ワーキング・マン、九月の朝にはおはようを
ふと目が暗い色になる。西原誠司はモニタの時刻表示でも壁の時計でもなく、山積みにされたデータとコーヒーカップの間から外していた腕時計を取り上げ時間を見た。真夜中が近くなろうとしていた。そして意外と早いな、と思う。ここ二日の就寝時間が比較対象となること自体間違いだと彼にも分かっていたが、この感覚に慣れてしまったのだ。 長生きどころか早死にしかねないかもしれない、とサプリメントのボトルから数種類のタブレットをざらざら取りだし、口の中に放り込む。コーヒーカップの中身が空だったので、また別の方向に手を伸ばすと水のボトルが手に触った。ぬるい水でタブレットを全て飲み下し、いやあ息が詰まって死ぬかと思った、と一人で笑っているとCCMが特徴的なメロディを流した。海道ジンからの着信だ。 「おやおやこんな時間に珍しい」 独り言を呟きながら、今彼は日本に帰省しているのではなかったかな、と思い出しカレンダーを引き寄せると九月の半ばまで矢印が伸びているから思い違いではない。確か電子カレンダーには無理矢理聞き出した詳しいスケジュールも書き込んでいたはずだ、と手を伸ばし掛けたがCCMのボタンを押して「もしもし」と声をかけ、向こうから『西原』と呼ばれるともうモニタを見る気もしなかった。 「こんばんは、いえそちらはこんにちは、でしょうか」 『こんばんはであっている。挨拶はいい。今からそっちに向かうぞ』 「どこへ」 『サイバーランス社だ』 「本社に御用ですか」 『違う。ボストン支社だ。僕はもうボストンに着いている。今空港を出た所だ』 かすかなノイズ。 『タクシーに乗っている』 「…話が要領を得ませんね。帰国は数日先だったと思いますが、まあともかくお帰りなさい。タクシー? チャールズ川を渡れば君のケンブリッジですよ?」 『僕は今からそっちに行く、いいか、僕が言いたいのはこれだけだ。どうせ社にいるんだろう』 随分機嫌が悪いようだ。苛立つ声は珍しく、妙に急かされるような気分になったが、ここで自分まで空気に流されてはなるまい。まあ、二回りも大人である訳だし。ふふ、と笑うと、西原?と訝しげに問われた。 「分かりました。お待ちしています」 通話は唐突に切れ、通話時間と断線の音が今の会話は現実だと証明してくれた。 「さて、と…」 西原は立ち上がると伸びをした。開発フロアは基本的にスケルトン仕様で西原のオフィスも例外ではない。立ち上がって強化ガラス越しに並んだ無人のオフィスや明かりの消えた廊下を見ていると、確かに真夜中近くだという実感が湧く。そこに残って仕事を続けていると、ここが自分の城のように感じられて名としても実としてもそれはあながち間違いではなかったが、優越感に微笑みが漏れる。 私がジン君のアパートを訪れたことは何度かあるけれど、私の城たる真夜中のオフィスに秒殺の皇帝をお迎えするのは初めてのことだ、と芝居がかった思考になっているところから自分もそれ相当に眠いのかもしれないが気分だけ一方的にハイになって寝る気がしないし、これからジンが来るならば寝られる訳がない。 取り敢えず作りかけのLBXが鎮座坐す椅子を空けて皇帝の座る場所を確保しなければならない。そうだお茶も用意させなければ、とインターフォンを押したが無人のフロアに電子音が響くだけだった。西原は苦笑して自分で給湯室に向かった。 多分女性研究員がストックしていたのだろうハーブティーを淹れてオフィスに戻る途中、エレヴェーターの動く音が聞こえて立ち止まる。振り返ると階数表示がこのフロアで止まり、開いた扉から姿を現したのが海道ジンだ。エレヴェーターの扉が閉じるとまた明かりが絶たれその姿は闇に呑まれる。それが廊下の端に近づき、カードキーで強化ガラスのスライディングドアを開けて入ってくる。 「お帰りなさい」 西原はハーブティーのトレイを持ったまま深々と頭を下げた。 