ブレイクショット










 肌寒い朝だった。霧雨がしっとりとブリントンの街を覆っていた。運転席のマングースが、すぐには飛べねえかもな、と独り言のように言った。バスの車内は静かで、かすかな疲労を滲ませた奇妙な静寂と気怠い落ち着きの中に沈んでいた。バンの隣ではヒロがうとうとしている。皆、少し眠い。
 本来ならばもう少し滞在する予定だったが、イギリスもまたディテクターの標的とされた今では余暇を楽しむ余裕はない。NICSは至急LBXプレイヤーたちの帰還を求めていた。そこには未成年者である彼らの身の安全という名目と、新たな機能を備えたLBXを一刻も早く自分たちの手の届く範囲に確保したいという思いもなくはない。とにかくディテクターには情報で遅れを取っている。合体するLBXは敵の目にも見られたということだ。対策は講じても講じても行き過ぎということがない。
 山野淳一郎は…バンの父はそれまでも急ピッチの作業でくたくただろうに、寝る間も惜しんで最終調整をしてくれた。エルシオンを手渡してくれた父親を見てバンは、きっと寝ていないんだろうな、と思った。
 A国に戻ったらまた特訓しなきゃ。エルシオンを握りしめ父を見上げると、大きな掌が頭を撫でた。
「今朝は寒いな…」
 天文台の入口まで見送る父が言った。薄っぺらな白衣が霧雨まじりの風に煽られて寒そうだ。バンはバスの中から何度も後ろを振り返った。父親の姿は白いぽつんとした点になって、いつまでもそこにいた。
 父さんはもう眠っただろうか。バスを運転するマングース、前の座席に座ったコブラはあくびを連発するものの眠る様子はない。多分父もまだ起きているのだろう、そう思う。バンは膝の上のバッグを抱き寄せる。肩にヒロの頭がもたれかかった。しかしヒロも自分のリュックをしっかりと抱いて離さなかった。バンはそれを見て少し嬉しくなる。
 行きは観光気分で走ったのが嘘のようなブリントンの街並み。しかし遠くに朝日は確かに昇っているらしい。霧雨は視界を覆うものの、どこかしら明るい。昨日の時計塔を過ぎる際、雲の隙間から一瞬朝日のようなものが覗いた。裂け目は白く輝くが、周辺の雲はふわりと明るい色に染まる。
「絵のようだ」
 後ろの座席から囁き声が聞こえた。ジンの静かな声。
 それに応えるのはユウヤ。
「絵?」
「モネの」
「僕は…見たことない」
「パリの美術館が所蔵しているはずだ。今度……一緒に見に行こう」
「うん」
 パリの美術館、モネの絵。
 バンは背後に遠ざかる時計塔を振り返る。モネの絵と言われても思い浮かばなかった。ロンドンの景色を書いたんだろうか。パリの美術館に飾られるような絵。どんな絵だろう。大通りを曲がれば時計塔も朝日の光を孕んだ薔薇色の雲も消える。
 マングースとは空港でお別れだった。また天文台に戻ると言う。バンは手を差し出し、言う。
「父さんによろしく。ちゃんと寝てねって言って。それにマングースも」
「戻ったらぐっすり寝させてもらう」
「無事に帰れたら、だがな」
 コブラが茶々を入れ、何だと!とマングースは振り返る。コブラは自分の背の高さを誇示するように腰を曲げてマングースの鼻先に自称色男の顔を近づける。
「居眠り運転なんかして博士に迷惑かけんなよ」
「お前こそ、ダックシャトルの運転を機械任せにした挙げ句北極に飛んでも知らねえからな!」
 ぷりぷりしながらバスに乗り込む背中に、ありがとう!と声をかけたがドアが閉まる前に届いただろうか。
 Uターンをしたバスの運転手は、バンたちの目の前を通り過ぎる際、ちょっと手を挙げた。バンも安心して手を振り返す。バスの姿は霧雨の中に隠れ、あっという間に見えなくなる。テールランプの赤い光だけがぼんやりと残って、不意に消えた。皆、ぞろぞろと空港の中へ歩き始めた。バンはその一番最後を歩きながら、自分の上着も父の白衣と同じように湿って冷たくなっているのを知った。

