音の無い11月










 古城アスカの目尻に光るものが涙だと、ジンがその目にはっきり認識した時、その場から一切の音が消え失せ、青白い影の中で彼女の涙がもう少しで縁を溢れ出し流れようかとする、聞こえるはずのない音を探した。とうとう一粒がこぼれ落ちて、すうっと透明な線を描くように頬を滑る。顎まで落ちるだけの力も量も持たず、次の涙が流れてくるまでそれは唇のすぐ側で留まっている。
 何故、泣いているのか、理由は知れなかった。その理由も意味も分からない涙を目の前に慰める言葉など一言もなかったし、持っている言葉も何もかもふいにがらくためいて、からからに乾いたプラスチックのように転がる。急に頭の中ががらんどうになったようだった。
 しかしまるで猫のような彼女はその鋭敏なセンサーで、自分を見つめる視線に気づき、広い飛行場の、誰もが自分の荷物と目的地以外に興味を持たない中、ジンだけは自分を見ていることを見留め、にっ、と笑って見せたのだ。ん? どうしたんだよ、オレのことなんかまじまじと見ちゃってさ。
 これが十四の時の別れの風景だ。空港の高い天井に響くアナウンスがジンを現実に引き戻した。それぞれが、それぞれの場所へ戻らなければならなかった。ジンにはボストンのアパートがあったし、最初は止まり木程度だった留学もまだ続けるつもりだった。そしてアスカには弟がいる。突然攫われスレイブプレイヤー化されたという、この断絶された現実を埋めなければならなかった。
 ジンはアスカに近づいた。その時アスカはもう涙の気配など微塵も見せず、猫のように笑っている。目の前に立つと、やはり彼女との身長差が実感された。小さな身体。まさか同い年とは思えないが、そうなのだ。幼く無邪気なふりをして、静かに泣く。黙って泣く。涙で全ての音を奪ってしまう。
 何故、古城アスカは涙を流した?
「古城アスカ」
 ジンは手を差し出した。アスカは不思議そうにその手とジンの顔を見比べる。ジンは微笑した。
「また会おう」
 差し出された手の意味を把握したアスカが笑顔になって、ああ、と返事をし強くその手を握った。

 同じ手をまた握っている。

 つめたい、やわらかい、そして人工的な照明が飛行場の柱から発せられている。それは屋根を支える本物の柱ではなくて、期間限定で展示されているオブジェだった。透明な硬い液体のようなものの中に閉じ込められた生き物の骨格標本。その骨は染色され、冷たく、そのくせ柔らかい光の中で半透明に照らされる。淡く、かすかに白く濁って見える寒天質の肉体の内側で、濃い紫色の骨がその姿を露わにする。
 鳥の標本の前に、古城アスカは立っていた。大きな鳥が、飛び方を忘れてしまったかのように身体を丸めている。まるで胎児だ、と思った。グロテスクでもあったし、限りなく美しくもあった。惹きつけられて目が離せない。アスカもそうなのだろうか。ジンが近づいてきたことにも気づかず、じっと標本を見つめていた。ジンは声をかけず、少し離れた場所から彼女を見た。目尻に涙が光ってはいまいかと思った。しかし長い彼女の前髪が表情を隠して、目元を確認することができない。ジンは周囲の音に耳を澄ます。空港の雑踏は高い天井に幾重にも反響し、霧のようにあたりを覆っていた。
 アスカがボストンを訪れていると教えてくれたのは日本の、花咲の道場で世話になっているユウヤだ。
 ――先日、ラン君に会いに来たよ。
 ――アスカが?
 ――うん。弟さんの付き添いでボストンに行くんだって。滞在が長くなるかもしれないから、思い切りバトルしておくんだと言ってね。
 アスカの弟。古城タケルの存在は三年前までは名前を聞く程度だった。アスカは自ら積極的にそれを語ろうとしなかった。タケルが複合障がい児であり、ヴァンパイアキャットは自らペンを持つことも難しい彼が設計したものであると知ったのは、ディテクター事件の後、ひょんなことからサイバーランス社の西原と三人で食事をした時のことだ。
 吹聴することはないが、アスカは自分の弟が脳障がいをおっていることを隠したりはしなかった。それも含めて弟の個性だと、彼女は認めている。西原は是非その古城タケルと会いたいと言い、その場では断られていたが、何度も熱心に打診していた。今では、仕事抜きなら、という条件でメールの遣り取りが続いている。ジンはそれを横目に見ながら、弟を語る時の誇らしげで優しげなアスカの表情を視界に留めた。
 大事な家族、弟…。そう直接聞いた訳ではないが、アスカの言葉や仕草からはそれが溢れている。アスカは弟を喜ばせたい一心でヴァンパイアキャットを操作して、練習して、練習して、とうとう世界チャンピオンまで上りつめたのだ。タケル、姉ちゃん勝ったよ、お前のLBXが世界一だよ。
 ――弟の付き添い?
 ――オプティマの適正検査を受けるって言ってた。ようやく順番が回ってきたんだって。
 懐かしく因縁深い単語ではあった。オプティマ、この人工臓器技術は神谷重工がアンドロイド開発の最中に見つけたものであり、海道と深い関係がある。ジンにとっては海道義光その人との記憶に深く食い込むものだ。
 ――ユウヤ…、
 ――ジン君、アスカ君は君に会えたらきっと喜ぶと思うよ。
 僕らは仲間なんだから、とユウヤは電話の向こうから優しく言い聞かせた。
 鳥の標本に一歩一歩近づく。冷たく柔らかい光は彼女の横顔を白く見せた。すぐ側まで近づいてもアスカは振り向かず、二人の周囲を穏やかな雑踏が包んでいた。アスカ、と肩を叩くように呼んだ。
 振り向いた古城アスカは少し伸びた髪を揺らした。三年前、まるで少年のようなという形容の似合う…否、優勝の瞬間までは女とさえ思わせなかったあの面影は今も残っていた。しかしわずかに顔を傾けたその表情はあまりに女性的で……、それは優しいのではない、冷たく綺麗で、ジンはそう感想を持つことに抵抗を覚えなかった。アスカは綺麗になっていた。山吹色の前髪が表情を半分隠し、背の高い自分を斜めに見上げる視線。
「ジン」
 次の瞬間にはアスカは笑っている。すると少年っぽさが色濃く出て、ああ古城アスカだと思う。アスカは歯を見せて笑う。
「早かったじゃん」
 髪をかき上げる指にマニキュアを見た。深いレッド。
「川を渡ればすぐだからな」
「取り敢えず、再開を祝して乾杯? 何か飲もうぜ」
 その科白に彼女が背負っていたリュックを下ろしてトマトジュースを取り出すのではないかとジンは身構えたが、アスカは何もしない。
「…ジン?」
「いや」
「期待させた? トマトジュースならあるけど」
「いや、今は遠慮しよう」
「お前昔からそればっか」
 二人は骨格標本の間を縫い、その場を去る。
 胎児のように身体を丸めた鳥、深い水底に潜る姿のまま固められた深海魚、かつて生きていたものたち、完璧に残されたその姿。これらを見ながらアスカは何を考えていたのだろう、と彼女を見下ろして思う。三年前も身長差があったが、今も十七歳にしては小柄だ。しかしその内側に隠された心は知れない。

