エモーショナル・クラウド










 急な静けさと目の明くような光景に何しようと思った訳でもない、が。
 灰原ユウヤの背は見えない大きな掌に押されでもしたかのように、二、三歩と前へ歩み出た。薄暗いバックヤードの、冷えた匂いを漂わせた発泡スチロールの箱が背よりも高く積み上げられた間から見上げた空だった。配送のトラックが出て行った後で、ぽっかりと大きく口を開けた搬入口からは、まじまじと見ることのない外の市場裏の景色が見えた。
 朝は爽やかな晴れ空が広がっていたが、昼になる間に雲が出て薄い灰色が空一面を覆っていた。明確な黒でも白でもないグラデーションのような灰色に彩られた景色は静かで、予兆も何もない、意味を含んでさえ見えない、ただただ存在するばかりだ。ユウヤの目には無音と静かな景色が透明な空虚となって飛び込んできたかのように感じた。それは心からあらゆる雑念を拭い去って、空っぽになった心が、何をしようというでもない、しかし衝動に捕らわれる。
 前へ一歩出た時、自由だと思った。二歩目でどこにでも行けると思い、三歩目でどこに行っても自由なのならここにいても変わらないんだ、と足が止まった。
 しかし踏み出した三歩分の衝動はユウヤの心に爽やかな風を通した。それは今朝の晴れ空以上に彼の心を軽くし目を明かした。ユウヤは今度は意志でもって搬入口の外へ踏み出した。曇り空の下の景色はぼんやりしている分濃い影もなく、晴れの日よりもいっそ明るく見えた。空を仰ぐが、雲があるのに高さが分からない。ぼんやりと奇妙に明るい。
「ユーヤ」
 と、背後から呼ばれた。魚の柄がついたエプロンをかけている大柄な白人の男が立っていた。
「昼飯は食ったか?」
「今」
「じゃあマックと交代してやってくれ」
 野太い声は威圧的に響くが、男は笑っている。
「OK、ボス」
 ユウヤが返事をすると男は片手をあげてまた表に戻ってゆく。その後を追いかけるようにユウヤも搬入口から再び冷えくさい匂いのするバックヤードへ入った。ちらりと振り向くと自由を感じさせる灰色の景色はまるで動かないもののようにそこにあった。
 ――これからお昼時で忙しくなるけど、僕の静かな心はここにあるんだな。
 とユウヤは思った。それだけで満足だったので、もう未練はなく表へ通じる観音開きのドアを開けた。
 身体を包み込む賑わい、人の声、そして海の匂い…魚の匂いだ。
 A国太平洋岸北西部、複雑に入り組んだ湾に広がる大都市、シアトル。曇り空の午後、冷たい海を渡って雨の多い冬がやってきたところだった。
 シアトルの魚市場はアメリカで最も古く、昔ながらの市場は今日も人で溢れている。平日だというのに、賑わいは大層なものだった。観光客だけでなく、近くのビルで働くビジネスマンも昼休みを利用して訪れる。何も魚を買いに来ている訳ではない。市場の人間のパフォーマンスやおしゃべりを目当てに、だ。
「ユーヤ!」
 店へ出て早速ユウヤを大声で呼んだのは、当のマックだった。少し離れた陳列台から客の指差した魚を両手で抱え上げ、構える。
「マグロ! サンフランシスコまで!」
 掛け声とともに飛んできた魚をユウヤはゴム手袋をはめた手でキャッチする。
「マグロ! サンフランシスコまで!」
 復唱すると、わっという歓声と共に拍手と口笛。ユウヤはそれを氷の詰まった箱に詰める。
 客に伝票を書いてもらいレジを打つ間も、そこかしこからそういう生きのいい声が聞こえた。
 サーモンお買い上げ!
 ロブスター! テキサスまで超特急!
