ユースフル










 世界的なLBXプレイヤー、とは言え彼らはまだ二十歳そこらな訳だし、全員がボストンに集合するというのは金と自由の折り合いが必要だった。
 が、彼らは世界的なLBXプレイヤーである訳で。
 賞金、などなど。年齢に相応しくないと言われるかもしれない金を、彼らは有効に使う。つまりは友情のためにという訳だ。
 三々五々、街中で順次集合し、最後にバーの扉を開けたのは古城アスカだった。
「おっそーい!」
 乾杯前なのに真っ赤な顔をしたランが叫ぶ。
「わりぃ、タケルと遊んでたら遅くなって」
「タケル君は?」
「今夜は病院。明日は検診も受けるから、そのまま泊めてもらう」
 ユウヤが席を空けながら尋ねるのに答えつつ、その瞳はテーブルの上を見渡す。
「なに? まだ飲んでないの?」
「アスカのこと待ってたんだよ」
 とバン。
「ごーめん」
「せっかく弟さんと来てたんだろ。それに遅刻じゃないし、謝ることないよ」
 喋っている間にも目の前にはバドワイザーのビンと実にアメリカらしいビッグサイズな料理が――きっと味も大味だ――並べられ、誰かの腹が鳴った。全員がいっせいにランを見た。
「なんでアタシなのよ!」
「違うんですかあ?」
「本当はヒロなんじゃないの? 顔赤い!」
「ランさんだって…!」
 うっかりバトルが始まりそうになるのをジェシカが止めて、バンにウィンクする。促されて、バンはバドワイザーを取り上げる。
「えっと、じゃあ乾杯」
 こら、と窘めたのはアミ。
「もう一言、何か言いなさいよ」
「そんなに堅苦しくしなくても…」
「では、再会に」
 隣からジンが助け船を出す。再会という熟語は何故かバンを照れさせたが、彼は咳払いを一つして、皆の視線の集まる中しっかりと言った。
「再会を祝して」
 それぞれのビンが掲げられる。
「乾杯」
 あとはめいめいの乾杯の声と、ビンのぶつかり合う音と、何故かもれる笑い声に崩れて、嬉しそうに拍手するユウヤに合わせて全員が手を叩いた。

 海を隔てていた者たちは堰を切ったように喋りながらも飲む手食べる手を休めない。口が疲れてだらだらとした会話になった時には思ってもみないほど酔いが進んでいた。アミは両脇にバンとカズを抱き寄せ涙ぐんでいる。宇崎悠介のことを話しているのだ。十三歳のあの頃、ゴールデントリオだった彼らの間には、時々相棒のヒロでさえ立ち入れない絆がある。
 当のヒロはと言うとアスカに掴まっているのだった。
「タケルはな……」
 この喋り出しでもう何回も同じ話が繰り返されている。
「アスカさん、飲み過ぎなんじゃないですか?」
「タケルのことほっといてオレがよっぱらうわけない!」
「いや十分酔ってますって…」
 助けを求めて振り返ると、ジンと目が合う。
「意外ね、アスカが一番に酔い潰れちゃうなんて」
 隣でジンと喋っていたジェシカが笑う。彼女はいつの間にかビールからワインに切り替わっている。
「私はランかと思ってたんだけど」
「ふっふーん、能ある虎は爪を隠すんだよ」
「なんだかごっちゃになってるけど…」
 実は隣で苦笑しているユウヤがあまりランには注がないようにしているのだ。
「ちょっと、アスカ寝ちゃったの?」
 テーブルの上につっぷしたアスカの後頭部をランがつつく。
「ねてない」
「酔ってるー?」
「よってないー」
「タケル君は病院なんだよね。アスカ君はどこに泊まるんだい?」
「ここでねるー」
「酔ってるねえ」
 誰が連れて帰る?とユウヤは周囲を見渡す。アミの両腕に抱えられたバンとカズが苦笑いをする。
「私がホテルの部屋を取ってるけど…」
 ジェシカが言うとランがジェシカの肩にしがみついた。
「僕がいつも使ってるホテルは女の子にはお勧めできないかな」
 視線が集まった先にいるのはジンだ。
「…男の部屋だぞ」
「みんな、君のことは信頼しているんだよ」
「僕の男としての評価が気になるな」
 溜息をつき、ジンはアスカの肩に手を掛けた。

