トリガー・オン・ザ・ライフ
こう様の描かれる素晴らしき八神さんこちらの漫画に触発されて勢い書きました。というかノベライゼーションですね。 八神が撃たれたと連絡を受けた時、真野晶子の脳裏に真っ先に浮かんだ光景は曇天の空の下、なびく黒の部隊のマントと八神の長く伸びた髪だった。日本人には珍しい赤毛。癖のあるそれが埃くさく冷たい風になびき、淡い色の双眸は冷徹に眼下の状況を見下ろしていた。しかし真野は知っている。あの瞬間、自分は初めて八神の視界に入ったのだ。 パスポートの他、必要最低限のものとコートだけを掴んで真野は空港に向かった。八神が総理大臣の身辺警護のため随行した先はサミットの行われているロシア。モスクワ郊外の大統領の別荘で事件は起きたとのことだ。真野の受け取った速報は飛行場に着く頃には、財前首相、露大統領襲撃さるるとの臨時ニュースとしてモニタを埋めていた。現地から断片的に入ってくる情報によれば両要人に怪我はないとのこと。二人に向けて五発を発砲した犯人は現場で取り押さえられたらしい。 搭乗アナウンスが流れるのを苛々として待ちながら頭上のモニタを睨みつけているとCCMが震えた。事務所に詰めている矢壁からの連絡。八神は犯人が撃った五発のうち二発を被弾しながら相手を撃った、のだそうだ。 ――八神さんが… 人を、撃った。 あの人が。 真野が初めて八神の視界に入った日、それはイノベイター内部の訓練の最中だった。 目的達成の為に武力を行使する。積極的な攻撃性は持たなかったものの、八神はこれを問題の迅速な解決のために有効な手段として認め、用いていた。それは勿論、LBXだ。しかし八神は自分の指揮下である黒の部隊にはLBX操作の訓練の前に必ず、自らの肉体を用いた訓練を行わせていた。それは警察の特殊訓練と似たものであり、実際の重火器も用いる。 子どもは大人よりもLBXの操作が上手い、というのは一般的な説だ。それは子ども達が幼いころから自らの身体性とLBX操作を重ねてきたからであり、大人がそれを使いこなすためにはまず己の肉体に武力を扱うことを覚えさせなければならない。 プロとして武力を用いることを、八神はそう考えていた。 心技体。これも八神が繰り返した言葉である。活動効率の面からもスリーマンセルの行動が多かったが、八神は肉体と精神が用いようとする力についてそのような理解をしていたからこそ、三人を組ませたのかもしれない。真野は事務所に残してきた矢壁、自分を空港まで送ってくれた細井の顔を思い出す。思えば彼らとチームとして組むようになったのも、あの訓練からだった。 あの日、真野は訓練を受ける側ではなかった。他部署から入ってきたチームの実力を測る目的を兼ね訓練は実施された。市街戦で、敵のアジトに設定した区画を制圧することを目的としており、真野たちはそれを迎え撃つ側だったのだ。ゴム弾を装填した銃を手に、いつもの訓練だと踏み出したあの日…。 アナウンスが流れ、真野は立ち上がる。通路から見上げると、飛行機の飛び立つ先の空は薄曇りで、流れる灰色の向こうにぼんやりと白い太陽が見えた。 ――今日よりも曇っていた。風が冷たくて、 一呼吸ごとに痛んだ喉、 ――死んだ、と思ったねえ… 飛行機の座席に腰掛け瞼を伏せると、あの日の光景は肉体的な記憶とともにまざまざと蘇った。鼻腔を刺す冷たい空気、痛む喉、見開いた瞳が映すのは銃口でも、自分に銃を突きつけている男でも、灰色の空でもなかった。色を一切失った、あれが死だろうか。 額に銃口が押しつけられる。熱を帯びたそれが皮膚に強烈な痛みを与えながら頭蓋骨の鳴るほど食い込む。 「悪く思うなよ」 自分に銃口を押しつけた男が言った瞬間、痛みも消えた。額に感じる熱、激しい呼吸をする喉の痛み、思い切り殴りつけられ切れた唇から血が滲む、その痛みも。急に銃口は冷たく厳然とした存在となって命を奪うために真野の額を、額の奥の脳みそを、肉体の中の魂を狙った。 全てが死に集中していた。 あたしは死ぬ。 事実だ。 真実だ。 現実だ。 