夜天水










 木桶に満たされたぬるい湯の中に身体を落とすと、この身体が夜の中に溶けていくようでユウヤは目を閉じる。体温よりわずかにぬるい湯の中に肉が溶けて血が沈み骨がさらさらと砂のように散る。その中でも魂は生きていて、ふと湯からも甘い匂いが漂っていることに気づいた。桂花の香りだ。中庭の銀木犀の香りだろうか…。
 先生、と外の闇から呼ばれユウヤは瞼を開く。壁に引っかけたランプの明かりに黒い水面が見えた。木桶の艶々とした黒だ。そこに小さな白い花が散っている。銀木犀の花。
 ぬるい湯に顔を半分沈めたままユウヤはそれを眺めていた。再び、先生、と呼ばれ顔を上げる。
「どうぞ」
 木戸の軋む音がして背の低い人影が這入り込む。それを衝立越しに影で見る。
「服を持って来たよ、タオルも」
「かけておいてくれないかい」
 すると衝立の上にばさりばさりと洗い立てのシャツやタオルがかけられた。その後も暫く、衝立の向こうの気配は去らなかった。
「…先生、下着」
 ユウヤは小さく笑う。
「ここに」
 衝立の影から顔を覗かせたのはこの家の小僧で、はにかみながら木桶の横の小さな椅子に下着を置く。ユウヤは顎まで湯に沈んだのを、少し首を反らし、相手を見てからありがとうと言った。
「先生、眠っていた?」
「かもしれないね。お湯が気持ち良かったから」
「今日の湯はオレが焚いたよ」
「ありがとう…」
 そう言って頭を撫でようと手を伸ばした時、下着の下で何かが震えた。小さな、くぐもった音楽。小僧が下着を持ち上げると、椅子の上でCCMが光っていた。ユウヤは濡れた手のままそれを取り上げ耳にあてる。
「もしもし」
『ユウヤ』
「ジン君……」
 自然とこぼれる笑みが名を呼ぶ声にも滲む。すると電話の向こうでも微笑む気配がする。遠く離れていても、この瞬間二人は同じ空間にいる。同じ星の上、同じ空の下、ジンがそこにいればそれだけで笑顔を与えてくれるし、ユウヤはさざ波が岸辺から川面に跳ね返るようにそれを返す。
『一緒に食事をしないか』
 ジンは言った。
「いいね、そうしよう」
 ユウヤは頷く。
『すぐに行く。待っていてくれ』
「うん、君を待ってる」
 通話は終わり、ユウヤは木桶の縁から腕をだらりと垂れさせる。掴んだままのCCMから冷えた湯の雫がぽたりぽたりと床に落ちる。
「先生…?」
「明日の夕食は二人分、用意してもらえないかな」
「誰か来るの」
「ジン君が来るんだ」
「ジン…」
 小僧の発音は清らかという意味の『浄』とも、穏やかであることを現す『静』とも同じ響きだった。ジンという、いつも呼ぶ名の中にユウヤは夜の景色を見た。耳を澄ますと漓江の静かな水音がここまで聞こえて来た。窓辺では漏れる明かりに惹かれたか、虫が鈴を転がすような声で鳴いている。それらの中に、彼の瞳や声の静けさ、凛としたたたずまいを思った。
「…とても大切なお客様だよ」
 ユウヤが言うと小僧は首を傾げる。
「ジン…は先生よりも偉いのか?」
「世界大会では秒殺の皇帝と呼ばれている人だよ」
「海道…ジン!」
 小僧の顔がぱっと明るくなる。こんな所にまで彼の名は知れている。微笑ましく小僧を見つめたユウヤは木桶からわずかに身を乗り出した。
「明日の夕食は、頼むね」
「まかせてくれよ、先生!」
 頬を紅潮させた小僧は足音高く部屋を出て行き、階段の途中で家の主人に怒られていた。短い怒声が響いた後は、また静かになった。川の水音、虫の鳴く声以外は聞こえない。ユウヤはCCMを椅子の上に戻した。下着は興奮した小僧が放り出してしまったので床の上に散らばっている。
 白い花の浮いたぬるい湯を、掌で腕に滑らせる。
 ――明日は綺麗にしていないと…。
 身体を洗い、何度も何度も髪をすすいだ。ジンが来る。ここまでやって来る。逸る心臓の上をぎゅっと押さえると思わず溜息が漏れて、水面の花を散らす。
 木桶から出たユウヤは素裸のまま窓辺に寄った。ランプの明かりは衝立の向こうで、瞳はあるがままの夜の暗さを映し出す。窓を開けると澄んだ夜気が部屋の中に流れ込む。
