たことのない空。似た星、似た星座が浮かんでいるがどこかよそよそしい光だ。この地上とも、どの世界とも関係ないとでも言うように光っている。無関心で冴え冴えと冷たく、ただただ煌びやかな空。
 灰原ユウヤはすとんとダックシャトルの座席に腰掛けた。足元の覚束なくなる感覚は彼にとって嫌な意味で馴染みであり、また胸の奥から身体中がすうっと冷えてゆく。心臓の音さえ機械的に打ち、思わず手首を掴んで脈を確かめたがその両手とも冷え切っているのだった。
 不安は世界中に口を開けている。ぽっかりと口を開けて、ユウヤを待ち構えている。世界、というものをほとんど知らなかったユウヤにとって目の前の景色がどういう意味を持つのか…。何者かが世界をバラバラにし、パッチワークのように繋ぎ合わせている。むりやり繋ぎ合わせた欠片は世界中を異形の景色に変え、今や踏んでいるこの土地も自分が生まれ育った地球の地面ではない。水の下に都市が、白樺林の上にオーロラが広がっても何ら不思議のない世界。
 ユウヤは手を握り締めた。脈がかすかに感じられた。
 ――生きてる。
 自分の身体は生きている。まだ、ちゃんと存在している。自分という心をその中に入れて。
 昼間の戦いで疲れ切っているはずだが、眠れる者半分、眠れない者半分といったところか。ユウヤがそっと起き出したことに気付いた人間は数人いた。同室のジン。通路を歩く間にも、ドア越しにもジェシカが目覚めてドアのこちら側の気配をじっと息を殺して窺っているのが分かった。ヒロやラン、アスカが眠っているのは性格のおおらかさだろうか。いや、聞こえたのはヒロのいびきだけだ。アスカは…思い返せば夕食の後、ポツリと弟の名前を呼んでいた。不安には違いない。
 ――タケル君、弟、家族…。
 皆、家族の安否も分からないままここにいる。ユウヤに家族はいないし、彼が誰よりも大切にする人とは一緒にいるけれども、それでも世話になった八神たちのことは気になる。
 ――山野博士は一緒にいるけれど…。
 バンが眠れる理由はそれではないだろう。
 バンたち――アミもカズも眠っているようだった。それがユウヤには意外なような気も、納得のできる気もした。僕らのリーダーは山野バンだ、という強い信頼がある。彼らは動じない。それだけの修羅場をかいくぐってきたのだ、と思うが世界でも指折りに治安のよい日本に暮らしていて、しかも十四歳の少年少女が何故、修羅場をくぐらなければならないのだろう。
 パズルがきちんとはまらないかのような、落ち着きのなさが腹の底に転がっていた。気持ち同士がビー玉のようにころころ転がって、ぶつかり合っては小さな音を立てる。弾ける音に喉の奥が震え、何かを言いたくなるが、ユウヤには果たしてこの気持ちをどう言葉にすればよいか分からなかった。言葉が、見つからなかった。
 結局眠ることができずに外の景色を眺めている訳だが、その景色もいやに不安を掻き立てて――そのくせ目の奥に優しく揺れる光から目を逸らすことができなくて――ユウヤはぼんやりと座っている。頭の奥では深夜一時三十分二十一秒、二十二秒…と正確な時計が時を刻んでいた。眠るべきだ。だからジンもジェシカも目は覚ませど動かなかったのだ。自分たちはまたすぐにも世界の異常を引き起こした敵と戦わなければならない。また大量のLBXが襲い掛かるのだろうか。眠れ、休養を取れ、万全の出撃ができるように。
 ――昔みたいだ。
 ユウヤは手首を握り締めたが、もう脈も掌の体温も分からなくなっていた。
 CCMスーツの被験者として、イノベーターの刺客として過ごしていた毎日の思考回路に似ていた。今いる場所も時間も関係ない。感情は必要ない。使命があり、義務があり、必要があり、成されるために準備される肉体さえあればいい。
 LBXの部品。
 灰原ユウヤ。