全てが本当のことだ、あの指が引き金を引いた瞬間に、あたしは… ――死ぬ…! 覚悟はなかった。いつもの訓練だと思っていた。 しかし目の前に立つ男は違うのだ。 赤の部隊からやって来たこの男たちは本気で、人を殺すために、銃を握っている。 真野の全身と全霊が死に直面した。視界から色が失せ、輪郭が失せ、男の口が開いて何か言っているのも聞き取れなかった。全てが無になる。自分の存在も…。 迫り来る無が真野の存在を押し潰そうとした瞬間、激しい銃声が鳴り響き無の世界を破壊した。自分を踏みつけにしていた男が怯み銃口が逸れる。男は真野から離れ、どこから攻撃されたのか、どこから飛んできた銃弾か見極めようとする。 その時真野は、男より先にその姿を見つけた。冷徹に戦場を踏む軍人よりも、訓練された感覚よりも早く。真野を殺そうとする無の塊を破壊した主は、灰色の空の太陽のようにはっきり見ることができたのだ。 いつも遠くから見つめてきた黒いマント。 赤い髪は瓦礫の街に立ってもくすまず、土埃舞う中にも燃えるように見えた。 「八神さん」 思わず口をついた呟きに瞼が開いた。機内アナウンスは飛行機がもうすぐモスクワに到着する旨を告げていた。回想するほんの数分目を閉じているだけだと思ったのに、いつの間に眠っていたのだろうか。 CCMを確認しようとして機内だと思い出す。真野は溜息をつくと窓の下に薄く広がる雲の海を見下ろした。この下は曇りだ。 ――あたしが覚悟しなかった分の死を、あなたは引き受けてしまったんじゃないでしょうか。 あの日の光景には続きがある。赤の部隊の男たちを蹴散らした八神は、真野に銃口を突きつけた男の額に、今度は逆に銃口を突きつけ返した。男は荒く息をつきながら命乞いをした。頼む、家族がいるんだ、殺さないでくれ、と。 八神は引き金を引かなかった。 これからは妻と子どもとの時間を大切に過ごせと言い残し、もはや反撃する力を失った男に背を向けた。訓練終了のサイレンが響き渡り、救護班の駆けつける足音を遠くに聞いた。あの時真野も見た背中。 人を殺すことは人間の根源的な良心として許されない。それは真野も分かっている。真野を撃とうとした男も、死の恐怖は知っている。しかし八神が銃口を退く時そこに宿っている理由はもっと人間的な、人間が人生の営みの中にあるからこその理由であるように思われる。その…優しさと呼べるものこそが、八神に死を引き寄せはしないか。 ――あの日からずっと怖いことを忘れていた…。 着陸の揺れの中で、真野は再び目を閉じた。 空港では、既にロシアの国営放送が事件時の映像を公開していた。真野は呆然とそれを見つめた。 広い庭を歓談しながら歩く財前と大統領。そこへ急にフレームの外から男が駆け寄ってくる。男はロシア語で何か言いながら素早く抜いた銃を発砲する。最初の三発は外れるが、その間に財前の前には八神が飛び出している。男がまた何かを叫び、撃つ。銃声が連続して二発。その二発とも腹に受けた八神は、しかし崩れない。手にした銃で男の肩を撃ち抜く。犯人の男の肩から血飛沫の飛び散るのが真野の目には見える。八神はまだ倒れない。 直後、男は取り押さえられ、犯人が逮捕されたという意味のナレーションが被る。真野の手は自分のスーツの腹を握りしめていた。 ――やっぱり…! 顔がくしゃりと歪む。 ――やっぱりあなたはすぐに撃たなかった。 男の言葉を聞いたのだ。 あの犯人の男は何と言ったのだろう。正義を叫んだのか、家族の名前を呼んだのか。 ――どうしてあなたは背負おうとするんですか、八神さん。 八神の背にはもう背負うものが一杯だ。なのに自分を撃つ男の言葉までいちいち聞いていたのでは…。 VTRからして防弾を着ているのは分かった。撃たれたとは言うものの、命に別状はないだろう。しかしそうと分かると真野の中には言いたいことが溢れて止まらなくなる。CCMを取りだし日本の矢壁に電話すると一方的にまくしたてた。最初『ちょっと…』と戸惑ったような声を上げた矢壁も、後は真野の気が済むまでまくしたてる間は口を挟むことはなかった。 