約束の次の駅まで










 深い眠りから目覚める、あの感覚。
 灰原ユウヤは瞼を開く。目の前に広がるのが地下鉄の車内の光景であることに少し驚いている。汚れたビニールのシートと、そこに腰掛けてめいめい目を閉じたり、CCMを覗き込んでいる人々。年齢も性別も肌の色もまちまちな人間たちの、互いに無関心な時間が同時進行で流れている。自分もその中の一人なのだ。誰も自分が深い場所に落ちていたとは気づくまい。地下を走る列車の轟音、トンネルに渦巻く風の唸り、天井の白々とした電気が明滅し、ほんの二秒、真っ暗になった。たった、その二秒の間に。
 闇と水音だ。常に皮膚の外側を満たしていた、暗い水。二秒間の闇は質量をもってユウヤを包み込み、深い場所に沈めた。底ではない。底は、ない。底なしの闇は絶望さえ消失する無感覚の世界だ。生と死の狭間、ユウヤが、人間としての根幹を本来形成すべき時代にその身を沈めていた場所。瞳に鮮やかな光は映らず、耳を優しく震わす歌もない、痛みと、痛みと、痛みと、慣れの末の無感覚。何もかも忘れてしまう。
 そこへ、触れた。
 かすかな振動がポケットを越して伝わった。ユウヤは瞼を開く。現実世界への目覚めを誘ったのは、震えるCCM。取り出す前から誰かは分かっている。自分を目覚めに導いてくれるのは、いつも彼だ。
『ユウヤ』
 その瞬間、彼の声だけが聞こえる。海道ジン、その静かな声がユウヤの世界を占める。
 ボストンからの列車が遅れているとのことだった。構わないよ、約束の場所で待ってる。
 駅に到着するとユウヤは一足先にハドソン川に向かった。腕の時計を見る。列車の遅れは半時間。川岸まで歩くことに決めた。ジンに会うのは半年ぶり、Nシティは約二年ぶりのことだった。
 何もかもが物凄い速度で移動するかと思えば、ふと路地に目を留めるとしゃがみこんだ痩せた男がいる。ホームレスだろうか。乗り捨てられたまま壊れた自転車。誰かに手向けられた花。動く時間も止まった時間も雑多に入り混じる、その大音量がいっそ交響曲のようなNシティ。ユウヤは静と動の狭間をゆくようにゆっくり歩く。
 川岸のグリーンウェイは歩行者と自転車のためのゆるやかなスピードで時間が流れていた。すぐ側を川が流れているからかもしれない。人が本来の時間のスピードを思い出し、それに合わせて歩くかのようだ。散歩する人、ジョギングをする人、自転車で追い抜く人との間でさえ、街中では感じなかった親近感が滲んでいる。結局約束の場所までたどり着いてしまった。ユウヤは船着き場の見えるところまで歩き、ようやく足を止めた。
 時計を見るよりその時刻を知るのが早い、ハドソン川を挟んで対岸のビルの谷間に太陽が沈もうとしていた。春の暖められた空気がゆらゆらゆらいで空を淡いピンク色に染める。もう少ししたらセントラルパークにも桜が咲くらしい。春の色だ。川面はそれより少し暗い薄紫色で、立つ波が夕日を反射して光る。都会の中にもある春の景色。ユウヤは微笑む。そして閉じたままのCCMを、そっと耳に当てる。
 耳の奥にはジンの声が残っている。また、遅れているんだ、と彼は言った。アムトラックが遅れるのはいつものことなのに、ジンは列車が止まってしまうと何だか自分のせいのように感じてしまうのだ。だから本当は飛行機で来たかったらしいけれども。
 ――そのうち、飛行機まで止めてしまうかもしれない。
 一人で笑うと彼が困った顔をするのが瞼の裏に浮かぶ。本人にそのつもりがなくても、彼のLBX開発者は飛行機だってロケットだって止められるような機体を作って、この秒殺の皇帝に使ってほしいはずなのだ。
 ――すると君も気に入るんだよ、きっと、ジン君。
 船着き場はすぐそこだ。約束の時間はまだ過ぎてもいない。お互いに約束の場所と約束の時間を決めているのに、それには早すぎるほどにやって来る。だから半時間遅れたとしても、きっと船には間に合う。別にディナークルーズでなくてもいいのだ、一緒に食事ができれば、屋台のホットドッグだって、何だって。
 二人は年に数度、こうやって食事を共にする。
『一緒に食事をしないか』
 CCMの向こうからジンが言う。
