海浜の浄土










 灰原ユウヤ重篤の報せが海道ジンの耳に入ったのは二〇五八年、十月のことだった。
 ボストン北部、チャールズ川を挟んで接する緑の多いケンブリッジ市はすっかり紅葉し、これからやってくる雪の季節を前に穏やかな秋を満喫していた。ジンの運転する自転車も歩道の落ち葉をかさかさと巻き上げ颯爽と駆け抜けるところだったが、彼はその自転車を投げ出しタクシーを拾うと空港に向かった。取る物も取り敢えずではない。何も取らず、大学の帰りの格好のままだった。午後の約束を反故にされたサイバーランス社の西原誠司が異変に気づいて空港まで追いかけ、苛々としながらキャンセルを待つジンを掴まえる。
「どうしたんですか、突然」
 ジンは黙して語らず、ただならぬ様子に、彼がここまで動揺する理由は多くはない、と悟った西原が空港内の店でちょっとした旅支度を調えて小さなボストンバッグを手渡す。
「必要ない」
「勿論、私だってあなたのカードの色は知っていますが…」
 西原は溜息をついて言った。
「備えあれば憂いなしですよ。長くなりそうですか?」
 ジンは沈黙する。分からない、何も。重篤という言葉が一体どんな状況を指し示しているのか、具体的なことは何も知らない。メールが教えたのはその一文と病院の名前だけだ。日進月歩の情報化時代も半世紀過ぎたというのに、何故大昔の電報のようなものしか送られてこないのだろう。
「ジン君」
 名前を呼ばれ、肩をぎゅっと掴まれた。西原が真面目な顔をして肩を掴んでいた。手ばかり矢鱈に力をいれてぎりぎりと掴む。
「痛い」
 ひとこと言うと、ふ、と肩から負荷が消える。ふわりとほどけるような消え方だった。
「何だ」
「ご自身にも肉体があることをお忘れなく」
 西原の手が離れるのと一緒に肩の強張りが少し取れる。緊張していたのだとジンは気づいた。肩を強張らせ、奥歯を噛みしめて床を睨んでいた。
 大きく息を吐く。肩から力が抜けると共に身体が前にのめった。
「…しばらく帰らないかもしれない」
「そうですか…」
「後は…何も分からない」
 西原はジンの膝の上のテキストを示し、持っていきますか?と尋ねる。ジンはそれを預けた。
「自転車も置いてきた…道のどこかに」
「探しておきます」
「それと」
 手を出すように言い、素直に差し出された掌にジンは鍵を載せた。
「預けておく」
「君の部屋の…?」
「ブランデーは勝手に飲め」
「いえ、君が笑顔で帰ってきた時のためにとっておきましょう」
「じゃあ…」
 もう一つグラスを用意しておいてくれ、とジンは言った。
「お任せください」
 西原は鍵を掴んだ手を胸に深々と頭を下げる。
「同じ物をもう一つ、揃えておきましょう。だからあなたも、ご友人と笑顔の帰国を」
 西原に見送られ、ボストンを発つ。翌日の午後、ほぼ同じ時刻に到着する。飛行機の中でジンは目を瞑る。ユウヤのことを思い出す。一睡もできない。

          *
 無菌室に収容されたユウヤに、ジンは面会することができない。
「非常に危険な状態です」
 医師は繰り返す。
「だから具体的にどういう状態なのかと訊いている」
 ジンが若いから考慮しているのか、それとも話したくないのか医師は頑なだったが、ユウヤの元後見人である花咲大門が病院に駆けつけて――ジンにメールを送ったのはこの男だった――ようやく面会がかなう。それでも医師は渋い顔をする。
「私は止めました。そのことをご考慮いただきますよう」
「酷い状態なら酷い状態と、まず、あなたが、説明責任を果たすべきだ」
「儂が話そう、海道君」
 三人の足はもう無菌室…いや、隔離病棟へ向かっている。
「君は衝撃的なものを見なければならん」
 ジンは言葉を挟まず大門の言葉に耳を傾けた。
「君が知っているユウヤは存在せん。少なくとも見た目にはな。そしてその心も今では窺い知ることができん。儂にもな、分からなんだ」
「何があったのです」
「病気…弱っておる訳ではない…か。いや、ともかく異常よ。細胞がな、異常に増殖しおるんだそうだ」
「細胞の…異常増殖?」
「覚悟なされよ、海道君。意志が確認できんと言うた、しかしユウヤには意識がある。何を考えておるかはもう分からんでも、そこに心はあるからの」
 消毒され、着替えさせられ、医師のカードキーによって何重もの扉を通過し、人工の光が真昼よりも煌々と照らす部屋に三人は入る。半透明のカーテンがベッドの周囲に張り巡らされている。 医師と大門の足が止まった。ジンは二人を振り向いた。しかし彼らは歩いてくる様子がなかった。その先に待つものを知っているのだ。ジンは前を向く。半透明のカーテンの向こう、八方から照らす光でシルエットさえ見えない。
 しかし既に感じていた、その異様な気配に。
 ジンはカーテンを捲った。ベッドに横たわっているそれは既に人の形を成していなかった。思わず息が詰まった。血の匂いがする。血だけではない、何だろうか。ベッドから溢れ出しそうになったものが蠕動しながら元に戻る。
 意志を知ることはできない。
 しかし心はここにある。
「ユウヤ」
 呼ぶと全体の蠕動が一瞬止まり、それから波のように広がった。
「君なんだな」
 ジンは枕元に寄る。常に震え、形を留めないそれは確かに生きていた。新しい細胞が生まれ、自分が持って生まれた役割を果たそうとしている。どの部分も確かに生きているのだ。
 その中にジンは形の変わらないものを見つけた。そこだけ皮膚が凝って、崩れもしないのだった。
 ああ、この傷痕。
 ユウヤを見つける目印。
「待たせてすまない」
 ジンはそこに口づける。ここは無菌室だ、ユウヤは重篤だ、分かっていた。二人とも分かっていた。しかし恐れなかった。
 このためにジンは海を渡ってやって来た。
「ただいま」
 蠕動する肉塊がベッドから滑り落ちる。血の匂いが強く香る。