 見下ろす村には街灯もない。この小さな古鎮は、今でも昔ながらの生活を送っている。日が昇れば漓江に筏を出し、魚を獲り、日が沈めば夜がやって来て一日の終わり。生活の明かりも見下ろす黒い屋根屋根の下に隠され、そこには日が落ちて静まりかえった川と、夜空に聳え立つ岩の峰々の影しかない。その先の空は…ざくざくと音を立てそうな数の星が瞬いている。
 今きっと走っているのだろう彼の頭上に広がるのは晴れの空だろうか。十月のボストンは黄葉が綺麗だろう。彼の足が綺麗に舗装された道を走る。楓の黄色い葉を踏み、蹴り上げたそれが舞い上がるのが瞼の裏に浮かぶ。たった今A国を出発したジンが、たとえ文明の利器たる飛行機や鉄道を駆使しても、ここに到着するのは明日の午後だろう。
 髪が冷えてしまう前にユウヤはそれをタオルで包んだ。小僧が散らかした下着を身につけシャツを羽織る。ランプの灯を消すと、音もなく星明かりが窓から落ちてきた。寝台に腰掛け、足の甲に星の光を受けた。
 織りの粗いシーツの上に手を滑らせる。
 ――明日の夜は…。
 考えても詮ないことだった。ユウヤはそのままずるずると横になり、枕とは反対方向に頭を置いて目を瞑った。

 中国は世界にも有名な景勝の桂林、漓江。その川を南へ下るとやはり観光都市として賑わう陽朔に至る。しかし奇峰、絶景のこの漓江、山水画の世界そのものと謳われるこの土地はそもそも両岸に豊かな緑を抱く農耕地であり、長閑な時間の流れる場所だ。ユウヤの滞在している漁村は陽朔県の外れにあたり、背にはすぐ絶壁の奇峰の迫る小さな古鎮だった。
 今朝から雨の降るような空模様だった。低い雲が峰々の頭を撫でてはぱらぱらと雨粒を降らせる。ユウヤはいつものように軒下の席に陣取り、朝の粥を食べていた。川面には竹で組んだ筏の姿が五、六ぽつぽつとあるばかりで、まだ静かだ。これが昼頃になると観光船が次から次へと下ってくる。この付近は得に有名な景勝だが、それは峰の鋭さと同じ事。船は接岸することなく流れるばかりだ。観光のための客が訪れることは滅多にない。
 粥を食べ終えたユウヤのところに家の主人が顔を出した。ここに来て一月、ユウヤが身を寄せているこの家は元村長の家だったらしく、村でも一二を争う大きな家だ。今では一階を食堂に、上の階は村で唯一の宿としていた。今のところ、客はユウヤだけだ。
 主人が手招きをする。奥に据えた立体テレビの調子がおかしい。確かに光線が一色抜けているらしく、ニュースを読む女性キャスターの顔がやけに青ざめている。
「先生、頼むよ」
 ユウヤは頷いて機械に手を触れた。
 その修理が終わる頃、また別の家からも呼ばれ、家から家を渡り歩くことになる。狭い石畳の道は降っては止む雨のために黒く濡れていた。舗装したのも、もう随分昔なのだろう。所々石が浮いている。そんな段差をも楽しげに走る小さな小さな影がある。LBXだ。カンウとリュウビがかけっこをするように走り抜け、その後を古い型のCCMを掴んだ子ども達が追いかける。どちらも使い込まれ、年季が入っていた。
「先生!」
 振り返ったのは宿の小僧だ。
「また遊びに行くね!」
 ユウヤは手を振って子らを見送る。リュウビも、カンウも、既に竜源社が生産を終了したLBXだ。それがまだこんなにも元気に、しかもダンボールの中ではなく街中を駆け回る光景は、世界中でもここでしか見たことがなかった。彼らの姿が一軒の大きな家の中に消える。今の村長の家だ。息子がDキューブを持っているのだ、そこに集まるのだろう。それを見届けると、ユウヤは木戸をくぐって呼ばれた家に入った。そこでもまた先生と呼ばれた。
 アイロンの修理を終えた時、ちょうどラジオが正午を伝える。ユウヤは川のすぐ側までせり出したその漁師の家で昼食を呼ばれた。アイロンが直って良かった、アイロンが直って良かった、と呟く老婆と向かい合いに座り、薄味のスープに米粉の麺をつけて食べる。
