運命の、たった一瞬
人生の悪夢
「あなたがいけないんです」 …と、男は涙を隠して言う。 「いいえ、あなたを愛した私が愚かだった」 愛は常に愚かなものだ。しかし聡明でないことは悪ではなく、その愚かさも含め愛は尊いものだと…ウォーゼンは言ってやることができなかった。シアン化物の毒作用が彼の気道を縮めていた。声が出ない。苦悶の表情を伏せたのは、今の顔ではまるで憎悪するようにビショップを見上げてしまうはずだったし、醜く歪んだ顔が彼の記憶する自分の最期とはしたくないからだった。 ――私は死ぬ、その確信があった。助かるまい。死へと繋がる苦悶だと分かった。それほどに苦しい。耳の奥でキンキンと高い音が鳴り響いた。生命の警告だった。これでは捨て台詞も聞こえん…。 椅子から転げ落ちた時、ウォーゼンの意識は既になかったものの、その肉体が最後の痙攣を続けていた。ビショップが涙を堪えたまま近づく、無表情の下の複雑な感情を瞳は映すが、脳には届かない。 ビショップは何も言わなかった。手向けの言葉も謝罪も何一つ。しかし沈黙の中で行われる行為は雄弁なほど悲しみに満ちていた。彼は倒れ伏したウォーゼンを仰向けにし、その最期の表情を目に焼きつけたのだった。 きっと死ぬまで忘れないだろう。死ぬまで見る悪夢となるだろう。それは二人の関係の終焉に相応しいものだと決めて、ビショップは部屋を後にした。
潔癖な男
八神英二という男が潔癖な質であることは滲み出てくる真実であって、だからこそその彼が人に銃口を向けるのも引き金を引くのも躊躇わないのは財前にとって興味深い。 おそらく八神にとって拳銃とは善悪の対象ではなく、また正義を執行する力でもない。それはただただ力であり、道具なのだった。そして八神自身、自分をそのように扱えるのだろう。だからこそ海道義光の下で、イノベイターの一員として働くことができた。彼は覚えているだろうか、自覚しているだろうか、最終的にこの世界を救った山野バンを最初に殺そうとしたのは自分の命令が行使した力だということに。 忘れはしないのだろう。そして語りもしない。彼の罪は彼だけのものとして胸の奥の、財前にも触れられない場所に降り積もる。その中心に佇む八神はやはり潔癖だ。 シャワーの音を聞く。官邸でシャワーを使う時、八神はシャンプーも石鹸も用いない。熱い湯で流すだけだ。冷たいシャワーは財前が止めさせた。今夜は遅くまで塔子が起きていた。だからではないが、二人の間にいた体温がふっと消えた時、八神は自分を見たし、自分は先にシャワーをと促した。寂しさ、ではないが。人肌恋しい季節ではある。 湯上がりの八神を手招く。長い髪は水を吸って重い。タオルで拭いてやるのを八神はじっと抗わない。財前は頭を撫でるように髪を拭く。すると八神の身体が傾いて、肩に額がぶつけられる。とうとうタオルで乾かすふりはやめて、財前もその身体を抱き寄せる。 元警官であり、イノベイター所属時も司令官の立場にありながら実戦を厭わなかった。若さのピークは過ぎても尚丈夫な身体を腕の中に、すると八神はその中で呼吸をする。自分以外の存在を、ぬくもりを、熱を、八神は確かめようとしている。だから石鹸は使わない。同じ匂いにはならない。自分が確かに財前宗助という男の腕に抱かれていることを、毎回毎回八神は実感しているのだ。 「随分寒くなってきた」 「まだ九月ですが…」 「あと数日で終わる。来月は塔子の運動会だ」 今宵の塔子の主張はこうだ。どうして運動会にはサッカーがないの? 障害物競走のドリブルで我慢しなさいと言ったが、塔子はむくれた。でも…、と付け加える。八神さんが来るなら、がんばろうかな。 まるで二人の娘のようだ。天は、そしてかつての妻は掛け替えのないものを授けてくれた。子はかすがいと言う。しかし妻の手はすり抜けていったではないかとは言わない。かすがいは、また別のものを繋ぎもしたのだ。 「もし…」 低い声で八神が囁く。 「もし、お邪魔でなければ」 「邪魔なものか」 財前は八神を抱いて笑う。 「弁当は二人で作ろう、八神くん。三人分の弁当だ。豪勢にいくぞ」 はい、という返事が笑いを含んでいたので、財前はようやく安心して八神の唇を奪った。
心を満たす地球食