 明かりを点けると無人の部屋が妙によそよそしく感じた。隣で小さなしゃっくりが聞こえる。アスカの身体がまた腕から滑り落ちそうになり、抱え直す。
「アスカ」
「ついた?」
「僕の部屋だ」
「ん」
 アスカはジンの腕から離れるとふらふらと歩きながら靴を脱いだ。
「アスカ」
 細い身体が不安定に揺れ、ソファの足下に倒れ込んだ。
「…言わんこっちゃない」
 何度目かの溜息がジンの口から漏れた。
 相変わらずスカートははかないようだが、何だか随分女性らしい格好だな、と剥き出しの白い肩に思った。
「アスカ、そこは僕の席だ」
「うっさいなぁ、ベッドで寝ろよ」
 酔いと眠気でうとうとしながら答える。
「風邪を引くぞ」
「眠い」
 ケンブリッジのこのアパートに来たのが、あの中でバンでもなくジェシカでもなく、ユウヤでもなかった。アスカをこの部屋に入れるのは二年ぶり…、いやもう三年ぶりになるかもしれない。シャワーを浴びろとは言いだし難くて、ジンはアスカの前にしゃがみこんだ。
 半分夢の中にいるらしいその顔は安心しきっている。緩んだ口元から涎が垂れそうになっているのを見て拭いてやろうかとも思ったが、でもジンは動かなかった。自分もまた酔いが回っていた。心地良さがあった。動きたくないな、という欲求に従い床に尻をつけてしまえば本当に動かなくなるだろうから、何とかしゃがみこむに留めている。
「アスカ」
 呼んでも返事がなかった。
 ジンは手を伸ばし、何気なく剥き出しの白い肩に触れた。指先で線を描くようになぞる。その仕草は彼の手に染みている。しかし今目の前にある肩は傷一つなく、滑らかで、そして小さく細かった。
 手を退こうとすると、アスカの瞼がぱちりと開いた。
「…なに?」
 穏やかな声音が尋ねた。ジンは返事をせず手を引いた。アスカは溶けるように笑い、ちょっと拗ねるように目を伏せた。
「シャワーを浴びた方がいい」
 ようやくジンは言うことができた。すると伏せられた視線がちらりと持ち上がる。平静を保ったまま見つめ返すと、ふっと溜息が聞こえた。
「いい」
 アスカはもぞもぞとソファの上によじ上りソファに顔を埋める。
「アスカ」
「ほんとに、ねむいし」
 今度は大きく溜息をつき、うー、や、むー、と声を漏らしたが、不意に一人でくすくす笑い出す。
「ずりぃの」
「………」
「赦してやんない。ここで寝る」
 そう宣言し、脱力した身体をソファに沈み込ませる。白い肩に顔を近づけると、酔いの匂いがした。自分からも同じような匂いがしているだろうか。 シーツを取ってきて剥き出しの肩を隠すようにかけた。その手をアスカは掴んだ。ジンは手を掴まれたままじっとしていたが、何も言われなかった。アスカの呼吸はだんだん眠りの中に落ちていった。揺すっても起きないほど寝てしまったと思うまでジンはそのまま動かなかった。
 アスカがもたれかかっていた自分の席があった。もちろん寝室のベッドも今朝整えたまま、もし誰かが泊まるならと準備されたままだった。ジンは枕だけを取ってくると、アスカの足下、絨毯の上に横になった。
「おやすみ、アスカ」
 勿論返事はなく、穏やかな寝息だけがそれに応えた。ジンは少し笑って目を閉じた。

 肌寒い夢を見た。目覚めたのは朝には早い時間で、絨毯の上とはいえ、肩が凍えていた。ソファの上のアスカは猫のように身体を丸めていた。多分自分も意地を張らずにベッドへ行くべきだろう。
 抱えていけないことはないと思う。十七の時でさえ抱えられた。
 ので、そうすることにした。
 抱え上げるとアスカは子どものようにぐずって、ばか、と言った。そう言われるのに相応しい気もしたのでジンは腹も立てず、そのままアスカをベッドに運んだ。シーツにくるまると眠気はぬくもりのように再来した。アスカがわずかな仕草で身体を寄せた。肩に触れると、シーツの下でもそれが冷たいのが分かった。背中から軽く抱くようにして眠った。

 次に目覚めた時は朝で、夜明け前のぼんやりとした明るさの中、ああ昨夜はカーテンを閉めていないと気づく。それでもまだ眠い目に光景が優しいのは、既に目覚めて半身を起こしたアスカの影になっているからだ。
 彼女は膝を抱え、自分を見下ろしていた。ジンは二度、三度と瞬きをした。
「おっはよ」
「…おはよう」
 眠そうな声で返す。アスカの手が伸びて無造作に顔に触れた。
「シャワー」
「ああ…」
 何故か拗ねたような顔をしながら、アスカはくくっと短く笑った。
 シャワーの音を遠くに聞きながら、ジンはベッドの上でぼんやりする。しなかったことを惜しいと思うほど俗な性格ではなかったが、しかし久しぶりの経験とシーツの間に残ったぬくもりを彼は惜しいと思った。
 起きて、朝食の用意をすることにした。あの頃の仲間が全員――ということはアスカも来る、ということが念頭にあって以来、冷蔵庫にはトマトジュースが常備されていた。朝食は何がいいだろうか。パンにトマトを挟んだ方がいいだろうか。扉を開けた冷蔵庫の前で悩んでいる内に「ジン!」と大きな声で呼ばれる。
「バスタオル!」
「あまり大きな声を…」
 注意しながら下着や着替えに頭が回った。ジンはUターンしクローゼットの中のシャツを一着手に取った。
 バスルームの扉からはアスカが顔を覗かせて待っていた。
「遅い」
 と言うのにタオルを渡し、着替えを、とシャツを置くとまたちょっと拗ねたような表情が掠めた。
 ガラス戸の隙間からはもうもうと湯気が出ていた。あたたかそうなシャワーの音は狭い脱衣場にも溢れ満ちていた。頬に手を寄せてキスをすると、濡れた両腕が首を抱いた。
「これはいいんだ」
 アスカが囁いた。ジンはやはり返事をしなかったが、軽く目を伏せた。
「ジン」
 アスカの、湯に濡れたあたたかい手が両頬を包み込む。そっと押し当てられ、そして慈しむようなキスをされ、ジンは目を閉じた。
 くすくすと笑いながらアスカはガラス戸を閉めた。ジンは濡れた頬や唇が朝の冷たい空気に晒されても、そこに滴る水滴を拭うことはせず、キッチンに戻った。トマトジュースと、それから。
 また冷蔵庫の前で悩んでいると、いつの間にかアスカが後ろから覗き込んでいた。
 カリカリに焼いたベーコンと、それから新鮮な野菜。パンはふかふかの。
 それから。
「おかわり」
 空っぽになったコップに、ジンはトマトジュースを注ぐ。



2012.11