スモーク・アンド・エブリシング







 この世のありとあらゆる肉体労働を終えたかのような足取りで開発室から出てきた西原誠司は、その重たくも一つの誇りに満ちた足音をどすどすと響かせて廊下を真っ直ぐにエレヴェーターへ向かった。目的は行為の中にこそありと言わんばかりの動きで、それはまさしく肉体によって発せられている言葉だった。事実頭で考えて行っている行為ではないのだろう。ちょうど電話の着信を受けたジンがエレヴェーターホールの片隅でボストンの街を見下ろしながら喋っているところだったが、それにも気づかぬ様子でボタンを押し、すぐ迎えに来た鉄の箱に乗り込んだ。その手には煙草のパッケージが握りしめられ、たった今破いた口から一本を取り出して咥えたところだった。
 その一瞬、ジンには電話の向こうから聞こえる声が本当に一万キロ彼方まで離れてしまった。全ての神経が男の咥えた煙草に集中した。エレヴェーターの中に消えようとする男はポケットからライターを取り出そうとしていた。トキオシティから呼びかける、もしもし、の声には応えずジンは男の後ろ姿を追いかける。閉まりかけたドアに身体をねじ込むと、ドアは驚いたように安全装置を働かせまた全開になったが、先に乗り込んだ男は驚いた様子もなく闖入者を見た。口元の煙草に火はついていない。ライターも掌に握り込まれたままだ。
 背後でドアが閉まると、男がボタンを押した。鉄の箱はビルの一階へ向けて急降下する。ジンは黙って男を見つめた。西原は咥え煙草のままジンの視線を受け流し、フロアの表示をじれったそうに眸に映す。
 沈黙の箱の中で電話の向こうから呼ぶ声が響いた。
『もしもし、もしもし?』
「ああ」
 ジンがCCMを耳に当てると、突然声が聞こえなくなったからビックリしたよ、と山野バンの安堵した声が聞こえた。その声はもしもしと呼ぶのと同じく大きな声だったから西原にも漏れ聞こえたかもしれない。しかし西原は世界チャンピオンと秒殺の皇帝の会話にも興味がないかのように火のない煙草を揺らしている。
 話はついさっき終わらせた新しい機体の起動実験のことだった。対戦シミュレーションの相手として設定されたのはバンが先月の世界大会でチャンピオンを獲った機体。勿論、山野淳一郎博士のハンドメイドだ。
 で、左腕が?とバンが尋ねる。
「壊れてしまった。武器ごと」
 答えるジンを、そこでようやく西原は横目に見た。ジンもそれに気づいた。
 ジンの操作にLBXがついていけない、というのは久しぶりの事態だった。ジ・エンペラーは動きが止まってしまったが、現在開発中の新しいLBXは最後までジンの命令に応えようとし、結果機能以上の動きに耐えられず自壊したのである。武器の柄を掴んでいた左手は圧倒的な破壊力で手の中のものも砕き、自らも弾けるように崩壊した。スタッフもジンも目を丸くして言葉を失う中、西原は鬼のような形相でデータを睨みつけていた。右手が自動書記のように動いていた。プログラムの修正を走り書きしているのだ。
 プログラムの修正は西原自身の手によって即座にされたが、機体の修復に時間がかかるということで結局今日のテストは終了となったのだ。
「君とバトルできるのはもう少し先かな」
『オレ、凄く楽しみにしてるよ、ジン』
「僕もだ、バン君」
 エレヴェーターが地上に着く。鋼鉄の扉が開くのを待ちきれないかのように西原は足を踏み出し、またずんずんと重たい足音を立ててロビーを横切る。ジンは電話の向こうにおやすみを言いながらその後ろ姿を追いかけた。
 西原が向かったのは窓のない、ガラスで覆われた一角だった。もう何の為の場所なのかは分かっている。禁煙が主流となった世界におけるスモーカーの数少ない憩いの場だ。今は無人で、西原は遠慮することなく大きな音を立てて中に入る。その乱暴な仕草にジンは少し驚きながら、初めての喫煙ルームに足を踏み入れた。
 鉄の音を響かせてライターの蓋が開く。名前の刻印されたジッポーだとジンは一瞬垣間見えたそれを読んだ。セイジ・オール・マイ・ラブ。恋人同士の贈り物ではよく見かける文句だ。西原は火を吸い付けた勢いのまま、深く煙を吸った。
 煙を吐く息は嘆息だった。ベンチに腰掛け前屈みになり、吸い込んだ時より深く、そして重たく吐き出す。この世のありとあらゆる肉体労働の果てに吐き出すかのような疲労の息。
 はあ、と息を吐いた西原は突然顔を上げジンを見た。