 老婆は、もうすぐ息子が漁から戻ってくるはずだから、とユウヤを引き留めた。土産の一つでも持って帰れと言う。
「先生が来てくださって、みんな感謝しとるに」
 訛りが強いが聞き取れないことはない。ユウヤは老婆に連れられて桟橋まで下りた。竹製の桟橋は古く揺れたが、老婆は何てことのないように歩く。ユウヤもまたそれに倣うように後ろを歩く。
 手を翳して上流を見ると薄い雲が晴れ、幾筋もの光が峰の間に落ちている。川面もまたきらきらと光りながら次から次にやって来る観光船を南へ流した。ふと、そのラッシュが途切れ、二艘の筏が下ってくるのが見えた。
 ユウヤは息を飲んだ。隣では老婆が大声で息子の名前を呼ぶ。一艘の筏を操る男が手を振る。そしてもう一艘の筏を操る男が挨拶をするように手を振っているのだが…。
 筏の乗せているのは魚を入れた魚籠だけではなかった。人がもう一人乗っていた。本来船頭のものなのだろう編み笠を被り、肩をさっきまで降っていた雨に濡らして。
 漁師は桟橋に上るとやはりユウヤに向かって、先生、と挨拶をし、後ろの筏を紹介した。
「ちょうど従弟と会ったんだ。桂林からここまでのお客を乗せてるって言うからびっくらこいたね」
 同乗者は船頭に編み笠を返し、こちらを見て微笑む。
「待たせたな。遅くなってすまない、ユウヤ」
 筏の上からジンが言う。ユウヤは手を伸ばして彼が桟橋に上がるのを手伝い、応えた。
「ちっとも待ってないよ」
 漁師は夕飯のために獲れたての魚を届けると約束した。その従弟はエンジン付きのボートに曳航され、漓江を桂林に向けて溯る。それを見送りながら、二人は暫く河原に佇んでいた。
「早かったね。夕方くらいになるかと思ってた」
「本当はもう少し早く着きたかった。こちらに来てからの方が時間がかかってしまって」
「そうそう、僕」
 ユウヤは笑いを零す。
「君がどうやってここまで来るのかなって。もしかしたら飛行機から飛び降りるんじゃないかって思ったんだ」
「こんな美しい場所でそんな無粋な真似はしないさ」
 今は涼しい青空の下に、カルストの白い岩肌を露わにした峰が美しく聳え、竹の緑がその深みに趣を与えるのをジンは見渡す。
「この座標を見た時は驚いたが…」
「君は砂漠の真ん中にだって駆けつけてくれたんだもの」
 ユウヤはそっと腕の触れる距離に寄り添った。
「僕は君のことを信じているよ」
 ジンの手がユウヤの手を掴んだ。ぎゅっ、と一度握手をするように握り、それから双方名残惜しげに離れる。
「先生!」
 背後から呼ぶ声がした。小僧達が早速新しい客の来訪を聞きつけたらしい。
「久しぶりにバトルをしようか」
 ユウヤはジンの顔を覗き込んで言った。わずかに寄せられた眉に残念そうな気持ちの名残を見留ながら、ね、と促す。
「あの子達、ジン君が来るのを楽しみにしてたんだよ」
「君よりもか?」
 不意な切り返しにユウヤは一瞬口を噤み、…まさか、と囁き返した。
 ジンが頬を緩め、ポケットからDキューブを取り出す。展開すると、わらわらと集まってきた子らからまたわっと山のような歓声が沸いた。

 夕暮れの路地を宿を目指して歩く。どこから追い立てられたのか鴨の親子連れが通りを占領し、また別の家の庭に入っていくまで二人は青煉瓦の壁に寄って、踏みつけないように避難していた。まだまだ高い声で鳴く雛達がぞろぞろと親の後をついてゆく。後ろの方の子が浮いた石畳に躓くとユウヤは思わず声を上げ、ジンがそれを優しく見守った。
 宿では主人が、届いた魚の料理がもう少しで出来上がる、とユウヤとジンをいつもの席に案内した。ほとんど路地にも近い軒下。しかしそこからは古鎮の全景と漓江の夕景を贅沢に見渡すことができる。
 橙色に染まった空にシルエットとなって聳える岩の峰。その影は天女の姿とも言われている。江は青羅の帯をなし、山は碧玉の簪の如し…、とジンがここに来るまでに覚えたのだろう歌を口ずさむ。
