うたかたの夢、泡沫の現実







不機嫌な日


 朝食は、と尋ねると軽く手が振られ、じゃ、と短い言葉と共にドアが閉じた。ジンは廊下に半身を覗かせたまましばらくぼんやりとしてしまった。
 朝から玄関の向こうに消える背中を見るのは彼の人生の中で多くない経験だったので、それが物寂しさであることに気づいたのは一人分の皿をキッチンテーブルの上に並べている時だった。ようやく窓から通りを見下ろしたが山吹色の髪が揺れていたのは数分前だろうことで、今は見知らぬ人々の歩くいつもの見慣れた通りがあるばかりだった。街路樹はほとんど葉が落ちて、黄色い葉を清掃夫が箒で掻き集める乾いた音とその回収を待つ清掃車の唸りが聞こえた。ジンは朝食を終えるといつも通り食器を洗い、テーブルを拭き、身支度を調え、自転車でアパートを出た。いつも通りのようだったが、隣に彼女の姿がないのが不安定な空漠を作り出していて、身体が傾きそうだ。しゃにむにペダルを漕ぐ。マフラーを忘れていた。初冬の風が首筋に冷たい。
 タケルの治療とリハビリが順調に進み、年明けには帰国のめどがついていた。古城の両親はアスカが滞在中のアパートメントホテルでなくジンの部屋に居着いていることを容認していた。年頃の男女、とは言えジンはあの、海道家の人間なのだ。いまだにこの名前は社会的信用の場面でものを言う。結局はその信用を裏切るような関係になっているのだが、ジンは決してこの毎日を軽んじているのではなかった。大切にしたいという思いはむしろ日々募るものとなっている。
 ――何か怒らせるようなことをしただろうか。
 もうすぐこの街にも雪が降り始める。タイヤを変えるか、自転車通学を諦めなければならない。ジンは普段この交通手段によっているものの、倍の時間を掛けて徒歩で大学に向かうのも嫌いではなかった。冬の朝となれば、いっそそれを好きと言ってもいい。昨夜はベッドの中でそんな話をした。キスもしなかったが、病院に通うアスカと途中まで道を同じくする途上のことを考え、話をした。アスカは、やだよ、と悪戯っぽく笑った。寒いし風邪ひく。オレ、バスに乗ってさっさと先行くから。
 怒らせるような会話だったとは思えない。もうすぐ月が変わって、クリスマスが過ぎて年が明けたら……。
 赤信号で自転車を停めた。ジンは大きく息を吐いた。
 アスカと毎日一緒にいられる生活は、もう二ヶ月と残されていなかった。今朝のアスカがそっけなかったのはこのことに拗ねていたからなのか、それは分からないが自分にとってはこの事実がダメージだったのでジンは溜息をついた。
 講義中のノートが空漠を埋めるように文字でいっぱいになったのに、頭の中は音がしそうなほどだ。今朝の路上の落ち葉掃除。黄葉した葉が掻き集められゴミとして片付けられる、あの乾いた音や清掃車の唸る音は不穏な気配さえまとって頭の奥に蘇った。ジンはそそくさと帰り支度をした。アパートのあの部屋が懐かしく感じられるのは初めてのことだった。
 夕飯は奮発しよう。どこかに食べに行ってもいい。アスカに電話をするが繋がらない。いつもはこちらの都合などお構いなしに接触してくるあの手が一度も触れてはこず、視線さえ交わらないことが既に不調と言っていいほどジンをそわそわさせていた。彼は自転車を停めて、今朝のように溜息をついた。
 時計の針を見て、一瞬で日本の時間を計算する。通話ボタンを押すと、数コールと待たせずにバンは出た。
『ジン』
 そう呼ばれる、声音にジンは心底ホッとする。
『どうしたんだ』
「今、大学の帰りでね」
 ジンは顔を上げるとゆっくりと周囲の風景を見渡した。
「夕飯のメニューを考えているところなんだ」
 向こうが早朝だということは分かっていた。眠そうな声のバンはそのくだらない話題にも笑って、オレの晩ご飯は…ええと、味噌汁だったよ、あと焼き鯖、と律儀に答えてくれる。信頼しあっているからこそ、早朝の電話お下らない話もバンは笑って付き合ってくれる。ジンはようやく足下がしっかりするのを感じた。喋る間に信号は青になり、また赤に変わるが、歩道を一歩下がりジンは電話を続けた。
 夕食のことを考える。自分で作ろう。アスカが話したくなければ、それも仕方ない。もしかしたら今日はアパートメントホテルに戻るかもしれない。でも今日も二人分の夕食を作ろう。
 電話の後、マーケットで魚を買って帰った。部屋にはもうアスカが戻っていた。ヴァンパイアキャットの手入れをしながらそっけなく、おかえり、と声がかけられた。
「ただいま」
 ジンは微笑んだ。不意に何かをかぎとったようにアスカの顔が上がる。そしてジンの微笑みを見る。
 見つめ合ったのは数瞬のことで、アスカはまたヴァンパイアキャットに向き直ってしまった。ジンはコートを脱ぐとキッチンに入り、夕飯の準備を始めた。背後にはアスカの気配と、LBXをメンテナンスする聞き慣れた音があった。
 ――贅沢な沈黙だな。
 ジンは鯖を見下ろしてホッと息を吐いた。