「すまない」 ジンの第一声は意外にもそれだった。 「こんな時間に」 「いえいえ、どうせ仕事をしていましたから」 並んでオフィスの前まで来るとジンがドアを開けてくれた。 「お早い帰国でしたね。いや、帰国という言い方はおかしいか…」 「台風だ」 ジンは当然のように空いた椅子に座り、ハーブティーを手渡すとちょっと視線を上げて、ありがとう、と言った。 「帰国予定の日に重なりそうだったから、予定を繰り上げた」 「台風の分だけ日本でゆっくりしてもよかったのでは?」 「講義が始まる」 「ふむ、それはそうですね」 ハーブティーを一口飲み、ジンは溜息をつく。 「なのにこっちに来ても嵐だ。飛行機が揺れて…」 唸り声を噛み殺し、顔をしかめる。 「もう一分と椅子には座っていたくない」 「それ、椅子ですよ」 「知っている。仮眠室を貸してくれ」 「……それが言いにくいのですが」 「僕は部外者ではないだろう」 「勿論です。ただ、お貸しできるベッドがないんですよ」 「そうか……突然のことで、そちらの都合も考えないで…」 「いいえ、ベッドが埋まっているとかではなくて、仮眠室そのものがないんです」 これには驚いたのかジンは、は?、という口の形のままぽかんと西原を見つめる。サイバーランス社とは長い付き合い、そしてこのボストン支社はビルが出来た頃から通っている。まさかこの事実を自分が知らなかったのだろうかという驚きでジンは固まっている。 「僕は泊まり込みの調整もしたことがある」 「ええ。あの時は二人とも徹夜でしたから、泊まり込みというか寝ていませんよ」 「仮眠室がない?」 「はい」 「あなたはどこで寝泊まりしている」 「このオフィスです。そもそも徹夜だの泊まり込みの仕事だの法律に抵触しますから、社員は時間になったら帰宅して休養を取るべし、です」 深々と溜息をつき、ジンが項垂れる。 「何てことだ…」 「だからチャールズ川を渡ればすぐだと言ったじゃないですか」 西原が言うとこれ以上尻をクッションの上に置きたくない秒殺の皇帝が長い前髪の間から睨みつけるので、いやいや、と手を振る。 「君が私を頼ってくれたのはありがたいことだと、そこは嬉しいなあと思っています」 「頼ったのはサイバーランス社だ」 「またまたぁ、私に電話をくれたじゃないですか」 笑顔を浮かべながら空いた椅子を並べ簡易のベッドを作る。 「申し訳ない寝心地ですが」 「いや……」 ジンはハーブティーを飲み干すと椅子から立ち上がって「ありがとう」と言った。 「忙しい所に押しかけて悪かった」 「何を謝ることがあるんです。あなたは我が社の元テストプレイヤーにして今も協力者、現サイバーランスの世界的地位の最大功労者ですよ、無碍になどできるものですか」 「功労者は実際にLBXを作ったあなた方だ」 「そのお褒めの言葉があれば十分。さ、どうぞ」 並べた椅子の上に横になったジンは安定を探して横向きなる。西原はその肩に自分が仮眠の時に使うブランケットをかけた。 「あなたの私物?」 「研究員にもらったんです」 含みのある視線が見上げるので、彼女じゃありませんよ、と否定する。 「誕生日に何人かが出し合ってプレゼントしてくれたんです。いいものらしい」 ブランドに疎い訳でもないしブランケットには社名も縫い取りされていたが、西原はこのブランケットが本来の用途としてとてもいい仕事をすることをこそ気に入っていた。物、存在には仕事がある。シンプルな道具であればあるほどそれは実感される。この感覚が西原は好きだ。自分のやっているプログラミングは神が――神様など信じてはいないのだが――物それぞれに授けた使命を伝達する言語のようだと考えることがある。物と仕事を思う時、西原は物を愛しく思う感覚がそれに繋がっていると感じる。 不意にそのことを喋りたくなったが、ジンはもう瞼を閉じて深い眠りに落ちていた。熟睡しているのだな、と閉じた瞼に思った。 