リヴィングマンズ・ハンド










 目が覚めた。枕元を見たが時計がない。反射と習慣で手首を見ると真っ暗な中にかすかに文字盤が見えた。真夜中だった。頭が自動的に日付と曜日を確認する。寝ている、知らない部屋、知らないベッドで。カーテンのない窓。真っ暗な夜空には星明りもない。
 ロシア、モスクワの…、と思い出したところで前日の出来事全てが蘇り、腹に鈍痛が染み込む。二発。防弾チョッキを着ていたとは言え、至近距離だ。強化ダンボールの開発が自然と推し進めてしまったものの一つに武器開発がある。衝撃を無にするというならば、更にそれを越える衝撃を。矛盾の故事のように続くいたちごっこ。
 八神は鈍痛の上にのせていた右掌を見た。闇の中から輪郭を浮かび上がらせる広い掌。
 この手で犯人の男を撃った。
 撃たなければ、あの男が死んでいただろう。
 男が手にしていた銃は旧式のものだった。しかし腹に喰らった桁外れの威力から、銃弾は先ごろ開発された強力なものだと分かる。弾倉にはまだ半分以上弾が残っていたはずだが、しかし次を撃てば銃が耐え切れずに暴発していただろう。男の上半身は軽く吹き飛んでいたに違いない。
 八神は手を握る。
 ――死なせたくなかったのか、あの男を。
 妻や娘と離ればなれになったのはお前たちのせいだと叫びながら引き金を引いた男。その一発一発が与える反動も身体が弾き飛ばされそうなものだったろう。死ぬことは覚悟の上だったのかもしれない。犯人として捕まれば、違う街で離ればなれになって暮らす妻や娘も、ただでは済まされまい。
 いや、失うものがなくなってしまったからこそ、凶行に駆られたのだろうか。
 八神は溜息を漏らした。
 かつて八神には命にかえても守りたい人がいた。守ることのできなかった妻と娘。
 今、財前に付き随っているのは職務意識だけではない。心から、彼を守りたいと思っている。妻子を失ったトキオブリッジ倒壊事故、信じていた海道義光を裏切り地位を捨ててイノベイターに離反した昨年の事件、その半生において二度も全てを失った八神が今再び相手の言葉に耳を傾け、人を信じ、争い止まぬ世界に身を投じようと思ったのはこの男が、痛みも苦難もある、しかし光溢れる世界へ手を引いてくれたからだ。
 生きながらえ、逮捕された男が果たしてどんな人生を歩むのか。
 しかし八神は感じている。死で終わりではない。自棄の死では魂は救われない。生きて見出さなければならないものがある。それが最終的に死を見据えたものだとしても。
「恵子…」
 妻と出会ったのは学生時代、教授にまだ高校生だった娘を紹介された。可憐な人、というのが第一印象で、加えて八神は、温室で育てられた花のようだ、という感想を頭の中で付け加えたのを覚えている。
 四年の春に彼女が同じ大学に入学した。プロポーズは八神が卒業した日の夜、籍を入れたのは彼女が卒業した春。
 身を固めておくのが有利だという打算もないではなかった。まして国立大の教授の娘となれば申し分ない。妻を養うため、という言葉を言い訳に八神は仕事に打ち込んだ。妊娠を知らされた時には人並みに喜んだが、夜遅い帰宅、休日もあってなきがごとしの生活習慣を変えることはしなかった。
 彼女の強さ、妻が自分にとってどれだけ掛け替えのない存在であるか気付かされたのは、病院からの連絡を受けた日だ。
 妻が体調を崩していることにさえ八神は気付いていなかった。夜の病院の夜間入口から飛び込んだが、妻は既に手術室の扉の向こうだった。医師の説明によると母子ともに危険な状態であり、このままではどちらかを選択する事態になるだろう、と。
 妻の命か。
 赤ん坊の命か。
 毎夜、帰宅する時には必ず開いていた鍵、灯っていたあたたかな明かり、ほとんど食べないと分かっているのに用意されていた夜食。彼女は必ず起きて待っていた。玄関先に佇み笑顔で迎えてくれた。
 ――おかえりなさい、と。
 自分の帰る場所には必ず彼女の笑顔があったのだ。それは当然の光景だった。当たり前のものとして八神は享受していた。
 妻を失う、と考えた瞬間感じたのは、心臓の抉られるような恐怖だ。失われるものの大きさは、彼の人生の半分に等しかった。
 ――妻を助けてください、
 そう懇願した。しかし医師は縦にも横にも首を振らなかった。
 ――奥さんは、自分の命に代えても娘さんを助けてくださいと言っています。たとえ旦那さん、あなたが反対してもそうしてくれと。
 ――娘……、
 赤ん坊の性別さえ知らなかった。編み物の毛糸の色にさえ気づいていなかった。
 全力を尽くすと言う医師に何度も何度も頭を下げ、一晩中手術室の前の廊下で待ち続けた。産声は夜明けとともに聞こえた。静かな朝だった。薄曇りの日で、病院の外には初霜が下りて真っ白だった。
「ユキ…」
 雪が降ったのではないかと思えるほどの真っ白な朝に生まれた子。八神に希望の有ることを教えてくれた天使。優しい希望がその朝、八神の人生を照らしてくれた。
 この二人を愛しぬく、そう決めた。
 八神に希望を恵んでくれた女性、希望そのものであった娘、そのどちらも自分の手の届かないところで、助けることも、手を伸ばすこともできぬまま逝ってしまった。後を追うことはできなかった。八神の残された世界にはまだたくさんの二人の痕跡が残っていた。それらを捨てて自分も死ぬことは、二人を本当にこの世から消し去ってしまうことのように思えた。