 世界中のどこにいても、その電話はユウヤに繋がる。
 ユウヤはその声に耳を傾け、ゆっくりと頷く。
『いいね、そうしよう』
 そう返事をすればジンはユウヤのいる所、世界中のどこへでも駆けつける。
 閉じ込められていた九年間の反動のように世界中を飛び回っているユウヤの元へ、ジンは一直線に駆けつける。トキオシティの花咲の道場の門前まで迎えに、あるいは雨の降るブリントンの空港、山野博士や八神英二と一緒に昼食を共にしたこともあった――でも夕食は二人きりで――、サンタクロースがサーフィンをする季節のオーストラリア、中国の山奥、針のように岩山の聳え立つ渓谷へも、世界の果てのような砂漠にも、必ず彼は駆けつける。
 ユウヤに会うために。
 二人で食事をするために。
 ジンが自分の為にやって来る、その時間を待つのが、好きだ。
 芝を踏む足音。遠くから雨音が近づいてくるように、さ、さ、と。
 ――もう少し。
 ユウヤは聴いている。雨が止むように足音が止まる。
 そっと瞼を開くと、耳の奥にこだましていた声が本物になる。
「ユウヤ」
 夕景を背に、切らした息を整えて、彼はかすかに微笑む。ユウヤの顔には内側から自然と溢れ出した笑顔が広がる。
「久しぶり」
 ジンは腕を伸ばして軽い抱擁をし、ユウヤもそれに応えた。それはほんの短い、二秒ほどの接触だったが、しかしユウヤにはジンの心が流れ込む。その控え目にとどめた微笑の奥、彼が露わにしようとしない感情が熱い水のようにどぷんと音を立てて胸へ流れ込む。
 ――嬉しい。
 ユウヤは指先に心を込める。
 ――僕も、君に会えて嬉しい。
 二人は黙って船着き場へ向かう。言葉は交わさないが距離は、歩きながら時々手の甲が触れ合う程度。二人は時々ちらりとお互いを見遣った。ユウヤにはジンが、ジンにはユウヤが正真正銘隣にいることを確かめようとするのだった。それは不安故ではない。いつだって心は常に隣にあると思っている。それは当たり前のような感覚だった。離れていても、心は側に。しかし相手が今改めて、すぐ手の触れられる距離にいるのが不思議な感覚をもたらしていた。何故、僕らは手を繋がないんだろう。…理由はない。何故、僕らは抱擁したままでいなかったんだろう。…理由はない。
 視線が鍵のようにかちりと合って、二人は足を止める。船は目の前だ。そこへ乗り込む時になり、ようやく手を繋ぐ。一緒に歩き出す。

 クルーズ船はハドソン川から黄昏のニューヨーク湾へ滑り出す。百万ドルの夜景を眺めながらのディナーだ。船内に座席数は多くなく、年の頃も落ち着いた老カップルや、今夜を勝負と決めているのだろう若いカップルの姿がぽつ、ぽつとあるだけで、その中で若い青年二人の姿は目立つかと思われたが、テーブルの距離と抑えた明かりがそれも違和感なく溶け込ませた。そもそもユウヤは誰にどう思われようと、まったく構わない訳だが。
 大切なのはジンと共に食事をするということ。
 同じ空間にいて、同じ料理を食べ、一つのものを共有する。それは時間、心、宇宙のレコードに刻まれる永遠の一部。
「いつ、Nシティに?」
 尋ねられる。まだこんなことさえ話していない。
「火曜日。それまではイタリアにいたんだ」
 答えながら目を細め、瞳の奥に蘇る景色を辿る。
「冬の間はフィレンツェで彫刻の勉強をしていた。先生が春の展覧会はローマだからと言って、それについて行ったら、飛行機から地中海が見えて…」
 ――僕は君に会いたくなった。
「海もいいなと思って、大西洋を渡ってみようかなって、久しぶりに」
「翼よ、あれがNシティの灯だ」
「そう」
 笑い声は控え目に、しかしとどまることを知らず湧き出る。
 摩天楼には灯がともる。百万ドルの夜景だ。湾の水面にも同じ明かりがともり、船の起こす波にゆらゆらと揺れる。水の底に都もあるかと覚えた文句を口にすれば、ジンは寂しそうに笑った。ユウヤは手を伸ばし、ナイフの止まったジンの右手の甲にそっと触れた。
「世界中の海は繋がっている」
「ああ」
「僕たちのお父さんも、お母さんも、この夜景を見ていますように」
 天国から、いや水底の都にいたとしても。