 二つの概念が溶け合ってユウヤは自分の名前を一瞬忘れかける。何も見えなくなる。虹色の光が揺らめく空も、静かな光と清らかな水をたたえた湖も、白樺の林も、何もかもが色彩を失い灰色の輪郭だけとなり、大きな黒い瞳がぼんやりと濁った。
 だからドアのスライドする音にも大した反応は返さなかった。肩に手を置かれ「ユウヤ」と呼ばれて、ぎこちなく顔を上げてようやくユウヤは自分が見ているものの名前を思い出した。
「……ジン君」
「まだ眠れないのか」
「わざわざ迎えに……、起こしてしまった?」
 眉を曇らせると、ジンは隣の座席に腰掛け身を乗り出した。
「何を見ていたんだ」
「何も…」
 ぼんやりした頭のまま答えて、不意に鼻をくすぐった匂いが、まるで匂いそのものが生きているかのように鼻腔の奥まで飛び込んできて急に目が覚めた気分になった。目の前にジンの横顔がある。窓の外を見つめる瞳と、頬と、耳を半分隠す髪の毛…、これはジンの髪の匂いだろうか。ユウヤはくらくらしながら答える。
「湖と、街と、それから空…」
「異世界のようだな…。いや、ここは違う次元なのだが」
 視線はユウヤを捉えて、ユウヤの瞳も外の景色に導く。
「異様で…しかし美しい」
「美しい…」
「この世ではありえない光景だ」
 もっとよく見てみよう、とジンが立ち上がり手を差し伸べた。あまりに自然な仕草だったので、ユウヤもつられるように手を差し出した。そしてジンの手のあたたかさで自分の手の冷たさに気付いたが、手を退こうとした時にはもう掴まれていた。
 操縦席のパノラマから見える景色はやはり異様で、そしてジンの言葉を借りれば美しかった。ユウヤは自分の胸の底でぶつかり合う気持ちの一つをようやく言葉にすることができた。一歩踏み出せばそこは異世界、世界の果て、という不安はあるものの、やはりそれら景色は目を逸らすことができないほど美しく、綺麗だった。水の底に沈む都市。晴れた空のオーロラ。美しい景色の結晶でモザイク模様を作ったような世界は静寂に満たされ、歪でありながら完璧だった。
「もしも…」
 ユウヤが口を開くとジンがそっと振り返る。その視線を受けながらユウヤはパノラマの景色を左から右まで見渡した。
「もしも戦いに負けてしまったら、世界が元通りにならなかったら、僕らはこの世界で生きていくんだろうか」
「いいや」
 にべもない返事を、静かな声音でジンは答えた。
「きっと僕らは死ぬだろう。戦いに負けたら僕らは死ぬ。生き残っても、この世界では生き続けることができない。ユウヤ、気付いているか?」
 ユウヤは頷いた。
「とても静かだね。何一つ音が聞こえない。何も」
「ここに生物はいない。昆虫も。息をしているのは植物と、僕ら…彼らだけだ」
 二人の視線は湖畔のテント群に向いた。
「君は彼らをどう思う」
 そう尋ねたジンの声は司令官のそれだった。今日も非現実的なほどの世界の異変とLBXの大群を前に冷静沈着な指示を出した、あの声だ。
 ユウヤは考える。
「サッカー選手…なんだよね。不思議な力を持った。科学じゃない。彼らの乗り物は科学の世界のものだけど、必殺技とか化身とか、まるきり僕らの世界の常識の外の力だ。超次元サッカーって言っていたけれど、まさにその通りだよ。……普通の男の子に見えるのにね」
 ジンが遮る様子がないのでユウヤは言葉を続ける。
「バン君たちは早速仲良くなったみたいだけど…僕はまだ気おくれしてしまう。彼らはサッカーが大好きで…僕にはLBXしかなくて…話題が合いそうにもないから」
「バン君の目は」
 テントの側に、昼間のバンの姿を探すようにジンが身を乗り出した。
「彼の目は真っ直ぐに相手を見る。そして信じる。信じてしまう。その彼の懐の広さに僕も助けられた。これは彼の長所で、バン君がバン君たる所以だと思う」
 小さな溜息が聞こえた。今度はユウヤが黙って相手の言葉に耳を傾ける番だった。