 マングースの予言通りダックシャトルはすぐには飛ばないらしく、それなら、とジェシカがラウンジに誘う。それぞれ、もう眠気に負けそうだったり、あまり顔には出さないが疲れているものもいるから、ゆっくり休める場は魅力的だったが。
「ネイルサロンやスパもあるのよ」
 その一言にランが目を輝かせ、バンたちは曖昧な顔で笑う。
「あら、あなたたちは来ないの?」
「時間になったら呼びに行く」
 どうぞ二人でごゆっくり、とでも言うような手でジンが促す。
 するとジェシカは
「あら、いいわ。CCMを鳴らして」
 とエスカレーター二本分上の階を指さした。入口にガードマン。ジェシカの手にはカード…おそらく支払い用ではない、パスなのだろう黒いカードが握られている。
「分かった」
 返事をするジンにジェシカが手を振り、じゃ、いってきまーす!とランがエスカレーターを駆け上ろうとして止められていた。
「行かなくてよかったのか? 相当いいところだぞ」
 大人の威厳か、十代の少女に甘えさせてもらう訳にはいかないコブラが、しかし羨ましそうに上の階を見上げる。
「ビュッフェもあるし」
「そんなに羨ましいんなら行けばよかったのに、コブラ」
「大人には仕事があるの」
 お前たちにばっかり活躍させたんじゃ大人のメンツが廃るぜ、と言いながら指を二本チャッと振ってみせる。
 ダックシャトルが離陸するためにどんな手続きが必要なのか、それに常にパスポートを携帯している訳ではない自分たちが国境を軽々と越えるためには何をしなければならないのか、バンは知らない。ふざけて見えて、コブラにも仕事があるのだと思う。
 ベンチに腰掛けると、早々にヒロがテーブルに伏した。ユウヤが立ち上がり、何か軽いものを買ってくるよ、と言っても顔を上げない。
「…ヒロ君?」
 ユウヤが顔を覗き込むと、既に瞼は閉じて半開きの口からすうすうと息が漏れる。
「……寝てる」
 小声で言われるので、本当?とバンも小声で尋ねる。ユウヤが頷く。
「でも、一応ヒロ君の分も買ってこようか」
 スターバックスの看板に向かってユウヤが歩いていく。その背中を見ながら、そう言えばユウヤはよくこうやってちょっとした買い物をしてきてくれるけど財布を見たことがないな、と思う。カードとか? よく分からない。
「疲れているんだろうな」
 ジンがうつぶせたヒロの後頭部を見下ろして言った。
「ジンは?」
「…少し」
 逡巡の時間は多くなく、ジンは素直に答える。
 しかし、と付け加える声。
「精神的にも、そうだったのかもしれないな、ヒロは」
「うん…お母さんに何度も電話してたしね」
「明るく振る舞ってはいたが、がっかりしているのかもしれない」
 バンはジンの生い立ちを知っている。本物の家族、自分を育ててくれた海道義光もジンは失った。しかし家族の話題をタブー視することはない。家族について語るジンは優しい目をする。
「ジンは…」
 声をかけると視線がこちらを向いた。優しさの名残をとどめた目。
「もう日本には帰ってこないのか? この事件が終わっても…」
「どうだろう。まだ分からない」
 ジンは背後を振り向く。スターバックスの人混みに濃い緑色の、ユウヤの背中がちらりと見える。
「帰ってもいい気がする…、いや、僕は一度帰らなければならない。やり残したことがあるから」
「…留学は楽しい?」
「学ぶことは、そうだ。…日本を出た甲斐はあった。自分にはまだまだ学ぶべきことがたくさんあると思い知るよ」
「オレ、そんなに勉強好きじゃないしなあ」
「LBXのことは別だろう?」
 言われてみれば図星だ。LBXのためなら理科のテストでフレミングの法則を解こうとし左手が攣りそうになったことのあるバンも、知識と経験を総動員し、力の向きを考え、懸命に計算し、思い描くように動かそうと努力をする。実際に計算をするのはLBXに内蔵されたCPUだが、動かすのはLBXとCCMで繋がれたバン自身の手なのだ。
