ダーク・イズ・コーリング










 テレビから流れる音にしては割れていて古いようで、そのざらついた音色に拓也の意識は浮上する。自分の部屋の匂いではなかった。掌に触れるのはシーツではなく、汗ばんだ肌に吸いつくような革だった。暑い。何もかもが感じたことのないもので、身体がびくりと震える。自分がどこにいるのか、時間も場所も頭からすっぽりと抜けた。
 子どものように虚ろな恐怖に身体を揺さぶられ、拓也はしばらくソファにしがみついたままじっとしていた。頭の下にはクッションがあって、そこから自分以外の人間の匂いをかいだ。
 ――檜山。
 匂いは記憶に直結し、目が覚める。今度こそ本物の目覚めだった。目を開いていながら、ようやく精神の目覚めが肉体に追いついたのだ。拓也は脱力し、部屋に充満する男の気配に包まれた。クッションからも、ソファからも、暑く濁った空気からも、そして自分の視界を遮るように広がっている背中も。
 その肌の浅黒さは些かに後天的なものが含まれていた。日に焼けた背中。しかしサロンやリゾートで焼いたのでないのは明らかだ。それは肉体に染みこんでいる。 広い背中が汗をかいている。遮られた向こうではテレビががさついた歌声を流していて、今になってようやく二十世紀のバンドじゃないか、と思った。
 背中に触れようとすると、それより先に檜山は振り向き、起きたのか、と面白くなさそうに言った。
 ――そんな顔をしなくてもいい。
 思わずムッとしたのが顔に出て、その瞬間には負けている。檜山はにやりと笑い、手を伸ばす。とっくに乱れた髪を更にがしゃがしゃとかき回され鷲掴みにされると、痛みと、眠る前の記憶に抵抗する気持ちが湧いたが、キスには抗えない。
 唇を噛まれる。同じようにずきずきと痛む箇所は身体中にあった。カニバリズム、まさか…、と恐怖さえした。そういうセックスをする男、かもしれないと。一度疑えばすんなりと納得できる。いつもはサングラスで隠した檜山の目の奥に消えない底暗さはもしやという異常も本物のように見せてしまう。
 ――必要以上に噛みすぎだ。
 食べはしないにしても、噛むのはもしかしたら好きなのかもしれないが。
 ――それにしたって。
 明日、自分の身体は青あざだらけになっているのではないだろうか。
「檜山…」
 うめくと、またしつこく顎の下や首筋を噛もうとしていた男は不機嫌そうに鼻を鳴らし耳元で、何だ、と囁いた。
「痛い」
「そうだろうな」
「そうじゃない、檜山…」
 首筋に歯を立てられる。息が上がっている。水を探して乾いた大地を彷徨う獣のようだ。夕飯を食べる時に流れていたテレビだ。それを見た時も檜山は冷笑していた。
 なんとか相手の頭を抱き、キスをしようとすると、今度こそ目の前で嫌そうな顔をされる。
「…そんな顔をするな」
「したいのか?」
「だって…やっと、初めてなんだ、お前と」
 初めてなのに、と呟くと、仕方なくというふうに鼻の頭にキスをされる。
「…………」
「不満か?」
「普通に…」
「男同士だぞ、普通なんぞ最初からあるもんか…」
「でも、オレは…」
「黙れ」
 命令されぐっと喉を詰まらせると、ようやく唇に相手のそれが触れた。がさがさしていると思った。荒れている。しかし、人の唇だ。ちゃんとした人間の、体温のある。
 口を開けると舌も唾液も汗の匂いもいっしょくたに脳髄に流れ込んできて、そうだオレはこの男に抱かれたんだ、ようやく今夜望みが叶った、と思い腕に力が入った。押し広げられた脚の痛みも、熱とともに神経を焼いて、覚えたばかりの快楽ともつかないどろどろしたものと溶け合い癒着する。繋がる。熱い。とても痛い、同時にこれで一つだと、これが自分の望みだったと叫びたくなる。オレはとうとうこの男のものになった、檜山の手はもうオレだけのものだ!
 拓也は知らない。同じソファで石森里奈が抱かれたことなど夢にも思わない。科学誌の間に挟まったポルノ雑誌で特集された男優が自分に似ているなど知る由もない。ただただ、檜山が愛しくて、素直に笑うことさえできないこの男がとうとう自分を手に入れたことが嬉しくて、何もかも捧げようと思った。オレは絶対にお前を裏切らない、お前を捨てたりしない、そのためにキスがしたかったのだが…。
 頭上のテレビが二十世紀のバンドの歌を流している。ざらついた歌声の隙間で檜山が笑っている。檜山の顔は歪んでいる。自分を抱きしめて離さない拓也の腕に少し困惑している。しかし痛みと征服された喜びの中で恍惚としている拓也はそれに気づかない。腕に力を込め、暴力のような交接に自ら更に深くと誘う。檜山は笑う。乾いた喉で、引き攣るように。



2012.10.25