 ジンは相変わらず窓の外に視線を遣ったまま言った。
「カズ君も、アミさんもそうだ。彼らだって動じているには違いないのに、いつも通りであろうとバン君を支えている。ヒロたちも…いやヒロのあれは少し違う気もするが、でもバン君がヒロを相棒と呼ぶのが分かる。そんな彼らにバン君は支えられ、そのバン君の力強さに支えられてカズ君、アミさん、それに僕もこの異常な世界に何とか二本足で立っている」
 ユウヤは頷いた。僕もだよ、ジン君。
「得体が知れないのは敵だけではない」
 ジンは振り返り、ユウヤを正面から見た。
「僕は敢えて彼らを疑う立場に立とうと思う」
「敵だと言うの…」
「バン君は彼らを味方だと思っている。同じ戦いをする仲間…と感じているのかもしれない。だからこそ不慮の事態に備えて僕は疑いの視線を持つ。敵だと決めつけては思考も脳も硬直してしまう。疑うんだ。彼らが何者なのか、本当の目的は何で、僕らの戦いにおいてどんな役割を持つのか、それがはっきりと分かるまで」
 ジンはホッと息を吐くと、視線を和らげた。
「こうまで言って、君は君の思うように行動してくれというのも難しいかもしれないが、ユウヤ」
 その瞳、切れ長のいつもは眼光鋭い目が、しっかりとユウヤを見据えた。
「君には心と意志がある。君は君の心を裏切るな。君の心はもう誰にも命令されることはない…、命令されてはならないのだから」
 それはユウヤにとって間違いなく、何よりもジンの目だった。遠い記憶の底で霞む幼い日々、そしてイノベーターの手を離れ、それこそ生まれたての子どものように足下の覚束なかったユウヤをじっと見守り、時間をかけて心を通わせたジンの瞳。ユウヤの信じる輝きがそこにはあった。
「…ジン君は自分に嘘をついているんじゃあ、ないの?」
 するとジンは黙り込み、ふうっと深い息を吐き出した。
「いいや、そういうことはない。バン君の為と言いながら、本当は僕自身が心情的に彼らのことを信じられないんだろう。今日会ったばかりの、生きてきた地盤さえ違う彼らを…」
 ユウヤがすっと跪くとジンは一瞬瞳を揺るがせたが、慌てふためくことはなかった。ユウヤは胸に手を当て、ジンを見上げた。
「この世界で信じられるのは…、僕が世界で一番信じているのはジン君だよ。僕は君の役に立つために君の隣にいるんだ。僕の心は決まっているよ。僕は君の守りたい世界を守る」
 頭を下げようとするとジンの腕が伸びてきてユウヤを立たせた。
「隣に、立って、いてもらわなければ」
 ジンはユウヤの膝を払った。
「君は誰に隷属する必要もない」
 ほんの一秒にも満たない視線の交わりがあり、二人の身体は近づいていた。腕が伸びて互いの身体を抱いた。
 でも、ありがとう。とジンが耳元で囁いた。

          *

 見える。今度こそ見えている。そして肉体を制御できている。自覚と自信がある。
 途切れることのない集中、隙の無い切っ先。しかし完璧な防御はない。
 籠手。間髪入れず横面。
 打てる、と冷たくひえた目が見据え、静けさの中で機械のような思考演算を続ける頭が言う。あとはこちらの攻撃を相手がどれだけ予測し、反応してくるかだ。
 次に踏み出した一歩に躊躇いはない。
 気迫と共に踏まれた磨き抜かれた板床は大砲のような音を立てる。

          *

 トリトーンが被弾し火花が走った瞬間、ユウヤは勿論それがリュウビの撃った弾であることを分かっていた。でも自分が銃口をジンに向けたと思ったし、トリトーンの火花にジンが死んでしまうと思った。
 世界が終わる!と腹の奥まで巨大な氷の塊を突き立てられたかのような、ぞっとするという言葉では済まされない冷たさ、痛みを感じた。
 ジンが死ぬ。世界が終わる。なら自分も死のう、死ななければ…。
「ユウヤ!」
 だからジンの怒声が横っ面をはたいた時、ユウヤは本当に驚いてしまい、この世界も戦闘も何もかもがまだ続いていることに狼狽えた。