 生きた。思い出を、痕跡を、記憶を守り続けるだけの日々。そこへ海道義光は現れ、八神に生き続ける意味を与えた。
 海道も逝った。あの時自分にかけた言葉の真意を問いただすことはできない。しかし彼の言葉によって八神が残された生を思い出とともに朽ち果てさせるのではなく、思い出と共に生き続けられたのは事実だ。
 ――恵子、ユキ……。
 今なら死んでしまってもあの世の入り口で二人に伝えられる言葉がある。罪も重ねた我が身だ、地獄に落とされることになろうとも、門の手前で天国を見上げ、自分を待ってくれていた妻と娘に言えるだろう。
 ――今でも愛している。
 あの雨の夜、死で苦しみを終わらせては言うことができなかった。今日撃った犯人の男もそうだ。今死んでも、魂は永劫苦しみ続ける。救済は生の苦しみの果てにこそある。
 生きなければならない。
 戦い続けなければならない。
 ドアが小さなノックに震えた。
「八神さん」
 ドア越しに小さな声が聞こえた。
「真野か」
 スライドしたドアの影から真野晶子が姿を現す。急報を聞いてロシアまで駆けつけてくれた忠実な部下。
「寝られませんか…?」
「いや、少し眠った」
 促すと真野は何かを恐れるようにそっとドアを閉め、足音を立てないようベッドの側に近づいた。
「…お水でも」
「少しもらおう」
 半身を起こすと、真野の手がベッドヘッドの小さな明かりをつける。淡いオレンジ色の光の中で一瞬目が合った。真野は俯いてサイドボードの水差しからコップに水を注いだ。
 コップを手渡す時も、真野の指は八神に触れない。彼女は自分の肉体の扱い方を知っている。精神の持つ身体性の理解は、かつて八神が指揮を執っていた黒の舞台の中でもぴか一だった。LBXの操作もそう、八神が行った実戦訓練においてもそうだ。
 過去に一度、赤の部隊と合同訓練を行ったことがある。司令官の貞松は部下たちに敢えて訓練とは伝えなかった。彼らが本気でこちらを敵と見做し攻撃していることに気付いた八神は自らも武器を取って瓦礫の街を駆けた。あの時も真野は、仲間が倒れ一人になりながら善戦していた。八神が駆けつけるまで、持ち場を死守しきった。
 その彼女が病室の明かりの下でかすかな不安に表情を翳らせている。
「…そんなに心配か」
「えっ」
 弾かれたように上げた顔は、洗い落としたのか化粧っ気がなく新鮮な感じがした。そうだ、瓦礫の街で傷つき倒れながら自分を見上げた顔だ。
 八神は簡素な病院服のボタンを外す。真野は何かを言おうとしながら声を詰まらせ、ぎゅっと身体を硬くした。
「見ろ」
 前をはだけた八神は臍の上までを晒した。腹に真新しい赤い痣がある。
「これだけだ。骨にも内蔵にも損傷はない。もっと酷い目に遭ったお前さえ走っていただろう」
「え…ええ……」
 ぎこちなく頷いた真野が目を逸らしたので、八神も病院服の前を閉じた。
 再び沈黙が舞い降りた。コップの中身は空だった。
「もう心配していません」
 真野が小さく呟いた。
「あなたが捨てる命ではないとおっしゃった。信じます」
 そっと手が伸び、前を合わせただけの病院服のボタンをかける。それから空のコップを受け取ってサイドボードに戻した。
 女の手だ。
 かつて、家族のあった生活の中で自分のネクタイを締めてくれた手。赤ん坊を優しく抱いた手。手術に耐えぬいて蒼白になった妻と生まれたばかりの小さな命を目の前に涙の止まらなかった八神の頬をそっと撫でた手。
 真野の手は重火器を握ったこともある、CCMを持たせれば男にも負けない一戦力だ。しかし今、目の前にあるそれは女の手、なのだった。優しく、強い、女の…。
 離れてゆく手を見送り、八神は微笑んだ。
「帰る場所があるというのは…いいものだ」
「みんな、待っています」
「みんな、か…」
 真野が微笑み返し、照明に手を伸ばす。淡いオレンジ色の光の中でまた視線が交わった。八神が眼差しで促し、明かりが落ちた。
「おやすみなさい」
 暗闇の中で真野が言った。
「ありがとう」
 八神が返すと真野の笑った気配がした。
 かすかな足音が遠ざかり、ドアが閉まる。そして病室にはまた静寂が訪れた。八神は身体を倒し、天井を見上げて息を吐いた。
 ――君は死んではならない。
 財前の言葉が思い出された。
 犯人が取り押さえられる最中、痛みをこらえて前を睨みつけていると後ろから八神の身体を支えてこう言った。
 ――君は私と塔子と一緒に日本へ帰り、官邸の玄関で三人一緒にただいまを言う。いってきますを言った瞬間からこれが約束だ。いいな、八神君。
「…はい、総理」
 八神は虚空に向かってもう一度返事を繰り返した。
 自分を待つ人がいる。この痛みも多き、光溢れる世界に自分を繋ぎとめる人たち。
 恵子、ユキ、私がじいさんになるまで待ってくれるだろうか。天国から見下ろして、自分を見つけてくれるだろうか。
 しかし再び出会えた時は、忘れずにこの言葉を持ってゆくから。
 ――愛しているよ。
 そして、君たちが生きたこの世界を愛している。
 この夜を越え、目覚め、また歩き出す。生きてゆく。
 しばしの休息だった。八神は目を閉じた。深く息を吐くと安心感に疲れも痛みも溶けてゆく。
 眠りに落ちた八神の右手は子どものように軽く開かれていた。夜明けの光を待つように。誰かの手を取るように。真夜中の闇の中で、明日の光を信じていた。



2012.9.11