夜会からの逃亡


 アスカが鏡に映らないので困った、と思った。
 ジンは姿見の前で立ち尽くすアスカの背後に立ち、自分一人しか映らない鏡面を睨みつけた。手には彼女の耳につけてあげるためのイヤリングが握られていたが、こうなってしまってはその冷たい耳たぶにつけたものは宙に浮いてしまうのか、それとも彼女の姿同様消えてしまうのか。折角のブルーのドレス。透明な海の深い深い深海を覗き込んだような青は白い肌の彼女によく似合ったし、これから付けようとしていたラピスラズリのイヤリングだって、きっと。あと数時間でクリスマスとなるこの夜に、一体何が起きようとしているのだろう。
 アスカ、と小声で呼ぶが、彼女の表情は変わらずむしろこの事態を当たり前のことのように、つんと尖った顎を突き出して自分の映らない鏡を睥睨した。吸血鬼は鏡に映らない。
 隣の間から自分達を呼ぶ声が聞こえて、多分陽気にはしゃいでいるだろう仲間達にこれを打ち明けるのは躊躇われた。ジンはラピスラズリのイヤリングをポケットに突っ込み、姿見を布で覆った。
「ジン君、アスカ君」
 控え目なノックの後、顔を出したのはユウヤだった。ジンは鏡を隠すように立っていた。アスカはちらりと視線をくれて、また前を向いた。
 ああ、と乾いた溜息を吐いたのは、ドアを開けたその人だった。ユウヤは後ろ手にドアを閉めると、仕事を忘れた門衛のようにそこにもたれかかった。そしてじっと自分の爪先を見つめていたが、幾呼吸の間に意を決したのか顔を上げる。
「知られてしまったの」
 アスカに尋ねる。彼女は今度は視線さえくれなかった。ユウヤは悲しみに耐えるような顔でジンを見た。
「知ってしまったの」
 ジンも、気持ちがアスカと同じものではなかったかもしれないが沈黙を保った。静寂が部屋を他の間から隔ててしまった。ここにだけは沈鬱で度しがたい問題が覆い被さっていた。ユウヤは毛足の長い絨毯の上、足音を立てずにアスカに近づくと、そっとその小さな顔を持ち上げた。
「だけど君が不幸になることを神はお許しにならない」
「神様なんて知ったこっちゃないぜ」
 ユウヤは微笑み、アスカの額に接吻した。祝福のそれを、しかし鏡に映らないものは拒まなかった。ユウヤは振り返り、鏡の前に立ち尽くすジンから、鏡面を覆っている布を受け取った。真っ白な布を、聖母のように、天使の衣のように、ふわりと頭の上から被せ、自分の胸を飾っていた生花のブローチで留める。
「ほら、綺麗だ」
「そうか?」
 訝るように、半ば嘲笑うように言うアスカの前に少しだけ身をかがめ、ユウヤは頷く。
「ほら」
 そして黒い大きな瞳に彼女の姿を映して見せた。
 窓の外は寒かった。大きく開け広げると白い布はヴェールのようにはためいた。冷たい空気が流れ込んだ後、再び鎮まった窓の外に見えたのは降り始めた雪だった。ユウヤは窓辺に立ち、二人を振り返った。
「僕は止めないよ」
 そしてジンを見る。
「君の望むドアを、僕は開ける」
 穏やかに次の間のざわめきが蘇った。そこには仲間達がいる。明るい照明と、あたたかな料理と、ほんのちょっとのアルコールも用意して。今にも歌い出しそうな陽気さで二人を待っている。
 ジンは呪縛の解かれたようにぎこちなく歩き出した。アスカの隣に寄り添い、手を取ると、ユウヤは黙って窓の下に膝をついた。差し出された両手は窓枠に上る為の一歩、誰も治めることのない地への一歩だった。ジンは跪いたユウヤの肩にそっと手を触れ己の気持ちを示した。ユウヤはそれだけで十分だったので皇帝の顔を仰ぎ見ることはせず、面を伏せたまま彼への祝福をと祈った。
 窓枠に二人で立つ。雪の粉が凍ったままアスカの頬や睫毛の上に降った。ジンは指の背でそっとヴェールを留めるブローチから、流れる曲線に触れた。
「綺麗だ」
 アスカは返事をしなかった。つんと前を見ていたが、深い海のような瞳は街灯に照らし出される粉雪をきらきらと映し出していた。
「では、ゆこう」
 音の無い一歩を踏み出す。