 病院には、今日は親が付き添っているという話で、触れないのも不自然だから、適性検査はどうだろうと話を振る。
「結果が出るには時間がかかるのか?」
「うん。その間、ここにいる」
「検査は」
「昨日終わった。タケル、疲れてるから今日はリハビリプログラムもなし。寝てる」
 もうちょっと早く来れたらなあ、とアスカはバスの窓から外を見た。街路樹はほとんど裸で、歩道に散った落ち葉は茶色く、踏みしだかれている。
「黄葉とか見せてやれたのに」
「ああ、総合病院からなら、チャールズ川の向こうまで見渡せる」
「それお前が住んでる所だろ」
 飯、レストラン?とアスカが尋ねる。
「何が食べたい。それなりに美味い店に連れて行けるはずだ」
「お前んちってさー、アパート?」
「…ああ」
「一人暮らし」
「昔からだ」
「昔って」
「三年前からずっと」
 バスは市街地を通り過ぎ、チャールズ川を渡る。ジンのアパートまでは停留所から少し歩いた。黄葉の名残の楓が最後の葉を散らしていた。鮮やかな黄色が十一月の青空に舞う。アスカはそれを見上げて、ふと後ろを振り向く。チャールズ川、その向こうの総合病院は背の高い建物とはいえここからは見えないけれども。
 ジンは黙ってアパートの玄関を解錠する。アスカは、お邪魔します、とジンより先に階段を駆け上がっていく。まだ部屋番号も聞いていないのに。