「LBXの授業があったら一番になれるよ、オレ」
「どうかな、僕がいる」
 笑い合っているところにトレイ一杯にカップやサンドを載せたユウヤが戻ってくる。彼はもう一度ヒロの顔を覗き込んで目覚める様子がないのを見ると微笑した。
「先に食べちゃおうか」
 こっちはラテ、こっちはコーヒーと一つずつテーブルの上に載せる。ブラックコーヒーを取ったのがジンで、バンは白い泡が甘そうに見えたのでカプチーノを選んだ。
「じゃあヒロ君にはキャラメルマキアートを取っておこうかな」
 甘い香りが漂うそれをちょっと離れた場所に置く。バンは一口飲んだそれが甘くなかったので、砂糖を入れながらユウヤに尋ねる。
「それは?」
「ソイラテ。豆乳が入ってるんだって」
 サンドはソーセージとオムレツを挟んだイングリッシュマフィン、ベーコンレタスと卵のサンドが二つずつ。だがそれ以外にもトレイには山と積まれたものがあった。ブルーの包装紙に赤や黄色のポップな商品名。
「お菓子?」
「チョコレートバーの自動販売機を見つけたんだ」
 ユウヤは楽しそうに言い、振り返った。確かにジュースの自動販売機はないが、側面にでかでかとキャドバリーの文字の書かれた自動販売機なら目に入る。これも何種類も…多分ユウヤは全ての種類を買ってきたのだろう、どれも包装が違う。
「ユウヤ…甘いの好きだっけ?」
「うーん」
 ユウヤは何故か少し困ったような顔で笑ったが、そうだね、と一つを取り上げた。フルーツ・アンド・ナッツ。それを一口囓り、甘いね、と笑う。
「何だか懐かしい味だなあと思って」
「イギリスのチョコが?」
「チョコレートが」
 それからこんどはマフィンに齧り付く。
「オムレツは、好き」
 ユウヤの過去に何があったのかを、バンはよく知らない。ジンは詳しく知っているのだと思う。ユウヤの一言一言を見守っている。彼もまたチョコレートを一つ取り上げた。バンも適当に一つを選ぶ。囓るとウェハースが挟まっていた。ちょっと甘すぎる気もするが、美味しい。すぐエネルギーになりそうな甘さが腹に溜まる。
 コブラはなかなか戻って来ず、ヒロが目を覚ます気配はない。ジェシカとランはビュッフェもネイルサロンもスパもあるラウンジで一体何を楽しんでいるのだろう。ネイルサロンではない気がするが。
 チョコレートが甘かったらしく、ジンがカップを持ってスターバックスにおかわりをもらいに行く。オリジナルコーヒーなら同じカップで一度おかわりができるんだ、と当たり前のことのようにジンが言うので、コーヒーと言えば家で砂糖と牛乳をたっぷり入れて作るもの以外、ブルーキャッツ以外では飲んだことのないバンは、自分の知らない世界を知っているジンの背中を目で追う。スターバックス、ほぼ異世界。
「バン君、おかわりは?」
 ユウヤが尋ねた。
「ああ、うん、いいや」
 最初は砂糖一本では足りないと思ったが、チョコレートバーを食べているうちにカプチーノの苦さが懐かしくなる。
 ジンが戻ってくると、オレ、スタバに入ったことないんだ、とバンは言った。
「買い食いしない訳じゃないんだけど、学校終わったら大体すぐキタジマに行くから」
「…バン君も初めてのことってあるんだね」
 驚いたようにユウヤが言う。
「そりゃあるよ」
「そうかあ…」
「だってこんなことがなかったら、オレ、まだ日本にいたし」
 そして父はブリントンの天文台にいて。
 去年の事件の後、ようやくまた家族三人で暮らせると思ったが、父は案外あっさり仕事で海を渡ってしまい、また自分と母もそれに慣れてしまっている。
 でもそう言えば…、と思うのは、ディテクター事件がなかったら自分はここまで父に会いに来ただろうか、ということだ。母はそんなことは一言も言わない。しかし本当は、事件がなくても、こんな風に会いに来てもよかったのだ。事件がなければ、もっと一緒にいられた。