言葉を吐き出し終えた真野が息を切らせて仁王立ちのまま佇むと、ロシア人が遠巻きに注目していた。警備員さえ近づきがたい顔をしている。 『…大丈夫っすか?』 「ああ、取り敢えず落ち着いた」 『八神さんは無事っす。血の一滴も流れてません。病院の住所は送っときましたんで、メール見てください』 「…すまないね」 『隊長には優しくしてほしいっすよ』 「当ッたり前だろ!」 後ろから細井の叫ぶ声が聞こえて、自分も心配していると慌てて付け加えていた。 「分かったよ。また電話するから、いい子で留守番してるんだよ、あんたたち」 心技体。三人を前に八神が繰り返した言葉。 ――あんたたちがいて良かったよ。 真野はCCMをコートの内ポケットに仕舞い、空港を出た。 病院までの道のり、見上げた空はやはり曇っていた。事件を受けてか、あちこちに警官や軍人らしき姿を見かける。病院でも英語で説明はしたものの、警戒され、ボディチェックまでうけて病室に通された。 八神は大人しくベッドに横になっていた。 「…八神さん」 真野が遠慮がちに声をかけると、わずかに首を傾ける。 「来たのか。心配はいらん」 「でも、心配でしたから」 いつまでも入口に佇んでいる真野に、かけるといい、と促すのはいつもの八神だがわずかに覇気がない。 「総理に怒られた」 椅子に座って何も言えずだんだん俯く真野に、八神は自分から言った。 「これくらい何でもない、と…仕事は続けられると言ったら、子どもを叱るように怒られた。今晩だけはここに泊まることにする」 「…財前総理もご心配なんです、きっと」 彼は目の前で八神が撃たれるのを目にしている。 「そんな顔をするな」 「え…?」 「死にはせん」 「そんな…」 「捨てるための命ではない。解っている」 八神は胸の上に手を置く。この手が犯人を撃った。命を奪った訳ではなかったが、今度は見逃さなかった。撃ったのだ。 テレビがまたニュースを流す。犯人の男は現行政策の中で職を失っており、出稼ぎのため家族が離散したのは政治のせいだと大統領を狙ったのだった。男の叫んだ言葉が字幕で出された。ロシア語のそれならば真野には理解できなかったのだが、八神はテレビに英語字幕を表示させていた。引き金を引きながら男の叫んだ言葉が、妻と娘のことだったと、真野にもはっきり分かった。 「…こんなの、この国の問題ですよ」 「そうだ。そして私は私の仕事をしただけだ」 そんな顔をするな、と左手が伸ばされた。真野は驚いて身体を引こうとしたが、その時既に八神の指先は真野の目元に触れていた。全身…顔もカッカして気づかなかった。真野は今にも泣きそうな顔をしていたのだ。 「いやですよ、そんなつもりじゃ…」 「時々、そんな顔をする」 「……心配になるんです。仕事に一生懸命で無茶をされるので」 でも大丈夫、と真野は化粧の崩れる前に滲んだ涙を拭い、笑ってみせた。 「あたしたち、八神さんのこと信じてますから」 「…すまない」 矢壁と細井のことを挙げ、あいつらも心配してましたよ、これはお土産を買っていかないと、と言うと、私用の荷物は…、と真面目な顔をしかめるので、冗談だと笑ってやらなければならなかった。 「嘘です。無事が一番のお土産です」 「…お前たちは飲むんだったか」 「酒盛りは恒例ですよ」 「じゃあウォッカでも、空港で…」 「帰ったら…ご一緒に?」 「悪くない」 二人が笑いあっているとドアがノックされ、現れたのは誰あろう総理大臣の財前宗助だった。真野は突然現れたこの男に慌てながら席を譲り、病室を出る。 廊下に出ると、夜の病院はひどく静かで寒かった。真野はドアにもたれかかり、ずるずるとしゃがみ込んだ。安堵の涙が滲んだ。懐のCCMを取り出そうとして、ここが病院であることを思い出す。日本に電話するのはもう少し後だ。 涙は瞼の縁を溢れ出して流れた。化粧が崩れるのを感じたが、泣きながら顔は笑っていた。あたたかな溜息が深く漏れ、暗い廊下に落ちた。
2012.9.9
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