「煙草なんて吸うもんじゃないですよ。ろくな事がない。血管は収縮するし血の巡りは悪くなる。何千種類という化学物質が血流に溶けこんでその辺を走る自動車と同じスピードで身体中を循環し、肺はヤニで真っ黒になり、息はくさくなり、女の子にもモテなくなる。まさしく百害あって一利なしだ。君は絶対に吸わないように」
 煙草でジンを指し示しながら一気に言い終えると、西原はまた口を付け深く煙を吸った。
「矛盾していないか」
「若い君への忠告です。私のことは放っておいてください」
 西原は肺にたっぷり溜めた煙を吐き出し、ああ、不味い、と呟いた。それでも吸わずにはおれないのか。ジンが西原の喫煙する姿を見るのは初めてだった。エレベーターに乗り込む前と比べて、その表情は格段に和らいでいた。吐く息が段々と落ち着きを取り戻し、地獄の底を這うようだった息が人間の溜息に戻る。
「極度のストレスを蹴散らす即効薬です」
「ストレス…」
 勿論、さっきの起動実験だろう。結局鬼のような形相で組み上げた修正プログラムも試すことができないまま終了してしまった。
「今日の実験は…」
「終わったことです。これでストレスは解消。機体の方も、もう一度素材開発のグループと打ち合わせをし直してから適した部品と交換します。次のテストは来週…いえ、来週頭にはやりましょう」
「今日は金曜日だが」
「二日あればテストまで持って行けるはずだ」
 西原は短くなった煙草をエアクリーナー付きの灰皿で押し潰し、新たな一本を取りだした。またあのジッポー。誰かからの贈り物。オール・マイ・ラブと愛を捧げられたはずの男に現在恋人がいるという話は聞かない。いつのものだろう。思い出の品だろうか。
「これはね」
 ジンの視線を受けて西原は手の中のジッポーを軽く揺らした。
「いい品ですよ。きちんと整備すればいつまでも使える。これをくれた彼女とは別れましたが、物に罪は無い」
 二本目の煙草は指の間に挟んだまま、西原は軽く前屈みになってジンを見上げた。少し苦笑していた。
「けどこれは」
 軽く煙草を振る。
「吸ってもろくなことはありませんよ。ただでさえ出費が嵩むのに、歯が黄色くなってしまうから使う歯磨き粉まで変わる。君にキスを迫った日にはボコボコにされる」
「は?」
 軽く目を剥いて尋ね返すと、ああ、夢でね、と西原は何ということもないように言う。
「夢の中で君にキスを迫ったら、嫌だと突っぱねられた上にバトルをすることになって、ボコボコにされるという夢を見ました。飛行機の中で」
 言葉を失ったジンが表情だけ歪めて見つめると、西原はやっとおかしそうに笑った。
「気に入りませんか?」
「…今すぐこの部屋から逃げた方がいいのかと思っている」
「ご心配なく、襲いはしません。こんなガラス張りの部屋で」
 その返答にまたジンが眉間の皺を深くすると、冗談ですよ、と西原は手を振った。
「いや、しかし暗示的な夢だったな。予知夢だったのかもしれない」
 ジンが扉に向かって後ずさりするので、そうじゃなくて、と西原は真面目な顔になる。
「LBXが、ですよ」
 ネジもコードも弾け飛んだLBX。ついさっき目の当たりにした光景。
「…そう言えばあなたがLBXを動かすところを見たことがないな」
「技術者がすわいいプレイヤーとは限りません」
 中にはそういう人もいるようですが、と呟き一口煙を呑む。
 煙草を挟んだ指が宙に曲線を描いた。
「どうすればLBXが最高の動きを見せるのか、どのようにコマンドを入力すればいいのか、私には全て分かっている。しかし私の手と指はそれについていけません。秒殺の皇帝と対峙した日には五秒と保たないでしょう。現在のCCMの技術では…君の用いる新型CCMであってもまだ私の理想には届かない。だが……」
 西原の目が野心に滾る。
「CCMスーツ、脳波と神経パルスをLBXへの命令に変換する技術、あれがあれば私も勝てるかもしれない」
「西原」
 咎めるにはその名を呼ばずとも視線一つで十分だった。敢えて名前を呼んだのは西原をビジネスパートナーとして認め信頼する心が生んだたしなめだった。西原も、分かっている、と言うように頷く。
「勿論忘れている訳ではありませんよ七年前の事故を。君の親友の灰原君を貶める気持ちはありません。私もあの場にいたんです。悲劇…いや惨劇を目の当たりにした。少々不用意な発言だったのは謝ります。…しかし技術者としてあの技術を捨ててはおけない気持ちがあるのは事実だ」