「オレ…」
 バンはぼんやりと呟く。
「卒業したら留学しようかな」
 それを聞いたジンの目が静かに輝く。
「どこへ?」
「イギリスでもいいけど…」
 バンはジンの目を見つめ返して言った。
「A国もいいかもね。ジンもいるし」
「もしバン君が来るならば歓迎するよ、部屋だってまだ余ってる」
「同じアパート?」
「ルームシェアをしてもいい」
 一人暮らしを考えていたが、そうか、ジンと暮らしてもいいのか、と思うと途端に興奮して心臓から熱い息が込み上げた。
「いいな、それ」
「ボストンはいい街だ。Nシティの方が賑やかだが、こっちにはLBXの会社もあるし、新機種や素材の開発も盛んで…」
「わあ」
 思わず出た声は小さいながらも歓声で、興奮はまだ見たことのないボストンの街やジンのアパートに想像を掻き立てる。オレ、英語勉強するよ、あと母さんに苦労かけられないからバイトしなきゃ、何ができるかな、ジンみたいにテストプレイヤーになったりできないだろうか…。
 気づけば喋っているのはバンとジンだけで、ユウヤはそんな二人をにこにこしながら見つめている。
 自分を取り巻くお喋り。オムレツの味。甘いチョコレート。カップから漂うこうばしい香り。かつて、おぼろげな記憶の中にあったかもしれないものを、一つ一つ目の前の今から拾い上げる。そして遠い思い出が今と一緒に自分の世界を形作ることに、世界が少しずつ満たされるような安心感と喜びを感じる。
「ユウヤは?」
 不意にバンが振り向いたので、ユウヤは驚いたのかちょっと肩を跳ねさせた。
「ユウヤはこれが終わったらどうする?」
「どう…」
 考えたことがない。ジンの役に立ちたい、その一心でここまで来た。その先の世界…。
 この事件が終わったら、世界はどう変わっているのだろう。その中で自分はどう生きよう。
「一緒に来ないか、ユウヤ」
 ジンが言った。ユウヤは身体の芯から熱が湧き上がって、わっと身体を熱くするのを感じた。
 しかし、自分はまだ現実を知らない、社会を知らない、生きる理由、今身体を動かす理由はジンがそこにいるから。
 これが終わったら…。
 一緒に、とジンが言うなら…。
 ユウヤはそこでバンを見た。どうする?と尋ねたバンを。
「僕は…」
 真っ直ぐな瞳が見つめている。これがジンの信じる瞳だ、と思う。この力強さを信じられる。何故ならユウヤ自身もまた、この瞳を正面から見たことがあるからだ。LBXを通して。ジャッジを通して。まっすぐに向かってくる二人の力強さに正面から打たれたことがある。
 ユウヤは正直に答えることにした。
「先のことはまだよく分からないけど、遊びに行きたいな。絵を…一緒に見に行きたい」
「絵?」
「モネの絵…」
 三人の脳裏に浮かんだのは今朝のブリントン。バスの中から見た時計塔と、霧雨の向こうの太陽、薔薇色の雲。
「オルセー美術館」
 ジンが言った。
「きっと行こう、約束だ」
「行こう!」
 バンは心が動いて何かしたくなり手元のカップを取り上げたが空っぽだ。脇を見るとヒロの分、と分けていたキャラメルマキアート。
 自分のカップを取り上げ、ふふ、とユウヤが笑う。
「ヒロ君にはまた新しいのを買おう、あたたかいのを」
「そうだな」
 声をひそめていたずらっぽく笑い、キャラメルマキアートと、二杯目のコーヒーと、ソイラテで約束の乾杯。カップの軽い音がする。ヒロがちょっとぐずるような声を出したが寝言のようだ。三人はくすくす笑いながら、再びチョコレートバーに手を伸ばす。
 飛行場に降りしきる霧雨は当分止む気配がない。キャラメルマキアートとチョコレートバーを満喫する時間はたっぷりあるだろう。ヒロを起こさないように小さな声で交わされるおしゃべりが空港のざわめきと一体になって満ちる。それは結構居心地がよくて、イギリスの雨も悪くないな、とジンが思った。



2012.10.24 希路里様のリクエストです。