 その時、紗のかかったように目の前の景色が煙った。遅れて雨音が聞こえた。激しいものではないが、急なことで二人の肩は思わず跳ねた。
「晴れているのに…」
 ユウヤは軒下から天を見上げる。
「天気雨だ」
 ジンが呟いた。ユウヤは軒から滴り落ちる水を掌に受けた。
 景色は雨のなかいよいよ明るさを増した。雨に夕陽が反射し、光景一帯がぼんやりと朱鷺色の光を孕んで見える。空気そのものが色づき、ぬくもりに包まれているかのようだ。
 不意にジンがユウヤの手をとった。軒から落ちた天水が掌のくぼみに溜まったのに口をつける。
「…君が飲んでいる水の味だな」
 掌の杯をハンカチで丁寧に拭って返す。
「うん」
 ユウヤはまだしっとりと雨の気配を残した掌を唇にあて、目を伏せる。
「そうだよ」
 夕飯は蒸した魚と唐辛子味噌で味をつけた貝のスープ、それに米粉の麺だった。
「さっき獲れた魚か」
「ジン君は釣るところを見てたの」
「ああ。鮮やかなものだった。…そう言えば彼らは何故君を先生と?」
「最初はこの家の子どものLBXを修理してあげたんだ。そしたらあちこちから家電製品とか時計とか、そういうものの修理を頼まれるようになって…」
「君には似合うかもしれないな、先生」
「そんな。きっとジン君の方が似合うよ。名コーチだし」
 それから日本にいるランや、バンやヒロ、A国のジェシカの話、十年前の思い出話に花が咲いた。二人は話をしながらゆっくりと同じ食事を味わった。
 急に頭上が明るくなる。戸の透かし彫りの影が足下に落ちる。明かりがついたのだ。気づけば夕景は黄昏の闇に沈んでいた。涼しい風が吹いて、虫の音が耳に届く。最後に泉の清らかな水で乾杯して、食事を済ませた。
「今日は…」
 皿の退かれた卓の上にユウヤは両手を組む。
「もう帰れない」
 ジンが軽く頬杖をつく。
「上の部屋は空いているか」
「うん、きっと」
 視線が合う。ユウヤが何も言えずに見つめると、ジンの手が伸びて優しく頬を撫でた。
 ジンは何も言わなかった。ユウヤも。宿の主人も何も言わなかった。しかし小僧は木桶に銀木犀の花の散った風呂を用意したし、タオルは二枚衝立にかけられていたし、寝台には枕が一つ増えていた。
 先に湯から上がったユウヤは窓を開けた。涼しい風。中庭の銀木犀の香り。ランプの明かりは衝立の向こうで、仄暗い部屋からは満天の星空がよく見える。
 やおら衝立の向こう灯が消えた。ユウヤは寝台に横になり、軽く目を伏せた。音のない星明かりの下、彼の影が近づく。
 湯の匂い、銀木犀の柔らかな匂い。
「こんなところにいたんだな」
 耳元で、堪えかねるように囁かれた。うん、という短い返事が涙で滲んだ。
 指先から触れ合った体温が溶け出して、身体がなくなるようだった。それでも魂はそこにあって、寝台の上でジンを抱きしめる。
「ユウヤ…」
 名を呼ばれ瞼を開くと、自分の身体はそこにあってジンの首をきつく抱いていた。
「ジン、君……」
 静かな、浄らかな、穏やかな抱擁がユウヤの肉体を現世に、魂をこそ別天へ誘う。漓江の澄んだ水面にたゆたう銀木犀の小さな花のように、ユウヤは翻弄され、掴まえられ、彼の手の中に戻ってくる。夕暮れの軒下でジンが飲んだ水こそ自分なのだと知る。

 翌朝、陶器の触れ合う小さな音がして目が覚めた。ジンはまだ隣にいた。彼の腕を枕に目覚めたユウヤはぼんやりと部屋を見渡した。ちょうど木戸が静かに閉まったところで、卓の上には茶器が並んでいた。
 朝靄に霞む漓江を眺めながら熱い茶を掌に抱く。香りのよい桂花茶は二人を目覚めさせながらも、夢心地のようなあたたかなぬくもりを与えてくれた。
「今日はどうする…」
 ジンが控え目に尋ねる。
「君と一緒に行こうかな……」
 ユウヤは答えて、微笑みの広がるジンにお茶のおかわりを注いだ。



2012.10.10 虫歯。様、リクエストありがとうございました。
ダン戦/ジンユウ/落ち葉、落葉樹、匂い、天気雨、夕焼けといった秋っぽい雰囲気