          *

 神谷重工に残されたフロートカプセルがまだメンテナンスされているとは思わなかった。しかし彼らは律儀にそれを守っていたのだ。イノベイター事件の直後行方をくらました加納義一の帰りを待って。
 ふん、と鼻で嗤う男がいる。黒木はこれまでのカルテがどれほどのものか、これこそが成果だと言わんばかりに灰原ユウヤの入ったカプセルの外側を叩いた。強化ガラスはほとんど震えもしなかったが、薄緑の液体の中でユウヤはわずかに瞼を開いた。
「この研究を続けてきた甲斐があったというものだ」
 黒木は優越感をもって見下ろす。
「あの海道ジンが頭を下げる様をこの目で見られる日が来ようとはな」
「感謝はしている」
「もっと感謝してくれても構わない」
 くつくつと黒木は嗤う。目黒は黙って、画面上を流れるユウヤのバイタル情報をチェックしていた。
「さて、こうなったからには俺たちに灰原ユウヤを渡した方が得策ではないかね」
 黒木が目黒の肩を叩きながら言う。
「このような状態ではな。もうあんた方には灰原ユウヤを生かすことができない。今の医療では無理だ。我々の科学力あってこそだ」
「そのお前たちの研究に金を出しているのは誰だ?」
「神谷重工の株主様たちさ」
「では僕の言うことを聞いてもらおう」
 その瞬間、黒木の表情が凍る。
「海道ジン…!」
「海道ジン」
 それぞれに名前を呼ばれた。黒木の悔しそうな声。そして後者はそれまでじっとモニタを睨んでいた目黒のもので、思いの外冷静で穏やかだ。
「出資者が誰だろうと構わないですよ、僕は」
 目黒はフロートカプセルを見上げる。カプセルの中のユウヤは、人の形を留めたユウヤは薄く開いた瞼から弱々しい視線をジンにだけ注いでいた。
「灰原ユウヤは生きている」
 目黒の頬にかすかな微笑みが浮かんだ。
「素晴らしい」
 灰原ユウヤはカプセルの中の人となる。まるで実験動物のように、光に照らされた液体の中に浮かび、時々瞼を開いてジンを探す。ジンはなるべくユウヤの側にいる。
「もしかしたら」
 ジンはカプセルのガラスに手を触れ、呟く。
「僕は本当はこうやって寄り添うことができたんじゃなかったのか?」
 遠い過去を思う。ユウヤは答えない。その視線は意志が薄弱ながら穏やかで優しい。

          *

 黒木と目黒はそれぞれ違う方面から灰原ユウヤの現状へアプローチをかけているようで、ユウヤの肉体が安定を保つ液体を探し出したのは目黒の方だった。
 フロートカプセルの中でもユウヤの細胞増殖は完全に安定した訳ではなく、何度か警報で起こされ、そのたびに黒木と目黒が他のスタッフと共に必死の形相で安定を図っていた。
「海、だ」
 目黒は衛星写真を拡大してゆく。
「どの海でもいいというわけではない。四国南部の、この海の水が現状のマッチングでは最も誤差が少ない」
「完全ではないのか」
「だが、今のこの液体よりも」
 ユウヤを四国に移送するとなると、移送先やその設備に関して力を尽くしたのは黒木で、曰く「いずれ我々の元に返ってくる被験体だ。傷物にされては困る」とのこと。折しも有名ながんセンターの側であり、とても静かな浜だった。
 入院患者たちは浜辺を散歩する海道ジンをよく目撃した。よく、と言うより毎日毎日、彼の姿はそこにあった。雨の日も晴れの日も。流石に雪は降らないが冬の風が冷たく吹きつける日も彼は浜辺にいた。
 海の中から顔を覗かせる、それを人魚だと言う者がいる。そんなものの姿は見たことがないから、ジンの方がおかしなものを見ているのだと噂する者もいる。誰も真相は知らない。黒木はその様子を新たに建てられた研究棟からニヤニヤ笑いながら見ている。目黒は空っぽのフロートカプセルがまたいつでも使えるようにと整備に余念がない。
 よく晴れた日だった。朝早くからジンは浜辺を歩いた。透明度の高い青い海にきらきらと光る波が立つ。
「ジン君」
 呼ぶ声が聞こえる。岩場から身を乗り出し、ジンは海中を見つめる。
 ぱっ、と顔が浮かび上がる。長く艶やかな黒髪が揺れ、海水に濡れた頬が光る。裸の肩に見覚えのある傷痕。
「おはよう、ユウヤ」
「おはよう」
 おはようのキスも、おやすみのキスも、二人のキスはいつも海の匂いがする。



2012.9.27 フローライト様、リクエストありがとうございました。
ダン戦/ジンユウ