黒い馬、女の膝、真夜中のレポート










 暑さで目が覚める。肩までシーツがかかっている。真野はこもる熱から逃れようと身じろぎした。
 胸に触れる手があった。
 遠慮もなく乳房を鷲掴みにする手は初対面ではないものの見慣れぬ手で、寝覚めのだるさも手伝った真野は横になったままぼんやりとそれを見た。
 触れられて分かる、一人一人違う、男の手。
 馴れ馴れしいが悪意のある手ではなかった。この男は寒がりなのだろうか。部屋のエアコンは切れていた。肩までシーツをかけた覚えはない。寝入るまで真野の肩は涼しい冷房の風が撫でていたはずだ。ならばシーツもエアコンもこの男に違いない。
 真野は男の手から逃れて起き上がる。身体が生温い空気に包まれ、どうにもすっきりしない。ついさっきまで男に掴まれていた乳房が重たく垂れる。部屋の四隅にはまだあやしげな色の照明が灯っており、何かと意味ありげな角度で設置された鏡に一糸纏わぬ姿を映しだした。床の上には点々と服、下着。しゃがみこんで拾うと染めた髪が雪崩れて顔を包み込む。
 下着を握り締めてしばらくしゃがみこんだ。コブラという男と寝たことを後悔しているのではなかった。ただ、いつもベッドに入るまで抱く淡い期待が、ちょっとした虚しさとなって女の肉体を重くしただけだ。真野は立ち上がり、男の頭まですっぽりシーツを被せてやるとエアコンのスイッチを入れた。冷たい風が吹き出して、少しは気分が変わった。人工的な明かりを切り、カーテンを少しだけ開ける。窓の外は早い朝が始まっている。
 どれもこれも現実の延長だ。冷たいシャワーを浴びると、眠りの中でぐずぐずと溶けていた心が形を取り戻して肉体の内側にフィットする。ああ、現実の中に生きていると思う。昨夜の痕跡を洗い流しながら、しかし確実に一日という時間を経た肉体を彼女はリアルに感じる。
 一日分歳を取る。一日分重くなる。が、一日分重ねられた経験が昨日以上のコントロールを可能にしている。スパイとしてのピークはまだまだこれからだ。そう思っている。
 ――だから、いっそ、知らない方がいいのかもしれない。
 知れば欲望に引き摺られるだろう。
 脚の間にするりと手を滑り込ませた。コンドームをつけてのセックスは基本だが、内部はまだ男の形や熱を覚えている。流れる水の中で溶け出したのは自分の体液だろうか。ぬるりとしたものが指にまとわりつく。その指で形をなぞる。
 濡れない訳ではない。感じない訳ではない。セックスはそこそこに楽しい。だから毎回、ことに及ぶ前は少し期待する。しかし真野はこれまで一度もイッたことがない。
 女性の多いコミュニティに属したことがなく女同士でそんなことを喋る機会は少なかったが、そう珍しいことでもないらしい。だから安心という話ではなく、オーガズムを感じたことがないのは厳然たる事実で、果たして自分の身体に問題があるのか、これまで寝た男が誰も彼も下手だったのか。どちらに結論づけるも虚しい話だ。
 昨夜の男は事前情報によると男性一般よりも軽く、スケベな感じで、まあ、どこにでもいる男だが、この世に二人と同じ人間はいない。
 書き加えられた追加情報。サングラスを外すと案外あどけない目。髪型もサングラスも生物の雄が持つ本能的な威嚇行動の現れなのだろうか。ベッドの上では案外優しいというか、女に対する気遣いを見せた。熱心に舐められるのは悪くない。
 指先にわずかに熱を感じた。興奮とまでは呼べないが昨夜の余韻が火花のように一瞬燃えた。それは一瞬だけのことではあったが、真野は苦笑しもう一度身体中を洗い流した。
 シャワールームを出るとコブラは起き出していて、ベッドの上に腰掛けた後ろ姿が窓から射す朝日にシルエットになっている。
