花開く蕾へ、君は惜しみない祝福を










眠る種子


 君が額に唇を触れた、あの体温を覚えている。
 君の体温は僕のそれよりもほんの少し高くて、君が触れると僕は触れられた肌の細胞やその下の血液が目覚めるようだった。君のぬくもりが僕の中で凍っていたものを溶かす。極北の地面の奥底で眠る植物の種のような僕の心を。それがあることさえ忘れていた生きる魂を。
 君は僕が眠っていると思っていたのかもしれない。でも僕は時々目覚めていた。病院の真っ白なシーツの下、動かない身体の奥にあっても、君が病室に入ってきた気配を感じては、僕は君を感じようと凍った厚い皮の下でもがいていた。それを溶かしてくれたのが君の体温だ。君の唇は柔らかくて、君の体温のぬくもりを優しく伝えてくれた。僕は目覚めた。瞼を開くことができた。君を見ることができた。それこそが、僕の生きているという実感で、僕の生の楽しみの全てだった。
 あの時。
 知らない大人に手を引かれて、これが最後とも知らずに暗い廊下を歩いた、遠いあの日。君は最後まで僕を見つめていた。僕らはこれが別れになるとも知らなかった。ただ不安で、でも僕は君が見つめているから泣くことなんかなかったし、君もどうすることもできなかったね。あれは運命だった。君と僕の人生が、あそこで分かれてしまうことは。
 でもほんの短い間、僕らは触れ合った。泣いている僕に、君は会いに来てくれた。僕の涙を止めてくれた。白いカーテンを開けて、たった一人だった僕の世界を二人にしてくれた。独りは寂しい…本当に怖い。あの時から君は僕にとって世界そのものにも等しかったよ。孤立した真っ白な世界に色を与えてくれた。表情を与えてくれた。君の赤い瞳が、僕が泣くのを見て泣き出しそうに潤む。君は僕に触れる。君は言った、もう覚えていないかもしれないけど、君はこう言った。――だいじょうぶだよ、ぼくがきみのあたらしいかぞくになってあげよう。
 だから、僕の涙は止まった。
 君の瞳、君の言葉、君のぬくもりは、たとえ現実が僕の肉体に痛みを与えても、電気信号が僕の頭の中を引っ掻き回しても、ずっとずっと奥の方に隠されて守り続けてきた。僕はそれをなくさないようにどんどん心を硬くして、深い深いところに沈めて、あまりに硬く冷たいもので覆ってしまったから、とうとう自分がそれを持っていることさえ分からなくなったけれども、確かにあったんだ。君が再び僕の目の前に現れたから、僕はそれを知ることができた。君はその全てを解き放つ鍵だったんだ。
 去年のアルテミスで君の姿を目にした瞬間から、僕の中ではシステムにもコントロールされない何かが生まれた。心の奥底にあった君の記憶、君からもらったぬくもりが目を覚まそうとしていた。一緒に全ての痛みも蘇って、僕自身にもコントロールできなくなってしまって…、君を恐い目に遭わせたかもしれない。
 あの時のことを少し話そう。それとジャッジのことを。ジャッジはね、LBXだけど、やっぱり僕自身だった。僕はLBXの目で世界を見た。ジオラマの世界。戦いの世界。でもジャッジでいる間、僕は傷つくことがなかった。これ以上傷つきたくなかったら、痛い思いをしたくなかったら、ジャッジで戦う。ジャッジで敵を倒す。ジャッジは僕自身で、僕を守る鎧だった。
 僕はすぐに君だと…分かっていたんだろうか。今でもあの日のことは上手く思い出せない。一つ一つのものは記憶しているんだよ。君が戦闘機から飛び降りて会場に来たこともよく覚えている。バトルが始まる前、階段で会ったね。僕は…今思うと君を探していたんだと思うけど、本当に君のことだと分かっていたのか、よく分からない。僕の心は何も感じないようになっていた。もう痛いのも辛いのも嫌だったから。だけど君と出会うことで、深い所で眠っていた僕の心は目覚め始めたんだ。君に引き寄せられるようにして。
 君はジャッジを壊したね。僕の心を覆っていた硬い鎧は粉々に砕かれ、本物の、生きるための魂が剥き出しにされた時、僕はこの世界にもう一度生まれたんだ。君が目覚めさせてくれた。僕が守り続けたものに、再び鼓動を与えてくれた。
 ジン君、君が額に唇を触れた、あの体温を覚えている。あの時は意味が分からなかったよ。でも確かに君のぬくもりを受け取った。僕の心はあたたかくなった。君の体温が僕の身体を目覚めさせた。僕には君の顔がはっきりと見えた。君は優しい顔で笑っていた。
 とても安心したんだ。僕はここにいていいんだと思った。君の目の前に。君のいる、この世界に。
 君は眠っている。穏やかな顔で。僕は君の寝顔に囁きかける。ありがとう、僕の目を覚まさせてくれて。
 そうして、もう少しだけ君の体温を感じたくて、唇で、君の瞼に触れる。



