プリーズ、リトル・モア
目覚めの瞬間に自分以外の体温がすぐそばにある、という体験は山野バンの経験の中でも多くなくて、確かに自分の部屋は持っているけれども昔は母親の布団の中に潜り込みにいくことがあった、あれはいつまでのことだったろう。この二次性徴期を迎えてからは勿論ないが、多分父が姿を消してからだろうな、と思う。あれからあまり甘えた記憶や我儘を言った記憶がない。殊更物分りがいい訳ではないのだが。 ――母さんにはいつも迷惑かけてるし、去年から心配させっぱなしだし…。 家にさえ長く帰っていない。それなのに、目覚めてみるとすぐそばに体温がある。 ――変なの。 目覚ましのアラームよりも早く起きた。ブラインドのせいで部屋の中は真っ暗だったが、枕元の時計と幾つかのボタンがぼんやり蛍光色に光っていた。ボタンを一つ押すとガシャンと音がして意外と広い窓から朝日が差し込む。直射ではなかったが部屋全体が真っ白に照らされるような急激な変化だった。バンは枕元のCCMを取り上げて、もう一度時計を見る。土曜日、朝五時五十五分。 二度寝をしようとは思わなかった――どうせあと五分でアラームが鳴る。しかし動けないのはヒロの手が自分のTシャツを掴んでいるせいだ。ヒロはまだすうすうと寝息を立てていた。傍らの体温、大空ヒロ。隣のベッドはシーツの皺もない、きれいなままだ。 ――寝ぼけたってことじゃないんだな。 昨夜は一緒におやすみを言った。しかしヒロがベッドに入るところは見ていない。あっ、トイレ、と言ってヒロはドアの向こうにUターンした。 ――オレ、全然気づいてなかったのかなあ。 掴まれたTシャツをどうしようともできず、また考えず、何となく見下ろしていると不意にヒロの瞼が開く。バンが思わずビクッとしたのだがそれには構わず腕をバッと伸ばして、鳴ろうとしていた枕元のアラームをコンマ一秒差で止める。神業的な素早さだった。 くぅー!と声を上げながらヒロは伸びをする。 「おはようございます、バンさん!」 「…おはよう」 「うひゃー、もう朝ですね。五分くらいしか寝てないと思ったのに」 「熟睡したんだな」 「バンさんは?」 「まあまあ、かな」 ゆるく笑う。何か言うことがあるだろ、と思うがヒロはベッドを飛び出てポンポンと服を脱ぎ捨て、いつもの服に着替える。それから脱ぎ捨てた服を拾い、自分で洗濯しないでいいって楽ですよね、とランドリーサービスのボックスに入れた。バンもようやくベッドから起き出すとTシャツを脱ぐ。ひんやりとした朝の空気は、窓を開ければもっと爽やかだろうに。NICS本部は森に囲まれている。ここからは建物の影になって見えないが、向こうには湖もあるという。 「さ、朝ごはん食べに行きましょうよ、バンさん」 「ヒロ」 呼ぶと、約束、忘れてませんよー!とヒロは笑った。 「ぼく、昨日から楽しみで楽しみで夜も眠れなかったんですから!」 「寝てただろ」 「へへへ」 バンも着替えを済ませ、部屋を出る。ヒロが、ちょっとトイレ、と言ったが、そのちょっとに随分待たされた。朝早いのは平気なのに、と五分も待たされたころノックすると、週末の朝はアニメがあるから早起き必須なんです!という返事。 「トイレが長いとアニメにも間に合わないんじゃないか?」 「今日だけですよー、あともうちょっとですんで、すみません、本当にあとちょっと」 あとちょっと、あとちょっとって寝坊の言い訳みたいだな、と思いながら、ふ、とバンは通路の向こうから射す朝日に目を細めた。 ――あとちょっと、か。 地下鉄の階段を上るとぽつぽつと落ちる光は木漏れ日で、既に緑の匂いがする。最後の数段を駆け上ったヒロが、わあ、と声を上げた。