「あなたが女性に愛想を尽かされるのがよく分かる」
 ジンは溜息をつきながらガラスの壁にもたれた。
「たとえ正直な気持ちだとしても、そこは黙っておけばいいものを」
「ジン君、科学は発展するものです。CCMスーツの技術は果たしてあれが最悪にして最後の終着点なのでしょうか。九十九パーセントの努力と一パーセントの閃きが切り拓く世界に、私は希望を持っています。もしCCMスーツがプレイヤーを傷つけることなく運用できる技術となれば世界はどう変わるでしょう。どんな未来が描けるか、想像できますかジン君。あの技術を用いることでLBXの楽しみを知ることができる人々もいるかもしれない。私のようにCCM操作の遅い人間が、というだけの話ではありません。分かりますか、ジン君」
 それは想像したことのない世界だった。あの事件を忘れることはできないが、しかし同時に封をした出来事でもある。CCMスーツとサイコスキャニングモードによる灰原ユウヤの暴走は、それほどに強烈な出来事だ。
 しかし西原はそこからさえ希望を見出そうと言う。ジンはそこに紙一重の危うさも感じつつ、その希望的未来が実現したらと素直に思う気持ちもないではなかった。脳波と神経パルスによるLBX操作…。CCM操作が困難であっても、LBXと繋がり、遊ぶことができる。フィールドを自由に駆け回ることができる。
 想像に、思わず心が動かされる。西原の言葉には熱意がある。
 指先まで火が迫ったのを熱で感じたのだろう。西原はほとんど吸わないままだった二本目の煙草も灰皿に押しつけ、三本目に手を出そうとしたところで止めた。手の中にはジッポーだけが残され、彼の手はそれを弄ぶ。
「結局またLBXの話ばかりしてしまった」
 ジッポーの刻印に目を落とし西原は呟いた。
「そろそろ時間ですね。送っていきましょう」
 ジンはそれを拒まなかった。
 表は風が強かった。街の匂いをかいだ西原は顔をしかめる。
「自分で吸う分にはいいんですが、人の吸う煙草の匂いには我慢がならない」
「我が儘なものだな」
「禁煙車をつかまえましょう」
 タクシーに乗り込むとさっきまで煙に巻かれていた西原からは、強く煙草の匂いが香った。しかし同じ喫煙ルームにいた自分からも同じ匂いがするのかもしれない。そう言えば煙草は副流煙の方が害が大きいのだったか。
「あなたは止める気はないのか?」
「何を?」
 素直に聞き返されたので、ジンは指を二本立てる。
「たまにしか吸わない、というのは言い訳にしかならないんでしょうね」
「害悪を知っているなら止めるべきだろう」
「他にストレス解消方があればいいのですが…」
 横目に見られるので、こちらも横目で睨み返す。
「…そう恐い顔をしないでください」
「あなたが言うと冗談に聞こえないんだ」
「ご安心を。できれば止めます。私は長生きがしたいんだ」
「長生き?」
「長生きをしてLBX開発の世界の最先端を走り続ける。そして秒殺の皇帝、最高のLBXを作るのはやはり西原誠司以外いなかったと言われたい」
 西原の物言いは熱意に溢れ、時には野心を隠さない。しかしその言葉には滅多に彼に見ない少年の夢のような素直な感情があった。
 ジンが思わず振り向くと、西原は手の中のジッポーをなぞっていた。
「私の手は大きくない。欲しいものを全て掴もうとしても溢れて、すり抜けてしまう。あれもこれもという訳にはいかない、これは事実です。手だけじゃない、この腕も大きくはない、胸も広くない。本当に手に入れたいものを手に入れるためには手放したくなかったものも、手放すには痛みを伴うものも手放さざるを得ない。そうしてようやく手に入れるんです」
「何を…手に入れるんだ」
「最高のLBXだと、君に選ばれたい。選ばれ続けるLBXを作りたい」
「その為に何を手放した」
 西原は手に握っていたジッポーをポケットに仕舞おうとして、ふとジンを見た。
「代償が価値あるものだったと私は知っています」
 手は優しく、しかしきっぱりとした仕草で料金皿の上にジッポーを置いた。
「…家には帰っているのか?」
 ジンは尋ねた。
「そう尋ねるということは私が答えなくても予想はついているんでしょう」
 ご想像通りですよ、と西原は言って窓に頭をもたせた。疲れた表情だが、笑っていた。