「おはよう」
 声は眠そうだ。裸の背中がエアコンの風に吹かれている。
「煙草、吸っていいか」
「どうぞ」
 コブラは自分の上着を拾い上げ、ポケットから煙草を取り出す。火を点けたのはホテルのライターだった。吐き出された煙が朝日を濁らせる。真野はそれを横目に下着を身につける。少し濡れてしまった髪が肩にはりつきブラジャーの肩紐に巻き込まれる。舌打ちすると、その…、と男の低い声が呼んだ。
「……なにさ」
「昨夜の塩梅は…そんなに悪かったか?」
 真面目ぶって何を訊かれるのかと思えば。真野は吹き出しそうになるのを堪える。どうして男というものは自分のテクニックに過剰なほどの自信を抱くのだろうか。それにしても塩梅という言葉のチョイスがおかしい。
「按摩じゃないんだからさ」
 言いながらベッドの反対側に腰掛ける。振り向いた男はちょっと情けない顔をしていて、改めて一晩の相手としては本当に悪くない男だったのだと思った。
 リップサービスでも、良かった、と言ってやろうとしたのだが、
「そりゃ八神の旦那に比べりゃ……」
 思わぬ名前の登場に瞬間的に怒った真野が拳を繰り出すのとコブラがそれを避けるスピードは、これがラブホテルの朝とは思われないほどいい勝負だった。コブラの身体が後ろに傾き、そのまま倒れる。真野の拳は一瞬前までコブラが咥えていた煙草の火を掠めただけに終わった。
「おわっ」
 危機回避能力により勝利を収めた男は遅れた悲鳴を上げると、あぶねえあぶねえ、と床の上に落ちた煙草を拾った。
「おい、手は大丈夫か」
「……掠っただけだよ」
「女に火傷を作らせるなんて御免だぜ…」
 実際、痛みもなかったがコブラが水で濡らしたタオルに冷蔵庫の中の氷を包んで持ってくるので、おとなしくさせたいようにさせた。
「滅多なこと言うんじゃないよ。あの人がそんな人に見えるかい」
「悪かったって、このとおり謝ってるじゃねえか」
「あの人はそんな人じゃない」
「悪かった。悪う御座いました」
 八神とて石部金吉という訳ではない。妻子もいた、それなりの過去もあった、そしてそれなりの今もある男だ。
 しかし真野は最初から彼の部下として出会った。公私混同を八神は決してしない。それが時と場合ではどうしても男性より弱者となってしまう女という存在であれば尚更。
 タオルが滑り落ちる。床の上で氷の散らばる音がする。
「…何すんのさ」
 真野は自分を押し倒した男を見上げた。案外あどけない目をした男は、煙草の味は嫌か、と訊いた。
 返事はしなかった。目を瞑るとキスが落ちる。煙草の味。
 つけたばかりの下着を剥ごうと手が動く。どれ一つとして同じものはない男の手。その手は昨夜ともわずかに表情を変えて肌の上を滑った。

          *

 暑さで目が覚めた。
 拓也は自分の息がわずかに切れているのに気づく。隣の男を起こしてしまってはいないかと不安になったが、部屋は静かだった。
 八神の寝顔の厳しさを見下ろす、それだけが拓也の優越感だった。唯一のと言っていい。自分はこの男には敵わない。別に勝ち負けのつくような間柄ではなかった。共闘、協力、それから一巡りした四季の分だけ育んだ友情。そしてようやく見ることのできた素顔。おそらく苦しみは消えないのだろう、葛藤もあるのだろう、それらを八神は決して見せようとしない。寝顔になってようやく拓也はそれを目にすることができたのだった。八神には言わない、自分だけが見ているという唯一の優越。
 季節が一巡しようとしている。トキオシティを離れているのは好都合だった。また閉鎖された扉の前に行ってしまうかもしれないから。過去を断ち切れない自分を叱ることもできず、胸の奥から空虚は声を大きくする。久しぶりに飲もう、と誘ったのは拓也の方だった。