二人は緑の只中に立っていた。 「ここ、Nシティですよね?」 「ユニオンスクエア」 「森みたいだ」 走りだそうとするヒロを呼び止める。 「そっちじゃないぞ、こっちこっち」 するとヒロは何がおかしいのか笑いながら駆けてきて、まるで犬みたいだと思う。すると途中でドッグランを通り過ぎたから、ちょっと吹き出した。 緑を抜けると視界を真っ白なテントの群れが埋め尽くす。まだ朝も早いというのに、そこには多くの人が詰めかけていた。樹木の匂いとはまた違う、新鮮で食欲を誘う緑の匂い。ここが昨日ヒロと約束をした場所、ファーマーズマーケットだ。白いテントの向こうにはやはりNシティであることを思い出させる高いビル群が建ち並んでいるが、すぐそばにブロードウェイ、木々の向こうはひっきりなしに走る自動車の群れ、コンクリートに囲まれているとは信じられない程、人間らしい活気と新鮮な香りに満ちている。 「すごい、こんな光景アニメでしか見たことありませんよ」 「センシマン?」 「他のアニメです。世界を旅するさすらいの剣士…」 アニメ講釈が始まるかな、とバンは身構えたが、タイミングよくヒロの腹が鳴った。大きな音だったので、買い物客まで振り向いてくすくすと笑った。 「行こう」 軽く肩を叩いて促す。 「はい!」 ヒロは顔を真っ赤にしながらバンの隣に並んだ。 ジェシカの朝食を断ってまで、ここに来たのだ。 「行くなら早く言ってくれればよかったのに」 フライパンを片手にジェシカは言ったが、父のカイオス長官の分の朝食もあるから残ると言う。ランは「だって今朝はお味噌汁が食べたいんだもん。お味噌汁と白いご飯じゃなきゃ一日が始まらない」とジェシカの隣に並んで言った。しかしそれを作るのはジェシカだ。フライパンを持って、今にも洋風の朝食を作ろうとしているジェシカ。しかしランに作らせれば白いご飯は確実に焦げるだろう。 何を食べるかは決めていない。美味しいパンの店が出ているとジェシカが教えてくれたが、二人はとうにその名前を忘れてしまった。だって眩しい朝日で白いテントはいよいよ明るく輝くし、その下には見たことがないほどどっさり並べられた野菜や果物の山、山、山。にんじんがとげとげの壁のようにオレンジ色の足をこちらに突き出していたかと思えば、隣は赤カブが石垣のように積まれている。まるで海の波のようにテーブルの上で波打っている大量のレタス。バスケットの中のマッシュルーム。集荷の木箱に入ったままのりんごがつやつやと光っている。どれもこれも、ラップやビニールでパックされたものは一つもない。 ヒロは、これ美味しそうですね、あっ、これも、と目につく端から一つずつ買っていく。片手に抱えた紙袋は既に一杯だ。ぴかぴかのりんご、甘酸っぱそうなベリーが一山、切ってもらったハム、本当に食べるのだろうかレタスが丸々一玉。 「魚も売ってます、ほら!」 ヒロが指さす。 「ランさんも来ればよかったのに」 「ここじゃ焼き魚にしてくれないだろうしなあ」 愛嬌のある店員が水揚げされたばかりの魚を両手で抱えてびちびちと震わせ、ひやかしの客を笑わせる。 「これください」 ヒロが赤身の魚を指さす。 「おいおい、ヒロ、財布大丈夫か?」 「心配ご無用です。ちょうど足りました」 「帰りの地下鉄代は?」 「あ……」 「コブラに迎えに来てもらおうか」 「へへ…すみません」 ジェシカの言っていたパンの店の名前は忘れてしまったが、多分それらしい店はすぐに見つかった。得に人気らしく人だかりができていたからだ。バンとヒロはパンに塗るジャムを試食する。ヒロはあまり甘くないと言いながら幾つも幾つも舐めていた。結局挟んでもらったのは味付きチーズ。