水槽と蕾


 夕暮れの窓を過ぎると暗い廊下がどこまでも続いている。ジンの小さな足はぺたぺたとそこを歩く。ズックのゴム底をぺたぺたと鳴らして。
 どこまでも続く廊下は幼い心を不安にさせるが、急かされているのは不安のせいではなかった。
 あいつが待っている。
 名前も知らないあいつ。でもぼくはあいつと約束したんだ。だから追いかけなくちゃ。パパとママのところには行っちゃいけないと止められたけど、あいつはぼくの新しい家族なんだから。
 いつの間にかジンが歩いているのは廊下ではなく暗い広間のようなところで、そのことに気付いた瞬間、足がびくりと立ち止まった。どこから来たのか分からない。後ろを振り返ってもぼんやりと暗い闇が広がるばかりだ。
「あ……」
 ジンは、あいつ、の名前を呼ぼうとする。しかし声が出ない。
 否。
 ――なまえを知らない…。
 覚えていない、のか。分からない。ジンの頭には名前が浮かんでこない。分かるのは自分の名前――ジン――と、パパ、ママ、それから優しく僕を抱き上げてくれた…おじいさま。
 あいつの名前は…?
 真夜中に泣いたあいつの名前を…なぜ僕は知らないんだろう。大丈夫だと言って隣に並んで、手を握って、頭を撫でて、それから僕は言ったのに。
 ――ぼくがきみのあたらしいかぞくになってあげよう…。
 泣いてくれたらすぐに分かる。飛んで行ける。暗い廊下の先に、大人たちに手を引かれて消えていったあいつ。ぼくはあいつの家族なんだから、迎えに行かなきゃ。
「ぼくのなまえは、ジン…」
 ジンは呟く。
「パパ…」
 パパは強くてカッコイイ。
「ママ…」
 ママは優しくてあたたかい。
「おじいさま…」
 これが家族だ。強くてかっこよくて、優しくてあたたかくて、何も怖がらず自分の家族を守る。それが家族だ。だから、僕は…。
「…………!」
 頭の中でチカチカと光がまたたく。夏の太陽の光、大きな橋の電気の光、近づく水面に光っていたサーチライトの光、真夜中の病室に明るすぎるほどに灯った白い光。
 あいつの名前は…!
 その時、暗闇の中にぼうっと光が立ち上った。青白い光は水槽の光だった。円筒形の水槽が両脇に並んでいて、ジンの行く先を照らすように一つ、一つと灯ってゆく。
 ジンは水槽に近づく。ぼんやり光る水色の水の底からぷつ…ぷつ…と小さな泡が立ち上るが、魚も蟹も泳いでいない。ただ真ん中に浮かんだ小さな、もの。もの、と呼ぶことしかできない。それが胎児の形をしているとジンは知らない。何か、不思議な、怖いものが死んでいる、と思う。
 水槽の光に導かれるままジンは歩き出す。水槽にはどれも普通の生き物はいなかった。奇妙な形をした何かが眠っている…死んでいる? 鳥でもない、動物でもない、魚でもない…、きっと人間じゃない不思議な何かが。
 しかしそれは人の形をし始める。水の中に嬰児の姿を見て、ジンはびくっと震える。どうして赤ちゃんがこんなところにいるんだろう。次の水槽で赤ん坊は大きくなる。だんだん、自分にも見慣れた人間の形をしてゆく。
 もしかして…と足を速めると、一つだけ何も入っていない水槽があった。ただ水色の水で満たされただけ。その次の水槽には不思議な服を着た、自分よりも大きい子どもが入っている。
 ――ぼくはしっている…。
 ジンは水槽を追うごとに成長してゆくそれの一つ一つの顔を見ながら、思う。
 突き当りには大きな水槽が一つ、佇立していた。そこに辿り着いた時、ジンは初めて水槽に手を触れた。
 中の人間は生きていた。
 両手で顔を覆い、苦しんでいるように見えた。水の中で泣いているようにも見えた。
 あいつだ。
 きみだ。
 ――きみなんだろう?
 君なんだ。
 ジンは手を伸ばすが、それは水槽の中の相手の腰のあたりまでしか届かない。ジンはいっぱいに手を広げて水槽を抱く。冷たいガラスの表面に頬を押し付ける。触れた頬や耳を伝って中の冷たい水の音が聞こえる。水底から立ち上る水の音。それを僕たちはよく覚えている。あの橋が崩れ落ちて、再び息を始めるまで僕らはその音を聞いていたのだから。
 今でも、そんな冷たい水の中に、ひとりぼっちで。
 ――きみは…、
 ひとりは寂しい、ひとりは怖い、ひとりにしないでと繰り返した君は…。
 ジンは泣き出しそうになりながら水槽に顔を押し付ける。