「マック!」
 呼ぶと蟹が飛んできて、投げた本人も――こちらは比喩表現として――飛んでくる。
「ボスがお昼食べて来いって」
「サンキュ。じゃ、向こう頼むな」
 入れ替わりで持ち場につく。蟹は随分売れたようだが、貝類が残っていた。それらを目立つ位置に並べ替え、ユウヤも声を出す。
「夕飯のメニューは決まってますか? 今朝入ったばかりのムール貝ですよ。今日は貝の気分じゃない? じゃあこっちのサーモンを見ていって。ほら、つやつや光って綺麗でしょう?」
 近づいてきた客に話しかけ、買っていかなくても笑顔で手を振る。
「また遊びに来てくださいね。今日は貝の気分の人はいませんか? もちろん、蟹の気分もサーモンの気分も大歓迎…」
 ふと視線を感じる。この市場には皆パフォーマンスも目当てにやってくるから自分を見る視線というのは珍しくない。
 しかし。
 ――誰だろう。
 肌に刺さるその感覚は懐かしいものだった。ぱちぱちと火花のように弾ける、この感覚。
 これは、この手にCCMを、目の前のフィールドに分身たるLBXを投下した瞬間に感じる視線。
 懐かしい、久しく触れることのなかった視線。
 ――もしかして…。
 ユウヤは首を巡らせる。口では何か言っているが、視覚と繋がった脳の一部だけ異様に冷静で冷たく周囲を見渡した。
 あまりに強い視線だった。その主を見つけることはあっけないほど簡単で、誰なのかもすぐに分かった。
 茶色のくせ毛と、同じ色をした瞳。笑顔ではない。驚いている。しかしその目はしっかりとユウヤを見ている。
 ユウヤの目は精密で、離れた場所にいても彼の背が伸びたこと、それでも自分の方がまだ高いこと、A国に着いてまだ間もないことまで見て取った。
 二つの選択肢があった。しかしもう片方は選ぶ間でもなかった。ユウヤは冷たい視線も冷徹な脳の一部も全てを笑顔の回路に繋いだ。
「バン君!」
 名前を呼んで手を振ると、山野バンは一瞬戸惑い、しかしユウヤから投げられた笑顔の反射のように笑みを浮かべ手を振りかえす。
「ユウヤ!」
 近づいてきたバンを小魚のキスで出迎えて驚かせる。
「久しぶりだね。いつからこっちに? 大会で?」
「まだ来たばっかりなんだ。ここで乗り換えてテキサスに行かなきゃいけない」
「アングラテキサスに!」
「ヒロが出場するって言うから、オレも腕試しをしようと思ってさ」
「去年の世界チャンピオンでランキングも制してるのに…」
「どんどん新しい強いプレイヤーが出てきてるよ。ユウヤは…」
 世界の主力大会には必ず顔を見せているバンだ。そこにユウヤの姿がないことくらい知っている。
「テキサスには、すぐ?」
「いいや、ここでコアパーツを見て回ろうと思って。シアトルはそっち系のメーカーが多いだろ。だから……」
 だから、の続きが消えてしまったのでユウヤが言葉を継ぐ。
「ここ夕方前には売り切れちゃうんだ」
 バンの目はまた最初の視線を取り戻す。懐かしい、視線が肌の上でパチパチと爆ぜる。
 心地良くさえ、ある。
 ユウヤは微笑みを向けた。
「バン君に時間があるなら」
「ああ、少しゆっくりするつもりでいるんだ」
「じゃあここより南に公園があるんだ。海沿いの…美術館の隣だから分かると思うよ、そこで待ち合わせをしよう」
「何時に終わりそう?」
「ゆっくり買い物してくれて大丈夫だよ」
 ついでに買っていかない?と蟹を持つと、ジンなら喜んだだろうなあ、と言ってバンは手を振った。
「そうだね」
 ユウヤは独り言を呟き、バンの背中を見送った。遥か東海岸に住むジンを今日何度目かに思い出した。さっき昼ご飯を食べながら思い出した彼を、また。
「バン君、か」
 会いたくなかった訳ではない。ただたくさん人のいる中から彼に会うのは不思議だと、見上げた静かな灰色の空に思った。地上は賑やかにざわめいている。

 夕方四時を過ぎて、ユウヤは急ぎ足に海沿いの公園へ向かった。日払いの給料が胸の中であたたかかった。
 久しぶりに友達に会ったから、一緒に夕飯を食べる。
 ごく普通のことを考えられる、と思う。市場の仲間とだって、時々は夕飯を一緒にする。彼らがビールで乾杯するところを十七歳のユウヤは一人だけジュースだが、よく笑う男たちはそれなりに可愛がってくれていた。
「食べて、飲んで、それから…」
 ――何を話そう。
 海沿いの道路から入ると公園は丘の上にあって、ユウヤは公園に至る坂を上る。灰色の空は少し低くなったようだった。風が冷たい。そして少し乾いている。