 窓の外の景色はいつの間にかケンブリッジの街になっている。アパートの前のいつもの通りにタクシーは停められ、西原が身を乗り出して、それじゃあ…と言いかけた所でジンはもう一度呼んだ。
「西原」
 ジンの手はドアを開けていた。西原の顔から笑みが消え、驚きに変わる。彼は信じられないという顔のまま運転手に料金を払った。料金皿の上のジッポーを取り上げることなく、タクシーを降りる。
「初めて降りました…」
「二度目だろう。最初の頃にこの街のレストランで食事を摂ったと言っていた」
「ジン君も一緒でしたっけ」
「いいや」
「じゃあ覚えている訳がない」
 西原の表情に急に笑顔が戻る。
「君のアパートに行くなんて初めてだ」
「アルコールはありませんよ」
「いえいえ、秒殺の皇帝が出してくださるのであればただの水でも有り難く頂戴いたします」
 ほとんど人を招いたことのない自分の部屋に西原を入れるのは妙な不安感があったが、部屋に踏み込んだ西原はいつものお喋りを封じてただ一言、「いい部屋ですね」と言った。
「楽にしてくれ」
 紅茶の用意をしながら言うと、ありがとうございます、と律儀な返事と共に少しだけ歩き回る足音が聞こえた。軽く、ゆったりとそれは窓辺に向かう。通りの幾つか向こうには大学の屋根が見えるはずだ。
 紅茶を置きジンが座ると、西原もようやく腰を下ろした。
「居心地がいい」
 西原はしみじみと呟き、紅茶の香りを吸い込んだ。
「いい香りですね、胸が洗われる」
「今日は泊まって行くといい。食事は僕が用意する」
 再び西原を驚かすことに成功したようだ。西原は機能停止したLBXのように動かず、カップを持ったまま固まっていた。
「それともあなたがいなければ何もかもままならないか?」
「…いいえ」
 西原はカップを置き、胸に手を当てる。
「私は最高のスタッフに恵まれていますし、彼らに信頼を置いています」
 早速電話をかけて、翌朝戻る旨を伝える。言葉少なで硬い声だったが、嬉しさをひた隠しにしていたのは電話を切った瞬間の表情で分かった。
「はは、やった」
 ソファにぐったりともたれかかった西原は天井を見上げて笑った。
「やったぞ」
「休みもたまには必要だ。LBXだってメンテナンスをする。あなたも当然知っていることだと思うが」
「いえ、ジン君、私はね、もうこれだけで、本当はボストンにとんぼ返りして仕事の続きをしていいくらいなんですよ」
 翌朝九時まで支社には絶対に戻らないと言ったその口で、西原は言う。
「皇帝から栄誉を賜った、それだけでこの先一ヶ月は眠らずに働けそうです」
「大袈裟すぎる」
「いいえ、証明してもいいくらいですが、しかしここは君の言葉に甘えましょう」
 お茶を飲み終えて、再びソファにもたれかかり溜息を吐いた西原はそのまま眠ってしまった。眠っていると気づいたのは、その身体がゆっくりと傾いたからだった。ジンが頭の下にクッションを敷いてやっても西原は起きなかった。
 ジンは宣言通り夕食を用意したが、あまりいい出来ではなく、鍋いっぱいのパスタを見下ろしてしばらく考え込んだ末にデリバリーピザを注文した。
 しかし日が暮れる頃目を覚ました西原は茹ですぎのパスタも笑いながら食べた。
「皇帝は皇帝の、コックにはコックの仕事がありますよ」
「技術者には技術者の仕事が?」
「パスタはLBXの材料ではないので」
 届いたピザに助けられ、テレビのチャンネルを変えに変えた末にモノクロの古い映画を観た。三時間もある映画で、二人とも途中で眠ってしまった。目が覚めたのは深夜過ぎ。ジンの頭は西原の肩に支えられていた。
 テレビショッピングを流し続けるテレビを消し、急な静けさに目を覚ました西原に枕がわりのクッションと毛布を渡す。夜になって急に冷え込んでいた。
「じゃあ」
 寝室に消えようとしたジンの背中に西原の眠そうな声が飛んだ。
「おやすみなさい」
 ジンはドアをもう半分開け直し、振り向いた。
「おやすみ」
 ソファの上から西原が手を振るのが見えた。その手を見るとジンの胸にも一日の終わりが全て片付いて腑に落ちるのを感じた。一日の終わりの光景だ。今日という一日の完結。ベッドに横になると、ジンもぐっすり眠りについた。この世のありとあらゆる皇帝が生涯で一度は味わうことがあったろう、忠実な仕事と信頼によって築かれた一日の最後に訪れる満足に包まれた眠りだった。



2012.9.5