デスクについても何かと気になって最初は何度も振り返った。ジンは最初の姿勢のままから動かず、静かな寝息を立てている。聞こえるか聞こえないかの程度だ。それもこの深夜のオフィスでは西原の耳に届いたし、背中が眠るあたたかな気配を感じ続けた。 やがてそれに慣れ、振り返らずに仕事が出来るようになる。思いの外、はかどる。草木も眠る丑三つ時を過ぎ、草木の声なんてまるで聞こえないこの摩天楼にあっても西原は自分が地球を回す原動力のように仕事を続け、眠る気配がない。 フロア全体がぼんやりと明るくなって、今日も海の向こうに朝日が射す。その最初の光が幾重もの強化ガラスを越して西原のオフィスにも届いた時、まだ西原は起きていて仕事は昨日の時点でキリと思ったところから随分進んでいる。しかし見直しが必要だろう。チェックと再チェックはスタッフにまかせるとして自分も寝なければならないから、ジン君が起きたら同じ所で少し寝ようかなと考え、手が無意識の内に掴んだサプリメントのボトルから中身も個数も確認しないままそれを頬張り、冷めたハーブティーで飲み干していると、後ろから色っぽい声が聞こえる。 何故か、妻を起こしてしまった、と考え、違うここはトキオシティのマンションじゃないし自分は現在独身だと思い出して、ああジン君が寝てるんだ、そう言えば寝顔を見たのは初めてかな、と考えたところで、今の声は何ですか、と思った。 椅子の上から首をひねって振り返ると、ジンが浅い息をついている。それが熱に籠もっていて色っぽく聞こえたのかな、と思ったがどうもそういう熱っぽさらしく、彼でもそんな夢を見るのか…、と西原は妙に冷静に考えた。 仕事の成果をチェック用のフォルダに振り分けている内に息の詰まる声がして、あ、起きたようだ、と思ったが取り敢えず振り向かない。沈黙してはいるがジンは目が覚めたようだった。ぼんやりしていたらしいのはほんの僅かな時間で、その後どうしようという気配が伝わってくるが、こちらから手出しするのもプライドの高い彼のことだ、受け入れはしないだろう。 「西原」 と呼ばれるまで待った。 「おはようございます」 取り敢えず背を向けたまま挨拶をし、相手の気配に棘がないのを確認してから振り向く。 「結局完徹でした」 「聞きたいんだが、ここにクリーニングサービスか早朝から開いているドラッグ・ストアはないか」 それを言う視線の真っ直ぐなこと。臆せず怖じない、しかしテンパっているのには違いない。 「…取り敢えずトイレに行かれては」 「………」 「着替えなら、私のものでよければ」 ロッカーには封を切っていない新品のシャツや下着が何枚かストックされていて、内一枚の下着を取り出す。 「汚れた分は捨てればいいですよ」 「……気づいていたのか」 「まあ、真後ろでしたから」 するとジンは昨夜のように項垂れて、また深い深い溜息をついた。 「そう気にすることはありません。私は夢精が一番だと思っています」 「…慰めになっていない」 それは別に慰めではなく、西原の持論というかプライベートな見解だったが、ここで夢精について語るのもどうかと思ったので黙っている。 「恥ずかしがることはないですよ。私達は男同士だし、私はジン君よりずっとおじさんですから」 ちらりと視線が見上げる。 「いい夢を見られていたようだし、仕方ない」 「早朝に相応しい話題じゃないな」 「私は徹夜明けなので寝る前の些細な猥談程度ですかねえ」 と笑って見せると、西原はこれこういう奴だとでも言う風にジンの雰囲気がいつものものに戻ってきて、差し出された新品の下着を受け取り廊下に出てトイレへ向かう。 ジンが戻ってくる頃には西原も一仕事終えた肉体の疲労が襲ってきていて、少し横になりたい欲望が頭をもたげるが、並べた椅子に今横になってはジンが何を思うか分からないのでぐったりと机に突っ伏す。その間に本当にうとうとしていたらしい。