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あたたかな台所
食堂で騒ぐ声が聞こえるから、おそらくアスカがまた何かしているのだろう。聞こえてくる笑い声に、ユウヤもつられるように笑みをこぼしながら水にさらした野菜を取り上げた。 冷えた指先が赤く染まる。流石にキッチンの水は出るが、ダックシャトルを短時間で改造する為には多大なエネルギーを必要とする。NICS本部は作業の行われている区画以外全域的に節電節水が敷かれていた。と言っても企業の日常的なそれではない。正確には停電と断水である。 キッチンでは水とヒーターは生きてはいるが、湯は出ないし、空調も切れている。食事を用意するユウヤも指先だけでなく、足下から這い上がるような寒さを感じていた。食堂も、窓からの光はあるものの直接日が射す訳ではなく、相当寒いはずだった。 ――それでも騒いでいるのか、だから騒いでいるのか…。 仲間に入って分かったことは、アスカはマイペースなように見えて大人数を自分を基点にまとめてしまうムードメーカーだということだ。勿論、リーダーシップの上で皆が一目置いているのはバンだ。あのジンでさえ、バンを支えこそすれ出しゃばることはない。 ――皇帝、は…。 ユウヤはこの一年間で読んだ小説を思い出す。人を知るには歴史にこそ学べと、世界の歴史に関する本をたくさん読んだ。勉強だけでなく読書する楽しみを、とセラピストから勧められたのは三国志だった。 国境線犇めき合うヨーロッパに、広大な大陸にと、世界には多くの皇帝が存在してきた。まだ記憶を整理することができず、世界の把握が曖昧だった頃、ユウヤはジンもその皇帝の一人だと思い込んだことを覚えている。確かにジンはユウヤにとって命の恩人であり、不安定だったユウヤにとって――それまで孤独で人間扱いされなかったユウヤにとって――唯一、あたたかな体温をもって接してくれた人間、特別な人間だったのだ。今でもその思いは変わらないが、 ――あの頃は、ジン君だけが人間に見えた。 蛇口から溢れる水が冷たくても、ユウヤにとってそれは辛くない。肉体的な信号に対し、ユウヤは自分をある程度制御することができる。それがCCMスーツの被検者として得た能力であり、人間的な意味で失った感性だ。 寒い中での料理も平気。冷たい水も、ちょっと火傷しても平気。この包丁でうっかり指先を切ってしまっても、多分眉一つ動かさない。しかし。 ユウヤは微笑む。 耳から入ってくる笑い声だけでユウヤの表情はこんなにも変わる。 ドアのスライドする音がした。 「うっわ暗い、っていうか寒!」 アスカの声と共に、背中にどーんとぶつかってくる衝撃。ユウヤは振り返ろうとして、瞬時に危険を判断し包丁を置いた。思わず刃を掴もうとした、掌の薄く裂かれたのを感じた。 「さみー!」 アスカは後ろから抱きついたまま頬をすり寄せ、離れない。ユウヤは微笑みながら背後を見下ろす。 「ここの方が寒いよ」 「だからこーしてんの」 「アスカ…」 呆れたような声がする。入口に、事実呆れ顔をしたジンが立っている。 「料理中に抱きついたら危ないと言っただろう。大丈夫か、ユウヤ」 「うん」 血は薄く滲んだが、痛みは大したレベルではない。LBXバトルの方がもっと痛い目に遭った。この程度は血を見さえしなければ掠った程度にしか感じなかったろう。 「寒い寒いと言って抱きつくんだ」 何人もが被害に…、とジンはアスカを引き剥がそうとする。 「だーって抱きついてる方があったかいじゃん」 「時と場所と場合を考えるんだ」 「TPOって言った方が早くね?」 「………」 「構わないよ、ジン君」 ユウヤは手を拭うと、振り返って怪我をしていない方の手でアスカの頬に触った。 「冷た! 何すんだよ!」 「アスカ君はあたたかいよ」 すると、しょーがねーなー、と言いながら仕方なさそうにユウヤの手を頬と手で挟む。 「今日はロールキャベツだよ。たっぷりのトマトで煮込むからもう少し待っててくれないかな」 「ユウヤってトマト好きな」 「………」 「さあ、そろそろ離れるんだ」 ジンが自分の上着を脱ぎ、アスカの肩にかけた。アスカはちらりと振り向き、そういうことじゃねーんだよ、という目を一瞬見せたが、どんなポーズであれ寒いのは事実だ。有り難く上着を引っかけたまま食堂に戻る。ふはははは!というわざとらしい笑い声の後、ロールキャベツが欲しければヴァンパイアキャットを倒してみろ!と叫ぶ声で夕飯のメニューをバラしていた。バトルに負けたらお前の上着をいただくぜ! 「…追い剥ぎだな」 「ジン君は自分から脱いだじゃない」 ふ、と肩をすくめたジンはまだ食堂に戻らずユウヤの隣に留まっていた。スライディングドアが閉まり、キッチンは静かになる。 「確かに寒いな」 ジンが呟いた。 「ジン君も向こうで待っていて」 「君は…」 「僕、寒いのとか、結構平気なんだ」 「痛みも?」 手を取られる。ジンには分かっていたのだ。もしかしたらアスカも分かっていたのかもしれなかった。ユウヤが望んで平気そうな顔をしていたから、気づかず無神経なふりをしていたのかもしれない。しかし掌には赤い血で薄く描かれた一筋の線。 「痛くはないよ」 ユウヤは囁いた。 「痛いとは思っていない」 「何か…」 「料理中だからね」 抽斗を探して薄手のビニール手袋を見つける。 「これで平気」 「ユウヤ」 しかしジンはその手を離さなかった。 「僕には嘘を吐かないでほしい」 「うん…」 静かに頷く。 「痛いと思ってないのは嘘じゃない。痛くないっていうのは少し、嘘かもしれない」 信じるように、ジンの手が離れた。ユウヤは手袋を付ける。 「寒くは?」 「それは平気なんだ」 そうだ、とユウヤは自分の上着を脱ぎ、遠慮しようしたジンより一秒速く、その肩にふわりと羽織らせた。 「心配しないで、待ってて。煮込むだけになったら、タイマーをかけて僕もそっちに行くよ。オシクラマンジュウって言うの? 僕もしてみたいんだ」 「それはしない」 二人は顔を見合わせて笑いあう。 ドアの前でジンは立ち止まった。 「ここのセンサーを切ってもいいか?」 「…うん」 開きっぱなしになったドアの向こうから、君も早く来るといい、そんな目で微笑まれる。ユウヤは頷き、自分の上着を羽織ったジンの背中を見送ってからシンクに向き直った。 寒くない。それは本当だった。寒さに強いのも本当だった。しかしそういう意味ではなかったのだ。腰に抱きついたぬくもりが、手を掴んだぬくもりが、ユウヤの身体から寒さを追い払ってしまった。身体は本当にあたたかかった。 早く煮込むのが楽しみで、トマトを切る指先が赤くなっているのさえ、ユウヤは微笑んで見下ろした。
2012.11.3
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