 ユウヤは顔を上げる。静かな心を預けていた場所へ向かうように、上を見つめながら歩いた。
 丘の上は展望台になっていて、背後にはピュージェット湾、街へ目を向ければ旅行のパンフレットで見るような、スペースニードルを中心としたシアトルの景色をパノラマで見ることができた。平日のこの天候で人は多くないが、ぽつぽつと屋台が出ている。
 更に上の展望台へ上る階段があり、ユウヤはそれを半ばまで上った。すると公園全体を見ることができた。バンらしき姿、誰かを待ったり探したりするような姿は見えない。ユウヤは頬杖をついて、その景色を見下ろす。夕方になり、地上も空と同じくぼんやりとした灰色で彩色されていた。柔らかな灰色のグラデーションの世界。
 ――ゆっくり買い物をして…、君は僕のことを忘れてもいい。
 ユウヤは思う。
 ――でも、君は来るんだろうね、バン君。
 ふと風が静かになる。海が凪ぐ。空気が芯から冷え始める。頬が渇いてゆくのをユウヤは感じる。
 それが触れたのは視界の端か、それとも直接この頬触れたのだろうか。
 冷たく白い雪の切片が。
 ユウヤは目の前に掌を差し出し、空を見上げた。この世界が三次元であることを知らせるかのように、灰色の空からちらちらと白い雪が落ちてくる。それは急に数を増し、穏やかなグラデーションだった世界を白のモザイク模様にする。本物の世界の奥行を知るように、ユウヤは空に向かって手を伸ばした。
「ユウヤ」
 名前を呼ばれ、手を空に向かって伸ばしたまま、軽く顎を引く。階段の下にバンが立っている。
「ごめん、待たせて。寒かったろ」
「ううん」
 ユウヤは首を振り、微笑を浮かべる。そして来ていたダッフルコートを軽く揺らしてみせた。
「ちょっと待ってて」
 そう言うとバンはUターンし、店じまいをしようとしている屋台に向かった。
 バンが手にしているのはコーヒーのカップだった。あたたかな湯気が乾いた頬を撫でた。
「ありがとう」
 ユウヤが受け取ると、バンも隣に座った。足下には懐かしい、いつものバッグ。
「買い物は?」
「うん、ごめん、夢中になっちゃって」
「気にしないで、僕もついさっき来たばかりだし」
 コーヒーの味は屋台それ相応で、むしろその熱さこそ評価できた。二人はしばらく黙ってコーヒーをすすっていた。舌が慣れてきたのか、バンはそれをぐいと飲み干す。ユウヤはまだ一口一口飲んでいる。ブラックだ。出会った頃からバンはブラックしか飲まなかった。ユウヤは覚えている。
 山野バン。LBXの開発者を父に持ち、十三歳から十七歳の今日まで三度世界チャンピオンの座に輝いている世界的プレイヤー。しかしその強さは秒殺の皇帝と呼ばれる海道ジンのそれとはまた一味違う。LBXの一挙手一投足からは、それを動かすバンのLBXへの溢れんばかりの愛情が感じられる。勿論、どのプレイヤーもLBXへの愛は誰にも負けないと自負しているだろうが…。
 ――バン君の手。
 何度も世界を救ってきた手。ユウヤは何度もそれを考えたことがあった。十四歳で再会し、バンの話を詳しく聞いてからずっと。
 LBXは夢と希望を与えてくれる。それがバンの口癖で信念だ。彼らの肩にはティーンエイジで負うには重すぎる荷が課せられていた。しかしバンが悪意に、憎悪に、強大な悲しみに立ち向かうことができたのは、その信念があったから、なのだろう。LBXは父と彼を繋ぐ絆、そしてバトルを通して繋がる絆の証だった。バンは世界のために戦ったが、きっとそれだけではなく、
 ――バン君の目には見えていたんだ。
 きっと目に見える誰かを守るため戦っていたのだ。父を、母を、親友のアミ、カズ、それにジン。もっとたくさんの人がいるだろう。その一人一人の顔がバンには見えていたのだろう。
 誰かのために戦う、という意味ではユウヤはただひたすらジンのために戦っていたが、彼を守れるか、誰かを救うことができるのか。
 やっぱり自分は穴だらけで空っぽとまではいかなくても隙間が多く、バンのことを考えると人間が人間として生きることについていつも深く深く思わされるのだった。
 ユウヤは隣の横顔を見た。視線に気づいたバンはすぐに振り向いた。コーヒーと同じ色の瞳。真っ直ぐな瞳だ。いつも一直線に心まで届く。
「…元気そうだ」
 バンの一言にユウヤは頷いた。
「うん」
「こんな所で会うとは思わなかった。シアトルに来たのもたまたまなんだ、いいコアパーツを作る会社があるってジンから聞いて……」