「ごめん、そんなつもりじゃ…」
 狼狽えながら言い訳めいた科白を吐く自分をまるで自分のものではないかのように感じ、そういうことじゃない!とジンの怒りを含んだ声が耳を貫いてようやく現実に戻された。
 生きている。
 世界が続いている。
 戦闘はまだ終わっていない。
 それなのに感情にまかせた言葉を投げ合っている自分たちが場違いで現実離れして見えた。勿論そうだろう。トリトーンとリュウビは動かず、敵LBXの黒い影が背後に近づく。
 危ない、という言葉はもう口を突く間もなくて、ユウヤは無意識的にCCMのボタンを押す。リュウビは武の剣をトリトーンの背後から襲いかかるLBXに向かって投げつけた。同時にトリトーンのシーホースアンカーがリュウビに向かって伸び、ヘッドを掠めて背後まで迫ったLBXを突く。
 それから言葉もなかった。敵の数は無数。あちこちで上がる悲鳴のような音は斃れゆく機体の断末魔だ。鋼が削れ、カーボンが砕け、あるいは熱線で溶かされる。爆発の衝撃は足下を揺らさないが、耳から飛び込み常に脳を揺らした。硝煙の匂い。何かの焦げる匂い。
 ――僕の見ている世界は…。
 ユウヤはCCMと一体になりながら言葉もなくリュウビを駆る。
 ――この世界は…。
 ヒビの入った剣を振り上げる。
 ――僕は何の為に戦っているんだ?
 剣が砕け、リュウビは盾を捨てた。しかし素手だろうが関係ない。僕と、僕の操るLBXは目の前のあらゆる敵を撃破する。僕は勝たなきゃいけないんだ。――何のために――。何のためでもだ。――勝つことが使命だ――。義務だ。――勝て、……――。
 名前が消失する。この身体はCCMを動かすためのもの、LBXの部品だ。
 リュウビは、トリトーンと打ち合っていたLBXに後ろから飛びかかると首をもぎ取る。それさえ感慨なくやってのけた。感情から出た行動ではなかった。――僕は勝たなければならない――。
 次、と視線をぐるりと巡らせる。トリトーンと目が合う。その目に何かを感じ取る。いや、そんな暇はない。次を倒す。倒したらまた次。次。次。次。次……。
 バンの声が世界を破るまで、ユウヤは自分の肉体さえ思い出さなかった。

          *

 したたかに打たれた手が痺れ、意志の上ではまだ相手に向かっているつもりだったが竹刀は音を立てて床に落ちた。
 切っ先がユウヤを指した。
「ここまでだ」
 静かな声で、八神が、言った。
「…ありがとうございます」
 ユウヤは竹刀を拾い、深く頭を下げた。
 傾いた日が高い窓から見えた。一時間余りもひたすらに打ち合っていたのだ。ユウヤも息切れしていたが、防具を外した八神も顔中から汗をふきだし滴らせていた。
「…落ち着いたかな」
 神棚を背に八神が言う。ユウヤは籠手の上に脱いだばかりの面を載せ、音を立てず八神の前に行き正座をした。
 再び頭を下げる。何も言われないのでゆっくりと顔を上げると、八神はじっとユウヤを見守っていた。そこにはユウヤに触れる懐かしい視線があった。
「聞いて欲しいことがあります」
「言いなさい」
 ユウヤは先の戦いで起きた出来事を余さず話した。報告書に書かれないような細部、ごくプライベートなジンとの会話も、トリトーンを誤射してしまったことも。
「僕は自害しなければと思いました」
「…過激なことを」
「それが僕の素直な気持ちでした。ジン君が死んでしまう、自分が殺してしまった……、じゃあ僕は自害しよう、と。世界が終わるという凍りつくような恐怖と痛みがあったけれど、僕は世界が終わることより、ジン君が死んでしまうことの方が怖くて、ううん、ジン君が死んでしまうから世界が終わるので……」
 縺れる言葉の中でユウヤが喘ぐと、八神は、では、と言った。
「世界は終わったのか?」
「……いいえ」