 ミネストローネのレシピを教えてくれたのはユウヤだった。そういえば…と三年前、宇宙に行く前の日を思い出す。あの時、ユウヤはトマトを多めに作っていた。そうだ、リクエストしたのはアスカだったのだ。
 ジンはトマト缶をもう一つ足し、呪文を呟くように材料を投入する。アスカは居間でテレビのチャンネルを変えながら、意味分かんねーつまんねー、と声を上げる。
「なんか面白いテレビねーの?」
 振り向くとソファに足を広げて座っているので、行儀が…、と思うが今更だ。せめてスカートではないのが救い。
 ジンが何かを言う前にアスカは録画一覧を表示し、アングラテキサスじゃん!と声を上げて再生する。
「誰が出てんの? あ! ヒロ!」
 対戦相手はリベンジに燃えるビリー・スタリオンだ。
 バトルに熱中している間にミネストローネは出来上がって、アスカは目の前のテレビに集中しながらも鼻をくんくんさせる。ジンはアスカの前に皿を置き、ふと自分がどこに座るかを考えた。
 部屋に人を入れたことはほとんどない。何度かA国を訪れたバンと、一度ふらりと顔を見せたジェシカ、おそらくこの二人だけだろう。
 結局隣に座った。
「冷めないうちに」
「食わせて」
 視線をテレビに向けたままアスカが言った。ジンは鼻から溜息をつきスプーンを取り上げたが、勿論食べさせることはしない。自分の分をすくう。
「…ちぇ」
 アスカはとうとう視線を外してミネストローネの皿を持ち上げた。それでも食べている最中の意識半分、バトルに持って行かれているから、口元が赤く汚れる。ジンはこっそり溜息をついて紙ナプキンを取ってくると側に置いてやる。
 ミネストローネを食べ終わっても、アスカは次から次へと録画されたバトルを再生し続けた。さすがに唇や頬も真っ赤なのは拭ったが、近況報告やお喋りの暇もない。ただバトルを見ながらツッコミというかそういう言葉は漏れて、それに応えるようにジンも解説をするが、これが会話と言えるかどうか。
 気づけば日がとっぷりと暮れていた。部屋は真っ暗で、テレビだけが煌々と光っている。メニュー画面のまま、アスカは次を再生しない。
 病院まで、あるいは滞在先のアパートメントホテルまで送っていこう、とは言わなかった。昼はミネストローネだけだった。だから夕食が必要だった。ジンは台所に立ち、明かりを点けた。
 軽い音がした。見ると、アスカがソファに俯せになっている。
「簡単なものでいいか?」
 尋ねると小さく頷くのが見えた。

 夕食の皿を洗う水音と、背後からはテレビの音声が聞こえてくる。しかしアスカはそれを見ていない。ソファの背もたれにしがみつき、目を瞑っている。夕食のメニューが気に入らなかった訳でも、テレビが気に入らない訳でもない。まあ午後の反応を見るに、あまり面白い番組ではないのかもしれないが。
 ソファの上にのせられたリュックサック。中身はトマトジュースと、やはりヴァンパイアキャットがいるのだろうか。それとも弟の設計した、また新しいLBXが?
「オレさ…」
 小さな呟きが聞こえた。ジンは流しの水を止め、それに耳を傾けた。
「タケルのこと大事だし、好きだし、ほんと、それほんとで…」
 呟きながらアスカはソファの背もたれに顔を埋める。
「オレ、悪い姉ちゃんだ…」
 ジンは台所の明かりを落とし、アスカに近づいた。居間の暖色の明かりの下、アスカはまるで自分の居場所はここではないと言うようにソファの上で小さくなっていた。小柄な身体がいっそう小さく見える。
 背もたれ越しに佇み俯いた頭を撫でると、首を振りながらアスカが顔を上げた。目尻の上がった瞳がジンを睨む。そういうものいらない、とでも言うように。
 しかしジンがじっと見つめ続けると、今のは冗談だよとでも言うように笑って、それでもジンが表情を変えないと、おどけるようににらめっこの真似をして、更にそれでもジンの表情が変わらないと見ると、そこでようやく素の表情になった。
 アスカは笑っていたのではなかった。真面目な…そう当然のように真面目な顔だったのだ。タケルは昨日検査を終えたばかりだった。結果が出るまでは時間を要するし、そこから実際にオプティマを用いた手術をするとなれば…。何もかも手放しで喜べる話ではないのだった。しかしタケルとともにボストンに来たのは希望だったし、喜ばしい一歩なのだ。
 喜びと不安が彼女の表情を真面目な無表情に落とし込んでいた。まるで少年のような、いつもまとった明るく笑いの溢れる気配が消え、そこにいるのはただの、痩せた、小柄な十七歳の少女になる。
 キスをする間もアスカは瞼を閉じなかった。当然のように目を開いて、すぐ側まで迫ったジンの顔を見つめていた。
 唇を離すと彼女は親指で濡れた口元を拭い、ちらりと廊下に目をやった。
「オレが先にシャワー浴びんの?」
「どちらでも」
「じゃ…そうする」
 アスカは立ち上がると廊下に向かって歩き、急に振り向く。
「お風呂どこ?」

