匂いとあなたとあなたの名前










 これを覚えた時の最初の感情は、興奮だったろうか、恐怖だったろうか。
 少年時代は八神に遠く、背を打つシャワーが熱い雨になって肌を刺す。痛みを冷水に切り替えてもう一度俯いたが陰毛を押し退けて頭をもたげているのはやはり自分の性器で、そのままタイルの壁にごつりと額をぶつけた。
 何をきっかけにしたのか分からない。それでも身体は反応した。そういう気分ではないと言えば痩せ我慢だ。しかし興奮は漠然としていて、何故だかそれを掴むのを躊躇ってしまう。今更恐いも何もないだろう、自分の齢を考えろ、これが役に立つということは男の根源的なプライドを支えてくれる、安心こそすれ溜息をつくいわれはない。
 急に冷水に切り替えられたシャワーに肌が粟立つ。
 ――鎮まってくれればいいものを。
 八神は濡れたタイルの壁に手をついて、もう片手をそれに伸ばす。きつく目をつむると水滴の流れ落ちる身体の輪郭、自分が触れたものの輪郭が瞼の暗闇に浮かび上がる。
 不意に違う生活の匂いがして脳が揺れた。ここがかつて妻子と暮らしたマンションでもなく、去年の冬に借りたばかりの新しい部屋の浴室だということも忘れさせ、惑わせる匂い。それは現在の八神の生活の一部に密着している。
 あの人の匂いだ、と気づいていた。今日の日が蘇る。塔子のお伴でショッピングに向かい、運転手と荷物持ちだけかと思っていたら、塔子は世話を焼いて八神の分の買い物までした。
「これが石鹸ね、果物で作られてるの、シャンプーは地肌に優しいものを選ばなきゃいけないんだよ、八神さんは髪が赤いから気をつけなきゃいけないんだって」
「それは誰がおっしゃったのですか?」
「パパ」
 当然だろう。
 恐らく石鹸は塔子の使っているものと同じなのだろう。そしてシャンプーは。ああ、もう分かっている。
 太陽のように明るくあたたかくおおらかな親子だ。八神が再びの喪失から希望の道を示してくれた二人だ。
 ――こんなことは。
 しかし財前とは、こんな、関係なのだ。
 冷たいシャワーの中で目を開く。瞼の闇が去らず、その薄暗がりの中にちらちらと光るものがある。水滴だろうか。八神は手を伸ばして水を止めた。
 熱いシャワーを浴びるようになったのは、財前と関係を持ってからだ。彼は風邪を引くと言って八神が冷たいシャワーを浴びることを許さなかった。真面目で冗談めいた命令がいつの間にか習慣となって八神の生活に馴染む。切り離しがたい記憶と身体の回路を繋ぐ。香りは力強い手を持ったあの男そのものだった。
 八神は笑みを漏らした。降参だ。あの人ならば仕方ない。私に勝てるはずがない。
 浴室を出ると閉め切った部屋の生温い空気が冷えた身体を包み込んだ。昼間の名残の熱だ。カーテン越しにもこのコンクリートの部屋をあたためる太陽の力だ。八神はクリネックスの箱を片手にベッドに腰掛け、ふ、と溜息をついた。初めてする時のようだ。もう覚えてもいないが、興奮と、わずかな緊張と、期待感。今の八神には肉体的快楽よりも彼を思う幸福感の期待の方が大きい。利き手で優しく全体を包み込む。

「自分の相棒に名前をつけたことは?」
「私のLBXは…ジェネラルは専用機でしたから」
「ああ、そっちじゃなくて」
「………」
「私はジョージだ」
「何故」
「偉大なる父という感じがするだろう」
 先月、モスクワのホテルでのピロートークだ。八神は余韻よりも早く身支度を調えて本来の職務に就こうとした。財前は裸のままベッドに横になり、笑っていた。
「凄い痣だ」
「見た目が派手なだけです」
「痩せ我慢はよくない」
 伸びた手が腹に触れ、軽く押す。
「次は私が守る」
「それでは立場が逆です」
「逆なものか。国民を守るのが私の使命だ」
 熱い掌が腹に押し当てられ、八神は動けなくなった。
「君はわが国の、私が守るべき、そして総理大臣の使命としても私個人の感情としても大事な人間だ」
 座りなさい、と言われると抗えなかった。力強い腕に支えられて身体が傾く。キスは穏やかで優しく、セックスの最中のそれと少し違って、眠りに誘うキスだった。
 ところで、と財前は囁く。
「君の相棒の名前は?」

 八神は今自分の掌に握り込んだそれを見下ろす。直截的な妄想でなくともそれは与えられる掌の熱と身体の奥から溢れる幸福感に生き生きとしている。
 もう一度目をつむり、瞼の闇から一つずつ思い出し、形にする。彼の匂い、彼の掌の熱、優しかったキスも熱烈なそれも、それから彼の声、彼が自分を呼ぶ声。
「八神」
 財前は言った。ベッドの上で八神を見下ろし誠実に微笑んだ。
「今、私は確信している」
 ちょっと演説っぽい口調が抜けていないが、その声は少年のような素直さと熱意に満ちている。
「君への愛情は本物だ」
 財前が囁く。
「君を」
 ――あなたを、
「愛しているよ」
 ――私も愛します、総理。

 熱いシャワーを浴びる。満足感が少し手足の感覚をぼやけさせていて、熱すぎるシャワーに驚いた。浴室に笑い声が響き、自分が笑ったことにさえ吃驚した。
 笑いの余韻を残したまま自分の分身を洗う。名前は…実篤。高校の時、国語の教科書を見て、つけた。武者小路という名字が強そうだったからだ。ティーンエイジャーらしい安直さだが、今でもそう呼んでいる。ジョージには敵わない、と思う。



2012.9.24 シモネー様、リクエストありがとうございました。遅くなってしまい、申し訳ありません。
ダン戦/八神さん/夜の事情(ソロ)