直前に買った人のそれが美味しそうだったからだ。 サンドを片手に座って食べられそうな場所を探す。ヒロがベンチを見つけて足を速めるのを、バンはちょっと呼び止めた。 「先、行ってて」 オーガニックと緑色の文字で書かれたテントから懐かしい匂いが漂ってくる。簡易のカウンターの奥にはヒゲの男がいた。 「コーヒー、二つ」 バンは注文する。 「砂糖は?」 相手が東洋人と見てか、男は簡単な英語を丁寧にゆっくり発音する。 「いらない」 バンは首を横に振った。 コーヒーを手にベンチに向かうと、空腹を我慢しきれなかったのか、ヒロがサンドに最初の一口でもって噛みつくところだった。 「ふぉかふぇりなふぁい」 「行儀悪いなあ」 カップを手渡すと今度はその一口目を飲み込んで、ありがとうございます、と言った。早速口をつけるが、口に含んだまま急に目を潤ませる。む、む、と堪えるような声がして、ごくん、と勢いをつけて飲み込んだ。 「に、苦いんですけど!」 「砂糖入れてないからな」 「えー、バンさんはもうブラックコーヒー飲めるんですか?」 「最近だよ…」 バンも一口、口をつける。 苦い。 苦いと思う、それは変わらない。 「ここのことをオレに教えてくれた人がいてさ」 「え、ジェシカさんじゃなかったんですか」 「日本にいた人だよ」 バンは微笑み、コーヒーの揺れる水面を見つめる。 「昔、Nシティに来たんだって。そこで飲んだコーヒーがあんまり不味かったから、自分でコーヒーの店を始めたんだってさ」 「へええ…」 「その人はオレに絶対砂糖入りのコーヒーを出さなかった。ミルクも入れてくれなかった。だから、ちょっとずつ飲めるようになったんだ」 今でも、苦い、と思うけど。 ――レックス。 一年前の特訓の日々が、まるで遠い夢のようだった。廃工場を出た時には日もとっぷり暮れていて、バンはへとへとだった。LBX操作は確かに激しい運動ではないけれども、ひどく疲労する。精神力を使うし、それだけではない、と檜山は言った。頭の中でLBXをどう動かすか考えている時、お前の身体も自分が動いているのと同じ反応をしているんだ。磨き抜かれたカウンターにつっぷし、バンはそれを夢うつつで聞いていた。 「おい、バン」 「…眠い」 「起きろ、家に帰れ」 「もうちょっと…」 「仕方ないな」 それは家に連絡して泊めてくれる、という意味の仕方ないではなかった。漂ってきたビターな香りにバンはごろりと顔を上げた。檜山がコーヒーを淹れてくれている。レックスのあのパーカーを脱いで、レックスと檜山蓮の姿のちょうど中間のような格好で。 「これを飲んだら帰るんだ」 苦くて飲み干すことができないと泣き言を言ったが、檜山は決して砂糖を入れてくれなかった。ただ、家の側までは送ってくれたけど。 学校、特訓、それからブルーキャッツ。 苦いコーヒーと思い出話。苦いコーヒーの話、Nシティのファーマーズマーケット。 あの日々は遠い幻のようなのに、あの時話した景色の中に自分はいる。 ――レックス。 「…バンさん?」 「うん…、多分ヒロも飲んでるうちに慣れるよ。それに苦い方が目が覚めるだろ」 「目は覚めてますよ。っていうか、そのコーヒーの人って、レックスさんですか?」 「……何で」 極力感情を出さないようにしたのが逆に不自然で、異様に低い声で尋ねてしまったが、ヒロは気にしない様子で、だってアングラビシダスの話とかしてくれたじゃないですか、と言う。 「それにレックスって隠れキャラですから」 「隠れキャラ?」 「ぼくが得意なLBXのアーケードゲーム、バンさんと初めて会った日もやってたんですけど、あるスコア以上でクリアするとエキストラ対戦が出来るんです。