ふと肩に触れられる感触があって顔を上げるとジンがブランケットを肩にかけてくれていた。 「ここで寝るのか」 「仮眠を二、三時間」 「今日は仕事を早めに切り上げろ」 「そうですね、今日こそは定時で…」 「引き継ぎをしたら休め。僕のアパートに来ていい」 西原は真顔でジンを見上げた。ジンも真顔だった。 「いいんですか」 「一宿一飯の恩というものがあるだろう」 「イッパンのパンはパンツのパンですね」 「下らない」 そのダジャレは本気でお気に召さなかったらしくジンは真顔から無表情になると西原から離れた。 「無理はするな、西原」 「皇帝のご命令とあらば」 返事はやはり芝居がかっていてジンが溜息をつき、西原はいよいよ本格的に眠いなと思いながらさっきまでジンの寝ていた椅子まで移動することもできず、その場で気絶するように眠りに落ちる。 仮眠を取るとそれなりに目は冴えて結局夕方近くまで社に残ってしまい、タクシーに乗ってチャールズ川を渡ったのは街が黄葉の色に染まる時間だった。アパートの玄関でインターフォンを押しロックを解除してもらう。玄関の先はすぐに階段でそれを昇りながら、体力の限界が近いのを感じるがもう一踏ん張りだ。 部屋のドアはジンが自ら開けてくれた。 「遅かったな」 「定時前ですよ」 と笑うと、また溜息が聞こえる。 「いけませんよ、ジン君、溜息をつくと幸せが逃げる」 そう言いながら勧められたソファに腰を下ろすと深々と溜息が漏れた。 「早速これというのも、と思ったが…」 ジンが差し出したのはクリーニングのパッケージに包まれた下着、今朝西原が渡したものだ。別にいいのに、と思ったが他人のパンツが自分の空間にあるという状況にこの青年はまだ慣れていないのだろう。 「わざわざクリーニングまで、ありがとうございます」 「何か飲むか。もう眠りたいというならベッドは作ってある」 「アルコールを少し…欲しいですが」 ジンは飲まないことを西原は知っている。だからキッチンの戸棚からブランデーの壜が取り出された時は、眠気をも凌いで驚いた。未開封だ。 「…私用に?」 自惚れかと思いつつ尋ねると返事がなかったので、沈黙の肯定を存分に味わう。なんと、振る舞い酒ではないですか。 ジンはブランデーグラスもちゃんと揃えていて、軽く乾杯し夕暮れの日射しが満たすソファに差し向かいに座りゆったりと唇をつけると琥珀の液体はただの酒ではなく、この空気さえも飲み込んでいるようで、酒の味わいとはこうだったろうか、と既に酩酊感を感じながら西原はソファにずぶずぶと身体を沈ませる。 「今朝はどんな夢を見たんですか?」 こんな質問をしても酔いのせいにしてもらえるだろうか。興味もあったし、アルコールで口の滑る今言うしかない。これで相手が怒り出しても全部酒のせいだ。 しかしジンは怒りはせず、当然のことか困った顔になった。 「朝っぱらじゃあありませんし」 「…よく覚えていない」 「ジン君、もしかしてこういうのに罪悪感とか感じてます?」 するとジンは、ふ、と笑った。 「僕はそこまで聖人君子でも、朴念仁でもない」 「マスターベーションの別称には『若者の罪』という呼び名もあるようですよ。シン・オブ・ユース。でも若者に限ったものじゃありませんって。オナニーとセックスは別物です」 「そういう話は聞くな」 「妻がいた時もね…」 そう言いかけて、口が滑った、と言葉を途切れさせた。別に秘密にしていようと思った訳ではないが、今まで黙っていた事実だ。 「そうそう、私、結婚してたんですよ、かつて」 ジンは黙って聞いている。 「バツイチです」 「へえ」 気の抜けた返事。過去に何があっても不思議ではないと思われているのかもしれない、殊女性関係に関しては。 「うん……、そう、今朝から、その前の妻のことを思い出して」 「………」 ジンがはやり黙っているので、西原は一人語りを続ける。 「結婚したのはゼノンが本格的にお披露目になった後でした。