 ジンはびしゃびしゃに濡れた浴室で、まあこれ以上何を気にすることもないだろうと自分もシャワーの湯を跳ねさせながら、アスカのことを思った。こうなったのは偶然だろうか。自分は予想していただろうか。
 だが躊躇いはない。
 寝室に向かうと、夜闇の中に白い身体の線が淡く浮かび上がった。ベッドの上に置いていたバスローブは手つかずだった。
「アスカ」
 呼ぶとアスカは振り向き、シャツを羽織ったジンを見て、ずっりー、と呟く。声は小さいが非難が聞き取れた。
「使ってもよかったんだ、そのために置いていた」
 バスローブを取り上げると、だって、とアスカは胸を隠すように腕を組む。
「どうせ、脱ぐんじゃん」
「そうだが…」
 アスカはぎこちない仕草でベッドに座り、こうすればいいのか、という視線を一瞬だけよこしてじわじわと横になった。
 電気を消したままで上手くいく気がしなかったのでテーブルランプをつけると、アスカが驚いたように身体を縮める。思わずなのだろう、胸を隠し、膝を折り曲げる。
 胎児のような格好。
 ジンはその頭を優しく撫でた。
「やめてもいい」
「…誰が」
 その声も言葉も、どうにも強がりだったが、立ち去らないアスカをジンは自分から逃がすことはしなかった。腕の中に捕らえキスをすれば、今度こそアスカは目を瞑った。
 何事も全て初めての経験なのだろう。掌で触れて帰ってくる反応も、怖がるように堪えられる声も。怖がらせたり不安がらせるつもりはなかった。ジンは優しく、だがしっかりと彼女に触れた。これから何をするかはその手で教えた。強く抱きしめれば、アスカも同じ強さで抱きしめ返した。だからジンは安心して、彼女の閉ざされた扉を開けたのだった。

 アスカは声を上げた。そして泣いた。
 しかしそれを噛み殺し、ジンの背中にがりがりと爪を立てた。
 冷たい夜気に、しみる。
 ジンはベッドの上にあぐらをかき、CCMの画面を見つめている。バンからメールが届いていた。また今度A国に来るらしい。会うのはNシティだろうという話だった。何故か、ホッとした。
 その時、悲鳴が短く上がって、それから物の落ちる音が反響する。浴室だ。ジンはCCMをベッドの上に放ると駆けつけた。
 湯気の中、素裸のアスカが顔を押さえてへたりこんでいた。白いタイルの上にぽたぽたと血が落ちる。
「大丈夫か」
 平気、と言おうとしたのか、しかしアスカの顔は歪み、ジンはその手をどけさせる。鼻から血が垂れ、唇も切れていた。早速腫れ上がっている。
「大丈夫だ」
 笑いかけてやりながら湯で濡らしたタオルで顔を拭く。鼻血はぽたぽたと落ち続ける。
「痛い…」
「転んだのか」
「足……」
 力が入らないらしい。ジンは彼女の身体を抱え上げ、小柄ながら両腕にしっかり感じる重みに、胸の裡で微笑んだ。
 ぐったりとした裸体をベッドに横たえ、今度は冷やしたタオルを持って来る。アスカはもう手も動かせないらしく、ジンがそれをあててやった。
「うえぇ…」
 変な声を上げたのは血の味のせいだろうかと思ったが、アスカはそのまま静かに泣く。ジンは辺りから音が消えるのを感じる。
「大丈夫だ」
 繰り返し囁きかける。
「大丈夫だ」
 乾いたタオルで身体を拭ってやり毛布で包み込む。
「ジン」
 名前を呼ばれた。後ろから抱きしめると、手を強く握られた。アスカは胸の前でジンの手を抱きしめ、ふうふうと泣き終える間近の息をした。

 朝の気配に覚醒するとアスカの寝顔が目に入った。横向きになり、胸の前で祈るように両手を握っている。なんとなく髪を撫でていると目を覚ましたようで、ハッと自分の現状に気づき、背を向けたが、またがばっとこちらを向いた。
 細い指がジンの手を取った。
 アスカはジンの手を握りしめたまま背を向けた。ジンの身体はひっぱられ、小さな彼女の背中に密着する。手が胸に触れそうになると、それを守るようにアスカは両手でジンの手を包み込んだ。
 シーツから出た裸の肩はやはり小さくて、痩せすぎなのだろうか肩が尖っていて、でもやはり丸くてあたたかくて本当に猫のようだと思いながらジンはその身体を腕で優しく包み込む。
 空港の別れから三年。そしてまた空港で再会し、今はシーツの海で一息ついている。それは奇妙な、非現実的な出来事に思えたが、腕の中の彼女は現実で、すぐ目の前にある山吹色の彼女の髪は色褪せない。ただ。
 不意に音が消え、彼女の目尻に涙が浮かんでいることにジンは気づく。何故、泣いているのかは尋ねない。やはりかける言葉はないのだった。しかし今は触れ合うことができる。ここは二人きりだ。
 髪の上にキスをすると、涙が枕の上に落ちる、小さな音が聞こえた。



2012.10.16 その瞬間、マスターのモンスター効果発動。動揺して日本語じゃなくなるわたりさんを見たいがために「あれ以上」を書くことができる。@normachan