 ユウヤは一呼吸し、胸を落ち着かせた。
「終わってはいませんでした、何もかも。世界は続いていた、戦闘も続いていた…」
「ジン君は?」
「…生きて、ました」
「君は」
「生きていました」
「戦ったのか」
「戦いました。LBXを…数え切れないくらい倒して、でも最後は……」
 戦いが止んだ。終わったのではない、止んだのだ。そこにあったのは勝敗ではなく深い深い悲しみだった。それを包み込んだ少年の手、それを支えた仲間たちの手に、自分の手も含まれていたのか。ユウヤは呆然として掌を見つめ、再び八神を見上げた。
「戦いは愚かなこと…でしょうか」
「君はどう思う?」
「考えています、あの日からずっと考えています。でも…考えがまとまりません。同じ所をぐるぐる回っているようで…」
「フランというその子は全ての戦いを憎んだ。しかしその戦いを…LBXバトルやサッカーを消滅させるために彼女がしたことも、また戦いだった。君たちがいた場所は戦場そのものだ」
「戦場…。僕たちがしたのは戦争だったんですか…?」
「私はそう感じている。君たちは本来なら置かれるべくもない戦場に身を置き、圧倒的戦力に立ち向かった」
「世界を守る為です」
「そう言いながら君たちを送り出したのは我々大人だ」
「でも…LBXの操作は子どもの方が…」
「だからと言って子どもを戦場の最前線に立たせる理由にしてはならない。君たちが育むべきはそういうものではないのだ。だからこそフランという子どもの精神も肉体も深く傷ついた。世界を作りかえる程の悲しみが生まれた」
「それを…向こうの世界の男の子は…天馬君は…受けとめました」
「彼、だけかな?」
「天馬君のチームメイトも、バン君も、ヒロ君も…」
「君もだろう」
「ジン君も」
 八神は深く頷いた。
「戦場に立たされながらも、君たちは誰一人欠けることなく、その上掛け替えのないものまで持ち帰ってくれた。それを守り、育むために、今度は我々が責任を取らなければならない」
「責任って…」
「本物の花が咲く未来、フランという女の子が絶望のうちに泣くことのない未来、サンとアスタという少年が生きてフランと笑いあえる未来を作るためには、まず大人がこの世界を変えなければならない。LBXを強化ダンボールの中にかえしてやらなければ。ユウヤ君、何故、皆LBXを禁止するのではなく、ダンボールの中にかえそうとするか、分かるかな」
「LBXは僕らの仲間で…失いたくないから」
「そう。子どもたちの仲間であり友人であり相棒であるLBXだからこそ、それを兵器として用いてはならない。LBXが本来のLBXである限り、我々は自分の子どもたちを思うだろう。その顔がどんな笑顔に輝き、どんな涙に濡れるかを思い出す。LBXが子どもたちのものである限り、子どもたちが戦場に立たされてはならないのと同じく、LBXも絶対に戦いの道具であってはならない」
「戦いの…道具」
 やはり戦いは愚かな行為か。
「ユウヤ君、今の君と私の稽古は戦いだろうか?」
 それは今までの優しい声から一転、教師のように発せられた。花咲の道場で聞く、ランの祖父の声と同じだった。
「違うと思います」
 ユウヤもはっきりと答えた。
「僕はこの稽古で八神さんから色々なことを学びました」
「簡単に答が出ては人類が何千年と思索を巡らせた甲斐もない。生きていく限り人は学び続ける。人類は学び続け、未来を切り拓く。いつか君が私に教える日も来るだろう」
「何を、ですか」
「君の見出した答を」
 八神はぴしりと背筋を伸ばした姿勢から、深く頭を下げた。その粛々たる様にユウヤも三度自分の頭を深く下げた。
「ありがとうございます」
 腹の底から声が出た。

 道場の玄関で先に靴を履いた八神はふと立ち止まり、先に失礼する、と足早にそこから去った。ユウヤはまだ靴紐を結んでいる途中で、ありがとうございました、と立ち上がろうとしたが八神と入れ違いに玄関に佇んだ人影にまた腰を下ろしてしまった。