          *

 以来ユウヤは川や海での溺死事故には目をこらし、そこに知った名のないことにホッとする。ジンとアスカはもう三年行方不明だが、人生はまだまだ長いので世界を旅する間にどこかで出会えるのではないかと思っている。





トリトーンの勇気


 暗い水底に馴染むように彼女はいて、どうしてだろう地上の生き物なのに嘘のように…物語のように…夢のように存在しているのだった。古い古い石畳の上、彫られた石像であるかのようだった。ああ、だとすれば納得がいく。きっと彼女は石にされてしまったのだろう。……何の咎で、一体何の為に。
 アスカ、と彼女の名を呼ぶと一瞬瞳がこちらを見て、しかし水面を見上げる瞳も深い海の色と同じ青だったのだ。青の中から青が見上げる。瑠璃のような瞳が紺碧の底からじっとこちらを見ている。視線は懐かしく肌に馴染んだもので、その一瞬だけ彼女の姿はふわりと浮き上がったかのようだった。野に咲く花のような、豊かに実った小麦のような、古来より人々が太陽の黄金を讃えあがめた色の髪、あたたかな血色の肌が、地上にいて自分と触れ合っていた時のように網膜に飛び込んできた。ほんの一瞬だけ、彼女は見慣れた彼女の姿に見えた。アスカ、と自分が呼んできたまさに彼女の姿だった。
 ほんの、一瞬。
 再びそれが海に呑まれ深い青の底に沈んだ時、ジンは取り返しのつかない運命を受け容れる時が来たのだと思った。それはすぐに飲み込めるものではなく、幼い頃の自分は涙と大声とそれから優しい老人の手や温かいミルクを必要とした。再び失う時は決意と勇気と仲間が。しかし、今のジンは一人でそれに耐えなければならなかった。これが再び出会う永遠の喪失かもしれないという痛み、息苦しさ。波が十重に二十重に彼女の姿を覆ってしまうごとに、この喉も重たい海の水で満たされて息ができなくなる。吐き出す呼気からさえ潮の香りがする。海を見つめ、海に呑まれる、彼女の瞳に。
 今や彼女の瞳に意志が宿っていたかも判じることができない。一瞬近づいたかと思った瞳は、光の屈折だろうか、彼女は水底で石像のように横たわっている。その瞳は確かに自分を見た…、そう言い切れない不安が潮風のように身体を包み込む。蝋のように白い肌とガラス球のような瞳が、いきいきとした記憶の中の彼女の姿を奪う。彼女は最初から海の底にいたかのようだ。永遠の昔から、永劫の未来まで、じっと、そこを動かず。自分の目に映ってきた彼女の姿はこの海の泡なのかもしれない。笑顔も、弾けるような笑い声も、トマトジュースが好きだったあれさえ泡沫の見せた夢なのだろうか。
 どうしたの、と声がする。水の中を伝わる優しい声。彼女でないことは分かっていた。彼女の声ではなかった。口元は閉ざされて、泡の一つも浮かび上がらなかった。肩に手が置かれ、声は耳元でジンに囁く。
 ――ほら、彼女を見て。
 見ている、ずっと見ているんだ。
 ――目がきらきら光っている。まるで海の底の星空みたいだ。
 またふわりと彼女の顔が近づいた。ジンはガラス球のようだとおもったその瞳をもう一度見つめた。すると瑠璃色の瞳の中に、確かに宇宙からすくい取って零したような光がちらちらと瞬くのが認められた。
 …君がそう言ったからそう見えるんだろうか。
 すると声はおかしそうに笑う。
 ――何故? 彼女はずっとそこにいて、君はずっと彼女を見つめているのに。
 石畳の上で眠る貝や海の生き物の姿がぼんやりと色づいて見えた。
 ――彼女がいる。彼女が瞳を開いた。だから海の底にも光が射す。
 しかし、遠い。
 ――君は自分の姿を忘れてしまったの?
 手が両肩を支え、声は言い聞かせるように囁いた。
 ――トリトーンは海の神、ポセイドンの息子。その名は世界を構成する第三のもの。君は海そのものじゃないか。
 ご覧よ、と声が優しく促し、ジンは示されたものを見る。白蝋のような手が掴むもの。
 ――トライデントもまたトリトーンの象徴だ。
 君のね、とあたたかく笑った声は遠ざかり肩を支えていた両手が離れる。しかしもうジンは足下を揺るがせることはなかった。
 そうか。
 運命の受容。決意と勇気。
 僕はあそこまで行けばいいんだ。
 音さえ圧するように海の波は身体を包み込んだ。身体から立ち上る泡がピアノの音を立てて水面へ昇る。ジンは真っ直ぐに水底を見つめる。
 僕は君のところまで泳いでいけばいい。 そうすればその肌が白蝋か、その瞳がガラス球なのかそれとも星々の光を湛えているのかこの目で確かめられる。彼女は石像なのか。永遠と永劫に眠るのか。それとも再び記憶の中の彼女のように笑うのか。
「アスカ」
 呼ぶ声は月光のように水底に降る。




2012.11