 やがて船はリバティ島に停泊した。女神の足元だ。そこから見る摩天楼は光の街、眠らぬ都市、生きた人間の住む世界だと思う。ユウヤはデッキから、少し冷たい春宵の風に吹かれて海の向こうの街を眺める。シャンパンを手にしたボーイが近づき、ジンが二つ手に取った。
「乾杯だ」
 ジンが言う。
 淡い月明かりのような色をした液体に立ち昇る小さな気泡。グラスの底から天を目指す。この乾杯には相応しい。
「乾杯」
 ユウヤは応え、グラスの縁を触れ合わせる。それから一口。残りは暗い海の底へ。パッと散らすと、一瞬時の止まったように、シャンパンの水滴一粒一粒に光の街が逆さに映って、夜の水面に溶けるのを見た。ジンはそれを見届けてグラスの中身を干す。死のために、生のために、シャンパンは捧げられる。誰も見咎めることはしない。空のグラスは持ち去られ、二人だけの儀式は黄昏の闇の中に秘密にされる。
 あれから二十年だ。
 二十年前の、いつか、雨の日、二人の運命を繋ぐ橋があり、崩れ落ちた。あの夜からユウヤの周囲を満たすもの。茫洋とした闇、暗い水音、喪失。失われたものは目の前から姿を消しただけではない、空虚としてユウヤを包んでいた。しかし今、触れ合ったジンの手の甲から熱と心がゆるやかに流れ込んできて虚ろを満たす。
「ジン君」
 囁くように呼ぶと手が握られた。
 年に数度の食事。離ればなれに暮らしていても絶対に欠かさない。
 春に、夏に。
 秋に、冬に。
 そのいずれかの日が自分の誕生日なのだろうと、ユウヤは思っている。
 彼は自分の誕生日の日付を知らなかった。今、胸にあるパスポートに記載されているのは戸籍が復活した日で、実際のそれではない。神谷重工はユウヤを実験体として所有する際、人間たり得るためのものを徹底的に奪い取ったのである。自由、意志、権利、そして心。戸籍などはいの一番だった。人間に対し、非人道的な実験を行う訳にはいかない。灰原ユウヤはトキオブリッジ倒壊後、収容された病院で一度死んでいる。
 ユウヤを人間としてこの世界に取り戻すために尽力してくれた人は多くいたが、誰よりも骨を折ったのは海道ジンだ。あの頃、若干十三歳だったにも関わらず、ジンはユウヤを被験体として行われたあらゆる実験を調べつくし、証拠を集め、灰原ユウヤがまだ人間として存在することを提示したのである。その中には過去の記録もあったはずだ。生年月日も記載されていたはずである。しかしユウヤはそれについて尋ねたことはない。
 覚えている。今でも記憶の底に残っている。テーブルの上のケーキ。揺れるろうそくの炎。吹き消すには頼りない自分の息。それを促す誰かの手、声。たった四本のろうそくが照らすテーブルには、何人の人間が座っていたのだろう。お父さん。お母さん。それから…?
 優しかった父と母。一緒にいる幸福をユウヤは覚えている。それから引き離され、一人になるという、孤独の恐怖も、病院のあの白いベッドに着く前から知っていた。両親は幼いユウヤに幸福も寂しさも教えたのだ。誰もいない夜は怖い。独りになるのは寂しい。さあ、ろうそくを吹き消して、と優しく促した声と手が同じようにドアを閉めた。おやすみユウヤ、一人でもいい子にしているんだよ。扉が閉ざされる。闇が包み込む。水槽の水音だけが耳に響く。手を握ってくれる人は誰もいない。
 おとうさん。
 おかあさん。
 ひとりにしないで。
 ユウヤはジンの手を握り返す。するとジンは更に強く握りしめる。痛いほどに相手の存在を感じる。体温が血流のように流れ込んでくる。そして痛みと熱の中でユウヤは歓喜する。
 僕はひとりじゃない。
 誕生日を知ろうとしないユウヤをそっと祝ってくれるジン。しかし誕生日の日付なんて、もう大したことじゃない。僕は何度も死んで生まれ変わった。雨降る夜の川の水底から、病院の真っ白なベッドの上、君の隣へ。カプセルの、黄昏の闇の色をした液体の中から、アルテミスの会場へ、君の目の前へ。意識を砕かれた闇の中から、夕日の照らすベッドの上、君の視線の下へ。そして今だって、湾の黄昏の闇の中から生まれ変わる、ジンが手を繋いでくれている、この肉体の中に。