それが伝説のプレイヤーのレックスです。LBXはGレックスですけど、名前がちょっと違うんです」 「何の?」 「名前の。本物のレックスって恐竜のレックスだから、エル・イー・エックスのLEXでしょう。でもゲームだと最初の文字がアールになってるんです」 ヒロは空中に文字を書く。 「REX」 「レックス」 「王様って意味なんです。だからラスボスで出てくるんです」 すごくかっこよくって、でもぼくもまだ何回かしか見たことなくて……。そう続くヒロの言葉もバンの耳を素通りする。 ――王様、ラスボス……。 手からこぼれ落ちたサンドが灰色のタイルの上を転がる。あっという大袈裟なほどのヒロの大声で我に返ったが、パンは既に鳩についばまれている。 「はは」 バンは短く笑い、コーヒーを飲み干した。 ――苦い。 しかし飲める。 「バンさん!」 ヒロは自分の手の中に残ったサンドをむしむしと二つに割り、半分を差し出した。 「あと、あとですね、これ」 紙袋から取り出したつやつやのりんご。ヒロはそれを両手で掴むと、手を捻るように動かす……動かそうとする、が、上手くいかない。 「これ、この技! さすらいの剣士ヴァンが」 「…バン?」 「ヴァンです! ヴァンがこう、両手でりんごを割る、ん、です、けれども!」 「無理するなよ」 「いいえ、二人で食べましょう!」 それを見かねたのか、通りすがりのマッチョな男が本当にそのやり方でりんごを割ってくれた。ヒロが屈託なく拍手をすると、イェー、と言いながら手を振って去る。 「バンさん、人生楽しまないと損ですよ」 「別に落ち込んじゃいないさ」 「ぼくが凄い買い物するから驚いたでしょう? これ、お母さんがそうなんです。平日の朝、急にお寿司が食べたくなったって言ってぼくを魚市場に連れて行ったんです。学校があるのに、そんなのお構いなしで。その時食べた押し寿司、美味しかったなあ。ぼく、オタクですけど、多分お母さんの血筋なんです。お母さんもオタクなんです。だから一生懸命なんです、毎日、好きなことに。オタクって好きなもので人生を楽しくする方法を知ってるんです」 ヒロはりんごを囓ると、その甘酸っぱさに顔を思い切りくしゃくしゃにして笑った。 「バンさんもそうじゃないですか? LBXオタク」 「…オタクって言うなら、オタクロスだろうけどね」 「ぼく、思うんですけど、やっぱり好きなものを集めちゃうと思うんです、人って。レックスさんも、コーヒー、好きだったんでしょうね」 そして思い切りカップの中身を呷ったが、やはり苦かったらしく息を止めて飲み干していた。 「でもぼくはやっぱり砂糖とミルクお願いします〜」 本当に涙目になっている。その顔を見下ろしていると笑いが込み上げてきた。我慢せずにバンは笑った。するとヒロもつられたように笑い出す。 笑う。胸が張る。自然と顔が上を向く。 広い、空。 雲一つない、抜けるような青空。 「コブラに迎えに来てもらうんじゃなくてさ」 バンは言った。 「ここでお昼食べようか」 「いいですね、それ!」 それまでの時間は勿論。 振り向けば、あちこちで展開しているDキューブ。剣戟の音がここまで響いてくる。 「タッグバトルですか?」 「いいや、まずヒロ」 エルシオンを取り出し、にやりと笑う。 「オレとバトルだ」 「はい!」 ヒロは目を輝かせて返事をした。 皆が駆けつけても、バンとヒロのバトルは終わらない。 二人は声を揃えて言う。 「あとちょっと!」
2012.10.7 naozane様、リクエストありがとうございました。
ダン戦W/バンとヒロ/Nシティ、中央公園のファーマーズマーケット、快晴 |