 もしかしたら気づかないかもしれないと思った微かなサインを意外にも八神は汲み取ってこのホテルに入った。ビジネスホテルと新品のコンドームのパックと優しいセックス。八神はひどく気遣ったが、拓也はこの程度では傷つかない。むしろもっと傷つけてほしい、と。
 そっとベッドを抜け出すと狭い浴室に入った。真っ暗な、まだ湿った浴槽の底に蹲り、既に勃起した己のペニスに手を伸ばす。
 ――浅ましい。
 足りないのだ。もっと貪ってくれなければ。皮膚をやぶるほどに噛みつき、乱暴に貫き、もののように揺さぶられなければ。あいつのように。
 ――蓮。
 名前を呼ぶ。弱さだと思う。しかしそうしなければこの不完全燃焼の欲求を燃え立たせることができない。檜山こそがこう仕込んだ。檜山の手、檜山の舌、食いついて離さない歯や皮膚を突き破る爪。全部あの男のものだ。あの男があの圧倒的な質量で蹂躙し尽くし身体の奥底まで快楽を刻み込んだ。
 八神の優しさは拓也に安堵と心地良さを与えはしたが、それによって火の点けられた快楽が燃焼しきれず燻っている。眠りでは誤魔化されない。炎を掻き立て、燃やし尽くさなければ、
 ――気が狂う…。
 弱々しく、思った。
 檜山はもういない。死人に縋っては生きられない。まとわりつく腐臭はあっという間に拓也を呑み込む。だから前を見ようと。
 ――八神。
 気負いもなく拓也と呼んでくれた。ホテルのロビーを歩く姿も、コートを脱ぐ様もスマートだった。多分、男同士の関係など想像もしたことがなかったろう男。しかし誘えば拒まないような予感はあったのだ。
 もし彼が檜山のように抱いてくれたら。
 ゾッとした。具体的な想像をした訳ではなかったのに射精しそうになった。ぎりぎりでブレーキをかけ、拓也は想像する。
 ――あの目が嗤う。
 浅ましい自分をなじる言葉を吐いたのだろう、唇が歪む。覗く歯が首筋に立てられる。
 ――あの手が…、
 瞼を閉じると八神の広い、男性的だが品のある手が急に荒々しく拓也の首を掴む。そのまま締め上げられる。下から支配する熱が容赦なく突き上げ開かされた脚の筋肉が骨が軋みを上げる。
 楽しい遊びだろう、と嗄れた声が囁いた。後ろから自分を抱く熱がある。熱い、灼熱の炎に焼かれたかのような腕は、暴力的に力強く拓也を抱きしめ、燃える指で八神との唾液に濡れる唇をなぜる。
 で、お前は誰の名前を呼ぶ?
「う…ぐ……」
 英二、と呼ぶんだろう、ベッドの中では。
「ちが……」
 オレを呼んだように。
「ち…が……」
 ――英二。
 助けを呼んだのか、絶頂故か。
 ごつ、とプラスチックの浴槽に頭がぶつかった。拓也はぐったりと浴槽にもたれ、荒く息をついた。掌に吐き出された射精の痕は見なくても十分だ。
 ――こうでもしなければイけない…。
 掌を汚す精液を浴槽になすりつける。ぬるりとした感触に、たった今自分が出したものなのに嫌悪感を感じた。必要最小限の部分だけ洗い、部屋を出るしかない。このままベッドには戻れない。
 ――これを知られたらきっと軽蔑される。
 きっと、という表現さえ生温かった。絶望的なほどだった。

          *

 暑くて眠る気にもなれない。
 セックスのあとでぐうぐう寝る女は嫌いだ。敢えて言うほどのことでもないから黙っているが、石森がそのタイプでなかったのは想像できたにせよ悪い気分ではなかった。シャワーの音を聞きながら煙草の煙の向こうに広がる乱雑な光景を眺める。
 持ち帰った仕事、LBXの設計図や各パーツの資料が主だが、実際には動かして感覚として捉える。データに残さなければ、と山野博士も宇崎も口を酸っぱくして言う。データとしてのそれらが必要になる日…?