もうすぐ宇宙に行く、それが現実なのだとユウヤには分かる。彼の肌には常に現実しか触れない。それがどんなものであっても。とられる手のぬくもりを記憶したのは――あるいは思い出し直したのは――最近のことで、冷たく痛みを伴うものは尚更馴染みのものとして身体がそれに向かって動き始める。 ――でも。 ユウヤはキッチンに佇み、手の中のトマト缶を抱く。目の前では刻んだ野菜たちが鍋の中でくつくつと静かに煮えていた。透き通った玉葱、じゃがいもと、彩りを添える人参、莢隠元、それからホールトマトはたっぷりと。古城アスカにリクエストされて多めに入れた。手の中のもう一缶は、流石に多いかなと思って躊躇ってしまったけれど。 料理の匂いが分かるまでユウヤは時間がかかった。味覚、嗅覚と嗜好が結びつくようになったのは、ジンたちと合流し行動を共にするようになってからだ。今では皆で食事をするのは楽しいし、料理も美味しいと思えるようになっている。 流しの上の棚を開け、調味料の瓶を選ぶ。取り出したローリエの葉を一枚、摘んで鼻先にかざした。目を瞑る。 ――宇宙に行ったら料理もできなくなるのかなあ。 資料で見た宇宙食はどれもパックされていた。否、それ以前に食事を摂る余裕のある戦いであるか…。 ユウヤは目を開くとローリエを散らし、再び蓋をする。 皆、気が立っている。現実を目の前にして。戦うべき現実を見据えれば、常に笑顔ではいられない。唇を結び、目元は険しくなる。 ――ジン君。 彼は常にバンたちのことを気にしている。特にリーダーであるバンには心配の種が多すぎる。その心を支え、現実をサポートできるのは――確かにバトルの相棒はヒロかもしれないが――、やはりジンなのだ。 ――少しでも。 自分にできることは多くない。この身体、不完全で隙間の多い心では。バトルのない時間は、特にこんな時間は、誰かを慰めることも支えることも。しかし何もできない訳ではないのだと、ユウヤは気づき始めていて、こうやってキッチンに立っている。 途中ですれ違ったアスカが言った。 ――何か作んの? ――うん、何か。 ユウヤはCCMでレシピを検索していた。 ――こういう時はやっぱりトマトだぜ! ――トマトの…料理…? ――あったかいのが一番だって、ガチガチになってもいーことなんかねーよ。 で、リクエストのミネストローネだ。 リクエストをするだけして駆けていこうとするアスカを呼び止め、ユウヤは尋ねた。 ――どこに行くんだい? ――トリトーンと遊んでくる。 遊んでくる、だなんて。しかも相手がジンではなくてLBXの名前を出したところが、笑いながらも頷いてしまった。 ――今頃、トリトーンは勝っているかな。 ユウヤはジンが負けるとは思わない。それは確かに古城アスカは現世界チャンピオンだし、ヴァンパイアキャットの強さも知っているが。 ――ジン君が笑ってくれるといい。 使命でも世界を救う戦いでも、特訓でさえないバトルで、冷たく痛みを伴う現実の中でも失われない心の喜びが灯ってくれれば、そう思う。アスカはそういうことを考えて、あのように振る舞っているのだろうか。 ――だとしたら、かなわないなあ…。 そう考えながら微笑むユウヤもまた人間としての人生を歩んでいるのだ。まだ今は自分が微笑していることにすら気づいていなくとも。 塩と胡椒で味を調え、パルメザンチーズを入れたらできあがり。できたてのミネストローネをマグカップに入れ運んでいると、香りのよい湯気につられて早速駆けつけたのがアスカ。 「いっただきまーす!」 どうぞと促す前にはカップを掴んでいる。しかし。 「あっつ!」 大仰なリアクションで口を離し、舌を出す。 「あづいー」 「慌てるからだ」 後について食堂に入ってきたジンが苦笑し、ユウヤと顔を見合わせる。 「どうぞ、ジン君」 ユウヤはマグを手渡す。 「ありがとう」 ジンはそれに一吹き息を吹きかけてから口をつける。 「オレのもー」 「それくらい自分でできるだろう」 にべもない言葉に、アスカはぶーと言いつつ息を吹きかける。ユウヤは二人のはす向かいに腰を下ろすと、自分のマグにそっと息を吹きかけた。 ――香りが…。 湯気のぬくもりを帯びた香りが身体を包み込む。一口飲むと身体の内側から表面までじんわりとぬくもりが広がるのを感じた。 「美味しい」 ジンが振り向く。 「うん、美味いよ」 ようやく口をつけたらしいアスカが口元を赤くして笑う。 「ありがとう」 その時ユウヤの熱が最初に生まれたのは心臓で、ああ、僕は現実の中に生きているんだな、と震えそうになり軽く唇を噛んだ。 「ユウヤ?」 「なんだよ、自分で作ったのに熱くて泣きそうになってんの?」 アスカがテーブルから身を乗り出し、ユウヤのマグに思い切り息を吹きかける。ジンが、行儀が悪いぞ、と言ったが積極的に止める様子はないようだった。目のあった二人はまた微笑み、ユウヤは自分の息をもう一度マグの上に吹きかけた。あたたかな香りは食堂一杯に広がり、また新たな客人のやって来る気配がした。
2012.10.14 以前ついったで書いたものとか
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