 ふと瞼が開いた。
 朝ではないことは分かっていた。覚醒は急激で心臓がドッドッと音を立てる。あまりに大きな音で部屋中に響いているのではないかと思ったほどだ。
 隣のベッドにも覚醒している気配があった。
「ユウヤ…」
 自然とその名前が口をつき、ジンは思わず口を覆う。
 あまりに自然に口をついた名前に、さっきまでは堰き止められたかのように触れることができなかった。遅れてやってきたその恐怖と、現実のユウヤの存在に深く安堵した。
 夢の中で見たユウヤの姿は実際に自分が見たものだ。実物それそのものではなくても、彼は膨大な記録画像と記録映像の中にそれを見ていた。四歳から十三歳のユウヤがガラスのカプセルの中で死んだように眠っているのを。昨年、ユウヤの存在の証拠を、何が行われてきたのかを、あの暗く寒い電算室で調べ、青白く光るモニタ越しに見つめた…。
 急にコントロールできない感情が突き上げ、彼は唇を噛みしめる。
 衣擦れの音が聞こえた。
「ユウヤ?」
「…ジン君」
 小さくか細い声が自分の名を呼んだ。
 ――大丈夫だ…
 ジンは胸の中で繰り返す。これが現実だ。自分たちは十四歳で、ここはダックシャトルの内部で、確かに大きな戦いに立ち向かい続ける日々だが、決してあの頃のようではない。ユウヤが寝ているのは自分を拘束するベッドではない。自分もまた、助け出すことの出来ない相手を見ているのではない。手を伸ばせば、そこには触れ得る肉体がある…。
「…起きたのか」
 起こしてしまったのだろうか。
 するとユウヤが言った。
「君も。……僕が起こしてしまったのかな」
 いいや、と小さな声で返事をし、ジンは素直に答えた。
「夢を見て、起きた」
「僕も…夢を見ていたみたい」
 何故か安堵しながら微笑むような返事が返ってくる。
 淡く水色に光る時計の文字が午前三時を表していた。洗面台に向かい、ジンは白い光を放つ照明の下でユウヤの目の縁が赤いのと、頬に涙の痕があるのに気づいた。ユウヤが自分の視線に気づき、ちょっと笑い返すが、すぐに顔を背ける。そして水で顔を洗う。
 水の匂い…清潔な水の匂い…。
 川の匂いでも、海の匂いでも、あの水槽を満たしていた水色の水の匂いでもない。
 水滴の滴る顔が持ち上がる。ジンがタオルを差し出すと、ありがとうと共にそれが取られて。
 ユウヤがタオルに顔を埋めて溜息をついた。
 突き動かされるように手が伸びる。照明を消したのは、これ以上ユウヤの姿を光の下に晒せないと思ったからだ。これ以上、泣かせはしない。
 ――僕がいる。
 肩を掴む。力が強すぎて、相手の身体を壁に押さえつけてしまう。しかしジンは、もうこうするより術がないと思い詰めるほどの気持ちで、そうした。
 ――僕が君のそばにいる。
 タオルの向こうの呼吸がかすかに聞こえる。少し乱れた息。
 ――だから、
 もう泣くんじゃない。
 ――もう泣かないでくれ…。
 震える息を飲み込むようにタオルの上に唇を押し当てた。熱もぬくもりも飲み込むように。そうして震えそうな自分の息も一緒に飲み込む。
 どれだけそうしていたのか、ユウヤに押し返されてわずかに蹌踉めくと、二人の間を隔てていたタオルが床に落ちた。
 薄暗がりの中でも分かった。ユウヤは優しい顔をして自分を見つめていた。
「僕は…」
 言い訳でもするかのように呟き、しかしそれ以上の言葉が続かない。軽く唇を噛むと、僕はね、とユウヤが押し返していた手の力を抜いて指を絡め握り合わせる。
「僕はね…君の夢を見ていたのかもしれない」
 ユウヤが、僕の夢を、と思った時、急な哀しみのようなものが胸いっぱいに広がって、それは心に溶けると、とぷん、と大きな波を立てた。
 夢の中で、僕は君を助けることができたのだろうか。
 ――だって、君は、
「…泣いていた」
 そう呟くとユウヤは首を横に振り、ジンの身体を抱きしめた。ジンはそのままもたれかかり、相手に背中を抱かれるまま抱擁された。
 ユウヤの手は確認するように何度も何度もジンの背中を撫でた。やがてそのユウヤも涙をこぼしているのが分かった。なのに自分を抱きしめる雰囲気は優しいままで…きっと涙を流しながら微笑んでいる。ジンは硬く目をつむり、相手の首筋に顔を埋める。