 ユウヤは地下鉄の二秒の闇の中から自分の魂がようやく帰ってきたのを知った。
 君がいる世界に、僕は確かに生まれてきた。
 海のそよ風と共にシャンパンの酩酊がユウヤを包み込む。それはシャンパンの香りと、頬を掠めたジンの唇と、頬に涙が流れていることを教えてくれるキスの優しさだった。ガラスの船室ではバンドの演奏が始まっていて、ワルツを踊る人影がデッキにも揺れた。ジンの腕はユウヤを抱き寄せ、音楽に合わせて背中を叩いた。

 二人は並んでマンハッタンを地下鉄の駅へ向かって歩く。小雨が降り出していた。しかし二人は急がなかった。雨と夜の闇がほどよく他人との距離を空けていて、走り来ては流れ去るヘッドライトやショーウィンドーの明かりは浮遊する灯のようだ。
「海の中を歩いているみたいだ」
 濡れたウィンドーに映る姿を見て呟く。
「寒くないか」
「ううん」
「風邪を引かないように…」
 地下鉄の看板はもうすぐ側に見える。ジンの足が躊躇うように歩調を落とす。別れの言葉は紡がれず、二人はただ黙って立ち止まった。
 腕がゆるく抱き寄せる。別れの抱擁とも、名残を惜しんでいるともつかない。柔らかな接触。ユウヤも一歩相手の腕の中に踏み込んでそっと身体を密着させた。左手で腕をなぞる。掌がぴったりと触れ合い、指が一本一本絡み合い、ぎゅっと繋がれる。
 ああ、と声にならない声が聞こえた。ジンが溜息を堪えているのが分かった。皮膚を一枚隔てて声が聞こえる。
『本当は、離したくない』
 しかし決してそれは口にすまいとストイックな横顔が雨の夜を見つめている。
 ユウヤはその肩に顔を埋める。
『本当は、離れたくない』
 皮膚を一枚隔てて、伝えることができない言葉。
 もし本当にそう口にすれば…、ジンがユウヤの肩を掴んでそう言ってくれたら、ユウヤはもう世界中のどこにもいかずジンの側に留まり続けるだろうし、独り言のような呟きでもユウヤがそう言えば、ジンはこの手を絶対に離さないはずだった。
 叶えたい願いは分かっている。
 しかし、在りたい望みも分かっている。
 二人は自由でなければいけない。この心は世界中の法に照らし合わせても相手のものなのだから、二人は一つなのだから……だからこそ、この身体は隔てられて、お互いに一人の人間としていなければならない。
 ――君の歩みを止めてはいけない、僕が…。
 そしてジンも望んでいるのだ、世界中の誰よりも、ユウヤには自由でいてほしいと。
 掌の間に隙間が出来て、春の雨の湿った空気が流れ込む。二人は顔を見合わせ、ユウヤはジンの全てを隠すような表情の上、頬にキスをする。
「また電話をする」
「僕もかけるよ」
「約束だ」
 キスの…時間の数えられない数秒の間にユウヤは泣き、ジンもまた泣きそうなのだという心が流れ込んで来て、君も一緒なんだね、と泣き止み、微笑む。
 抱擁がほどけ、地下へ向かう階段の暗がりジンの後ろ姿を呑み込み、ユウヤは一人で歩き出す。畳んだままのCCMを耳にあてて、耳の奥に残ったジンの声を蘇らせようとする。
 ――たった今まで、君と手を繋いでいた…。
 気づいた時には雨が強くなっていた。帰りは飛行機だと言っていた。果たして飛ぶだろうか。春雷がNシティの空を震わす。
 ユウヤはCCMを開き、ジンを呼び出す。そう長い時間は待たなかった。
『…地下鉄が止まってしまって…』
 ジンの申し訳なさそうな声に、ユウヤの口元にはふわりと笑みが広がる。
「ジン君」
 相手の頬を撫でるようにCCMに手を当て、雨の空を見上げる。
「今度は僕が迎えに行ってもいいかな」
 雨の飛行場に行くまでもない。途中下車はいつでも可能だ。電話の約束を叶えたら、次は…。
『ユウヤ』
 地下鉄の暗闇の中から、ジンが囁く。
『待っている』
「すぐに、今すぐに行くよ」
 CCMをポケットに突っ込み、息を吐く。ろうそくの火を吹き消すように、ふうっ…と肺の奥まで息を吐き尽くして、吸い込んだ、次の息を止める。
 水たまりの水を跳ね上げ、次の駅を目指してユウヤは走る。



2012.10.2 とむ様、リクエストありがとうございました。
ダン戦/ジンとユウヤ/20代のユウヤ寄り視点で人のルーツ、誕生日について