 夕景を背にジンが立っていた。
 靴紐を結ぶ手を止め、ユウヤは俯きかけたが身体の芯にはもうしゃんとしたものが一本通っていた。それがユウヤの首を折らせず、再び彼と目を合わせさせた。
「ジン君」
 ユウヤは靴を脱ぎ、板間に正座すると頭を下げた。
「この前はごめん。僕はもっと強くなるよ。もうあんなことにならないように、もう二度と仲間に銃口を向けることなんかないように、僕はもっと強くなる」
「ユウヤ!」
 強い声でジンが呼んで肩が掴まれた。顔を上げると苦しげな、どこか必死なジンの顔が間近にあった。
「違う、あの場では誰も……いいや、僕も言いすぎた。感情的になって」
「ううん、君の言ったことは正しい」
 戦場の善悪。結局あの戦いには勝者も敗者もいなかった。
 あったのは、本当に手に取られるべきだったものは銃でも剣でもない。
 悲しみだけ。
 ごめん、この言葉も違うね、とユウヤは呟いた。
「君が、死ななくてよかった」
 一瞬、ジンが言葉を失う。
「君が生きていてよかった。トリトーンが無事でよかった。君と一緒に、僕らが住む世界に帰ってくることができて…本当によかった」
 ジンの唇がかすかに開閉するが声にならない。
「僕はもっと強くなるよ。LBXだけじゃない、もっと強くなる。もういい加減なことで仲間に銃口を向けるなんて絶対にしなくなるように。強くなって、今度は僕が誰かを受けとめられるように。もっともっと強くなって、そしてね、僕らは未来を作るんだ、君の…」
 不意にユウヤは鼻先がくすぐったくなるような感覚に襲われた。鼻の奥、目の奥が熱くなる。
「ジン君の、守りたいせか…」
 呂律が回らないのが自分でも不思議で、ユウヤは必死に言葉を紡ごうとする。
「ジン君が好きな世界を、僕も一緒に、作れるように、だから…」
 ――だから?
「だから……」
 瞼から堰を切ったように涙が溢れ出してユウヤの頬を濡らした。ああ、泣いていると思いながら、ユウヤは微笑もうとする。
「だから……」
 ――だから…?
 強くなる?
 それだけではない。この気持ちはどういう言葉にしたらいいのだろう。
 だから、だから、ジン君。
「ユウヤ」
 と呼ぶ声が掠れていた。
 涙で滲む夕景の中にジンがいる。ぼんやりと歪むオレンジ色の光の中で、ジンの顔も厳しいような、それでやっぱり必死な顔をしている。
「僕は君を信じている。これまでも。これからもずっと、永遠に」
 そう言ってジンは冷たい玄関に跪くと、ユウヤの足下に頭を下げようとした。
「ま、って」
 ユウヤは慌ててジンを押さえ、待って、と繰り返した。
「待って、ジン君」
 ちょっと待って、とユウヤは涙を拭った。瞼は腫れぼったいがジンの顔はちゃんと見えた。
 正面から視線を合わせる。じっとお互いの瞳を見つめる。その瞳はユウヤが世界で一番――たとえ世界の形が壊れようとも――信じている瞳だった。時間をかけてその瞳を見つめ、ユウヤは涙で汚れた顔をゆっくりと微笑に変えた。ジンもまたユウヤを見つめた、時間をかけて。
 手を繋ぐとジンの手がすっかり冷え切っているのが分かった。ユウヤは熱を分かち合うようにその手を強く握る。人の血のぬくもりを。人間と人間の体温を溶かし合い、指を絡める。
 二人はお互いに、ただいま、を言い、おかえり、を言い合った。ジンが耐えきれないとでお言うようにもたれかかり、ユウヤはその身体を抱きしめた。ジンは言った、ユウヤを信じていると。今までも…、撃たれる直前、撃たれた瞬間、そして撃たれた後でもジンはユウヤを信じていた。だからこそ。
 それを怒りという感情にこそすれ、戦場で決して恐怖を見せなかった皇帝を抱きしめ、ユウヤはまた涙の滲んだ瞳を伏せ、ジンの肩に押しつけた。




2012.12.9 映画の脳内補完