 ジンは知ってたのか、と低く呟く。
「知らないよ」
 首を横に振り、ユウヤは返事をするためにコーヒーで唇を湿した。
「誰も知らない」
「いつからここにいるんだ?」
「日本を出て真っ直ぐA国に飛んだから、もうすぐ半年かな」
「ランのおじいさんはユウヤは旅行中だって言ったけど、ランがみんなに言うもんだからさ、ユウヤが家出したって」
 確かに半年前、ユウヤは突然トキオシティの、世話になっている花咲の道場から消えた。予兆は何もなかった。ただある朝思い立って家を出た、そのまま飛行機に乗った、辿り着いたのはシアトルだった。
「そうだね」
 コーヒーを飲み干し、ユウヤは溜息をついた。
「家出、だね」
「家出なのか」
「バン君は違うと思う?」
「オレは…」
 バンは空っぽのカップに視線を落とすと、また前を見つめた。
「ユウヤはどこにでも、好きな所に行っていいんだと思った」
 雪は音も無く降り続き、公園の芝は白く覆われ始めていた。屋台は片付けるのをもう少しだけ後にするらしい。ぬくもりを求めて人々が列を作っていた。
「それに何をしたっていいんだ、好きなことを、何でも」
 バンは言って、立ち上がった。
「行こうか」
 手を差し伸べられる。
「…どこまで?」
「取り敢えず晩飯食べたいし…、このままじゃ風邪引くよ」
 ユウヤはその手を取って立ち上がった。コーヒーのぬくもりが消えかけていた。
 立ち上がると、そのコート、とバンが言った。
「ぶかぶかじゃない?」
「うん。でもすぐに身体が大きくなるから大きめのを買えって言われてね」
「誰に」
「ラン君のおじいさん」
 このダッフルは二ヶ月前に買った。どの店が安いとか、どういうコートがいいとか魚市場の人々は色々と口を出したが、結局思い出したのは花咲道場の大門の言葉だ。
「僕は…」
 階段を下りようとしていたバンが足を止め、振り返った。
「僕はね」
 ユウヤは数段下のバンの瞳を見つめる。
「生かされていると思っていた。誰かの助けなしに生きることができない。本当にこのままでいいんだろうか、と思うと急にその場にいられなくなって、道場を飛び出していたんだ」
 バンは真面目にユウヤの視線を受けとめ、今は?と尋ねた。
「生かされていると思っている」
 これもまた真面目な答えだった。ユウヤは階段を下り、バンの隣に並ぶ。
「仕事をしている。お給料は毎日日払いだよ。お客さんが魚を買ってくれて、ボスが経営してくれるから、僕はそのお金をもらっている。よく夕飯を食べる食堂がある。家はないけど、チャイナタウンの側の安いホテルにもうずっと部屋を借りてるんだ。支配人は優しくしてくれる。僕以外にもお金がなくて日雇いの仕事をしながら部屋を借りている人がいるよ。そんな人とも仲良くなった。それだけじゃない。魚市場に来るお客さんの中にも、僕の顔を覚えてくれている人がいるんだ」
 急に涙がふわりと目の縁まで盛り上がった。ユウヤは息を吐いた。それは白く柔らかな形を成した。
「僕は僕のことを誰も知らない場所に来た。それなのに一人じゃない。どこまでいっても一人じゃない。僕は……」
 バンを見ると、バンが優しい顔をして頷いた。
「生かされていることを知ったんだ。誰かの助けなしに生きることはできない…」
「でも誰もそれが悪いことだなんて言わなかっただろう」
 うん、とかすかな声でユウヤは頷いた。
「ユウヤを一人にしない誰かの中にオレも入れてよ」
 バンは笑い、ユウヤが返事をする前にくしゃみをした。
「寒っ…」
「大丈夫?」
「早くどこかあったかいもの食べに行こう。おでん…とかはないか、さすがに」
「あるよ」
「えっ?」
「チャイナタウンに日本食のお店があるんだ。多分、あったよ、おでん」
「本当に!」
 じゃあそこ行こうと踏み出したバンは、雪が積んで滑りやすくなった階段で案の定足を滑らせる。今度はユウヤが手を伸ばし、腕を掴んで身体を支えた。
「へへ…、オレも生かされてるんだ」
 ユウヤを見上げ、バンは笑った。

 おでんで身体をあたためると、チャイナタウンのすぐ側なら、とバンはユウヤのホテルまでついてきた。
「部屋が空いてるならそこに泊まろうかな」
「古いし…正直言って安宿だよ」
「大丈夫さ。オレも一人旅は初めてじゃないんだ」
 年老いたフロントマンはユウヤが東洋人の、しかも同年代の少年を連れてきたのを見て優しげに笑った。
「友達かい」
「…はい」