 今はこれで事足りている。だが予感がなくもない。自分はいつか何かを作り上げる。檜山の中に蓄積されたものが日に日に形として組み上がってゆくのが感じられる。具体的な形をなぞればセックスの最中にだってげらげらと笑い出しそうな興奮があった。
 ので、手っ取り早く石森を捕まえた。
 潔癖そうな女に見えたが、意外にも抵抗はなかった。彼女はあっさり檜山の部屋についてきてビールを一本空け、それからベッドで服を脱いだ。上から脱ぐタイプだ。研究室からこの部屋まで直行している。着替えた様子はないが汗の匂いはしなかった。真夏でも研究室は寒いほどに空調が効いている。身体がべたつき始めたのはベッドにのってから。
 少しずつ汗ばんでいく中で、これは身体の関係だと割り切ったような顔をする女の表情を歪めてやりたくなり、拓也はお前と寝たがっている、と吹き込んだ。石森はそれまで小さく漏らしていた嬌声を引っ込め、急に冷静な顔をした。
「嘘よ」
「何?」
「そんなはずない」
 彼が寝たがっているのはあなただわ、と。
 今更知っていることをしたり顔で言われるのは気にくわなかった。まったく、オレがセーブしていてもあいつがこうだ。分かり易いんだ、坊ちゃん育ちはこれだからいけない。
 拓也が欲しがっているはずのもので埋められた石森は、無駄なお喋りの済んだ後はこのセックスを楽しむつもりらしく、壁に手をつき、シーツにしがみつき、檜山の望むとおり乱れた。
 床の上に脱ぎ捨てられた地味なショーツを摘み上げ、檜山は咥え煙草でニヤニヤ嗤う。
「返して」
 後ろから声がした。
「匂いがつくわ」
「喫煙者だらけの職場で何言ってるんだ?」
「下着まで煙草くさくなるのは嫌」
「かぐのか?」
「面白くないわ、その冗談」
 檜山がショーツに鼻を近づけ匂いをかぐと、石森は怒ってそれを取り返した。が、はくのは躊躇われたらしい。握りしめたまま、ぐっ…と唸る姿は巻いたバスタオルが外れかけていた。悔しそうに自分を見つめる目。眼鏡がないせいか、少し幼く見える。
「洗濯すればいい」
 檜山は指さした。
「明日の朝には乾燥機の中で乾いている」
 女を泊めるつもりはなかった。石森でもだ。この部屋は檜山のものだ。汚れた机の上、散らばるLBXの資料、家族の面影を一切廃しながら人間の、自分の匂いで噎せ返るほどの汚い部屋。檜山の内部空間にも等しい。だからこれは、今夜だけの気まぐれだ。
 石森は、ふん、と息を吐くと今来た方へ逆戻りした。暫くして旧式の洗濯機が軋みながら回る音が聞こえた。
 新しい部類のシャツを貸してやりベッドを明け渡そうとすると、ソファでいいわ、と石森は自分からそっちに横になった。すぐに瞼が閉じる。檜山は部屋を見渡した。石森の眼鏡はどこだろう。シャツの裾から伸びた白い脚。狭いリビングも散らかっている。飲んだまま洗わなかったコーヒーカップが幾つも並んでいる。雑誌は読んだまま開いたものが積み重なっている。無事なのはソファの上だけ。そこで眠ることがあるからだ。眼鏡をかけていない石森は枕元の科学情報誌の間にポルノ雑誌が挟まっていることに気づいているのだろうか。綺麗な男優をみつけた。拓也に似ていたので、昨夜はそれを見ながら抜いた、そのソファで。
 檜山はビールの空き缶に煙草の吸いさしを押し込むと、ソファに手を掛ける。
「里奈…」
 石森は起きていた。目を開けて檜山を見上げた。優しげに呼び甘える仕草で擦り寄ると、拒まなかった。檜山は遠慮無くその上に覆い被さり、狭く古いソファを存分に軋ませた。ぎしぎしと洗濯機とソファの競演。キスをするとべたつく自分の唾液に、喉が渇いたな、と自覚する。
 ――もしもこれが拓也なら、
 首筋に噛みついて血を啜ってやる。あの世間知らずの坊やのことだ、真っ青になって怯えるだろう。その想像だけで下半身が反応する。石森の嬌声を聞きながら拓也のことを考えて檜山は射精する。



2012.9.17