花開くぬくもり


 ダックシャトルの朝は早い。戦いの日々に寝坊は許されない。その中でも早起きの部類のジンとユウヤが、その朝はヒロよりも遅くて一番最後になって洗面台を使っている。
 しかし何事もなかったかのように顔を洗い、皆で揃って朝食を摂り――今朝はランが挑戦した、朝からおにぎりもいいだろう、塩が利きすぎているが…――、その後入れ替わり立ち替わりにキッチンへ向かって水のおかわりをする。
 ジンがキッチンに向かうとユウヤがコップをすすいでいる所だった。ユウヤはにっこり笑って、ジン君も喉が渇いた?と濡れたコップに水を注ぐ。外側についた水滴を拭おうとするのを、そのままでいいと言いながら受け取った。
 水の匂い。肉体に摂取する、生きる為の、水の匂いだ。
 一息に飲み干す。喉を流れ落ち、腹の奥で揺れる水。
 とぷん、と。
 コップを下ろすとユウヤの微笑みが見守っている。
 洗ったコップを伏せる。視線が合う。ジンはユウヤの手を取る。ユウヤは静かに、されるがままだ。
「…触れても?」
「うん」
 指先に唇を触れさせると、ユウヤもそれを真似てジンの手を取り、キスというより指先を下唇に押し当てる。
 また誰かがキッチンにやって来る気配がした。二人は離れて、ジンは食堂に戻り、ユウヤは自分で作ったおにぎりの塩味にやられたランのために水を汲んだ。

 ジンがもう一度ユウヤの肩を掴んだのは夕方の少し前だった。朝食のリベンジに燃えるランがジェシカと一緒に買い出しに出掛け、今日の特訓はこれで終わりとヒロはテレビのある部屋に向かって走っていってしまい――この国ではセンシマンの再放送がされているのだ――今日のバトルの反省点を言いながらバンがそれについていく。
「バン君もセンシマンを観るのかな」
「いや…どうだろうな」
 トレーニングのための部屋には二人だけが残され、ふと別々のジオラマにいたLBXに視線をやった。
 視線が重なる。バトルを…、と言いかけてユウヤは口を噤んだ。ジンの真剣な瞳に見つめられて息が止まりそうだった。しかし胸は熱い。心臓が生きたものの鼓動を繰り返す。見つめられるだけで、じわりと体温が上がる。
 ジンが腕を伸ばした。昨夜のようにひどくなく、しっかりと力を込めて抱き寄せる。
 頬を撫でる手。
「昨夜も…笑ってくれた」
 まるで感謝をするようにジンは言う。ユウヤは首を振る。
「ううん…、ジン君が笑ってくれたんだ。だから僕は笑えるようになった」
 全部君から教わった、とユウヤも手を伸ばしジンの頬を撫でる。
「心…楽しいと感じる心、好きと感じる心、人の名前を呼ぶ時に込める心……生きているということ、全部」
 まるで胸の中から心を取り出すような仕草をユウヤはする。ジンはその手を取り、掌に唇を押し当てた。
 二人はまた沈黙した。
 ジンは額を触れ合わせ、そして、目を閉じて、とそっと囁いた。
「…もう少し」
 ユウヤが言う。
「もう少し?」
「もう少し、君の顔を見てから」
 鼻先の触れ合う距離で、きょとんと相手を見つめてから、表情が微笑みに溶ける。
 ユウヤが瞼を伏せる。
 ジンはもう片手で抱いた背中を支える。ユウヤの手がそっと腰に回される。
 涙ではなく、溢れるのは微笑み。体温が溶け合う。ぬくもりが一つになる。
 更に強く抱きしめる衣擦れの音だけがかすかに響いた。それはほんとうにかすかな音ながら、何かに満たされていた。ようやく芽吹いた植物の先で初めての花の咲くような、耳を澄ました二人にだけ聞こえる音だった。



2012.10.19 煮塩様のリクエスト。キス22題ジンユウから1コマとのことでしたが、「額」と「瞼」、「腰」、「指先」と「唇」より。あと「首筋」とか「掌」のイメージも入ったり…もう全体的に。 最初に書かせていただいたのは「背中」でした。その続きというか対で。