 そこで、はい、と答えられることにこそばゆくなるような照れを感じながらユウヤは返事をする。
 生憎空き室はないが、とフロントマンは帳簿の画面をどかした。
「ユーヤの友達ならマケとくよ」
「……?」
「相部屋でもいいだろう」
 いつものように部屋の鍵を開ける。特にものを散らかすようなたちではない。部屋は整然としたものだったが、それでもユウヤは少し照れた。
「窓の外、真っ暗だ…」
「すぐ隣のビルの壁なんだ」
「気分が暗くならない?」
「日が照っている間は大体外にいるからね。朝も早いし」
 ユウヤはダッフルを壁の釘に掛け、手を伸ばした。バンも脱いだ上着を渡す。
 あ、と声を上げてバンが窓に近づいた。
「でも、ほら、降ってくるよ」
 ユウヤも窓に寄ると、真っ暗な中にちらりちらりと雪が落ちてくるのが見えた。窓の外を通過する際、部屋の明かりに照らされてそれは光るように見えた。
「シャワー浴びる? バン君」
「いい?」
「うん、お湯が出ればいいけど…」
 しかし出てくるのはぬるい湯だけだった。シアトルは滅多に降らない分、雪に弱い。ちょっと積もってもバスが止まってしまう程だ。古いホテルだから、この寒さがボイラーに影響したのかもしれない。顔だけ洗おう、と交代で洗面台を使った。
 ベッドは一つしかなかった。アメリカサイズだ、普通体型のティーンエイジャー二人分は落とすこともないだろう。
「…いいの?」
 ユウヤは尋ねる。
「うん」
 バンの返事は素直で、じゃあ、いいや、とユウヤも思った。
 同じベッドに並んで潜り込む。
 暗闇は静かで、いつもなら壁の薄い隣や上の階の物音が気になるのに、この夜はしんとしていた。雪が降っているせいだろうか。皆も早く寝てしまったのだろうか。
 ユウヤ、と隣で声がした。
「…ユウヤは結局、学校行かなかったんだっけ」
「うん。勉強はさせてもらったし、もしも大学で専門的なことを学びたいなら応援するって、ラン君のおじいさんも言ってくれてる」
「ユウヤはいつもランのおじいさんって呼ぶけど、道場でもそういう風に呼んでるの?」
「ううん、師範って」
「ヒロが師匠で、ランのおじいさんが師範か」
 バンが少し笑う。
「ユウヤ、こんな風に喋ったことってある?」
「こんなって?」
「電気を消して、寝る前にいつまでもお喋りするんだ」
「ない…かな」
「修学旅行の夜ってこんな感じだよ」
「布団も一緒なの?」
「別々だけど隣同士。カズともこんな風にいつまでも喋ったことがある」
 不意に黙り込みバンはまた、ユウヤ、と小声で呼んだ。
「オレ、ここにユウヤがいること、喋るよ」
「うん」
「ジンにも」
「うん」
「ヒロにも、ランにも、ランのおじいさんにも、みんなに」
「…いいよ」
 天井の暗闇から柔らかな瞼の闇に包まれて、ユウヤは返事をした。
「ありがとう、バン君」
「ユウヤが元気でよかった」
 本当に、よかった、と溜息をつくようにバンは付け加えた。
 窓の外ではちらちらと雪が降り続いている。二人は寒いな、寒いねと言いながら少しずつ身体を近寄らせ、おかしそうに笑った。十七歳の友達同士が一つのベッドに寝ているのはやはりおかしい気がした。それは面白いという意味だったから、二人は笑って、このおかしな状況を楽しむことにした。笑って、小声でぽつぽつと話して、話題が途切れると相手が眠ってしまったのかと呼びかける、すると起きてる。だから、また笑う。
 いつの間に眠ったのか覚えていない。
 夢の中でか、それとも口に出したのだろうか、ユウヤは言った。僕は今度バン君に会いに行こうかな。休みが取れたらアングラテキサスの応援に行ってもいいよ。ちょっとはお金を貯めたし、ヒッチハイクしながら行ってもいいかもしれない。僕、ヒッチハイクはまだしたことがないんだ。バン君、僕は学校にも行っていないし、この世界のことをまだまだ知らない。君はいいなあ、バン君は凄いなあ。
 すると夢の中でか、それとも本当に話しかけられたのか、バンが答える。
「ユウヤも凄いよ」
「どこが?」
「全部」
 働いてるユウヤ、格好良かったぜ、と言われバンに褒められたのは初めてだと思った。ユウヤは――何事も忘れるということはあまりないのだけど――このことは忘れずに一生覚えていようと思った。

 アングラテキサスの応援に行くことはできなかったが、Lマガの記事に載ったバンを、ユウヤは魚市場の面々に自慢した。
「バン君は僕の十四歳の時からの友達なんです」



2012.10.29 京様のリクエストです。