で、私はやっぱり今みたいな生活をしていて、なかなか家には帰らなくて、すれ違って、喧嘩して…と言うか彼女が一方的に詰るのに私は何も言い返せなくて、だって事実ですから甲斐性がないのも全部。それで妻が出て行って、私は本社に三日間籠もりきりで一睡もせずにトリトーンを完成させて倒れた所を救急車を呼ばれて二日間入院した後で弁護士を立てて離婚して…」 ああ、と呟き西原は瞼を伏せる。 「何をニヤニヤ笑っているんだ」 「ニヤニヤしていますか」 西原は頬を撫でさすり、確かに自分が満面の笑みを浮かべているのを感じる。 「快楽っていうのは…肉体だけじゃないでしょう?」 瞼を開くと低いテーブルを挟んだ向こうのジンがぼやけている。目がかすみ始めたか、涙だろうか。 「私は今でもあの瞬間を思い出すと泣けてくる。トリトーンが完成した瞬間…。それと一緒に思い出すんです。プロトゼノンがリニアを止めた時のことや、ゼノンが完成した時のことを。あの瞬間、確かに法悦を感じた。今朝、夢精が一番だって言いましたよね。確かにセックスよりオナニーが、オナニーより夢精が気持ちいいと思っていますが、それでもやっぱりセックスの方が気持ちいいんです。二人でやることですから。好きな人と為す行為ですから。心と体を一つにするんです。身体的快楽だけじゃない。この世には精神の美しさ、歓びが存在していて、だからセックスだし、セックス以上の快楽を私は知る訳です、その瞬間を知っているんです」 手がぐらりと意志に関係なく揺れる。それが受けとめられる。かすんだ視界の中にジンがいる。ジンの手は優しく自分の手からブランデーグラスを取り上げる。 「…明日には死にたくなるかもしれない」 ソファに倒れながら言うと 「自業自得だ」 とジンが返した。 「忘れるくらい深く眠ればいい」 まあ、と付け加える。 「覚えていなくてもいいが、僕もあなたの意見に賛同しない訳ではない」 「夢精の話ですか」 「心の話だ」 額をこつんと拳で打たれたので、目を瞑る。ジンが毛布をかけてくれるのが気配と肌触りで分かる。 「毛布は、あたたかい」 目を瞑ったまま西原は言葉を紡ぐ。 「そのあたたかさに、やさしさは、宿る。それこそ、神のあたえたしごとです」 「おやすみ」 「おやすみなさい…」 その先は覚えていない。本当にパソコンのシャットダウンより急激に意識は外部から閉じ、内側へ落ちて行く。無限の広がりを持つ魂の中へ。西原は熟睡する。 翌朝、日の出前に目覚めて、まだ薄暗いケンブリッジの街並みを毛布にくるまったまま窓から眺める。十分もするとジンが起き出して紅茶を淹れてくれた。 「砂糖を入れてください」 「珍しいな」 甘い紅茶を飲みながら西原は昨日と一昨日の何もかも大体覚えているのだがそれがそう悪い気分でもなく、想像したように逃げ出したくもならなかったので、黙っていようと思う。ジンは朝食を作ってくれた。簡単なサンドイッチだったが、全く構わなかった。腹が満たされ、西原は深々と頭を下げ御馳走様を言った。 表には二人で出た。ジンは通学用の自転車を押して西原の隣を歩いた。大通りでタクシーを拾う。ジンは自転車に跨がる。 「いってらっしゃい」 西原が声をかけると、ジンは振り向いていつもの控え目な笑みを浮かべた。 「いってきます」 自転車の背中が遠ざかり見えなくなるまで西原は見送る。 「息子さん?」 タクシーの運転手が尋ねる。 「違うんですよねえ」 西原は笑う。 「何だろうなあ、パートナーかなあ」 運転手はもうそこから先は聞いていない。タクシーは朝日に輝くチャールズ川を渡る。振り返ると黄葉に染まったケンブリッジが川面に映って美しく揺らめいている。 「すっかり秋ですね」 西原は独り言を言った。
2012.9.22 杉井東様、リクエストありがとうございました。
ダン戦/西ジン/CPでなくとも独特の宇宙空間かもし出してる |