昼と夜と水の匂い







太陽の大地

 線路は広大な大地をただひたすらに真っ直ぐ進むのだった。八神は手でそっとその光景を遮ろうとした。車窓の景色は光に満ちている。八月の明るい太陽と、地平線の彼方まで広がる向日葵の畑。ひどく眩しくて、八神は俯いてしまう。
 ユーラシア大陸北部を横断する鉄道が走るのは必ずしも氷の大地ではないと、知識でも知っていたはずだし、行程表に書かれたルートはつぶさに調査したのだ。それでも八神がその意外さに狼狽えてしまうほど、その景色は光に溢れていた。暗く狭い連結部の、ひどい揺れに身を任せて安堵の息を吐いてしまうほどに。その眩しさの中には、八神の失ったものがきらめきと共に詰め込まれていた。
 窓が開いたならば、きっと身を乗り出そうとしただろう財前塔子の笑顔や、それを見守る財前宗助の慈愛の籠もった瞳、など。忘れたことなどないはずの妻と娘の面影が、急に冷たく湿った手となって八神の心臓を握りしめる。
 私は本当は、お前たちをここに連れてきたかった。両腕で抱えきれない花束を君に贈ろう。愛する君に。愛した君に、君たちに…。
 いつかあったかもしれない光景が、もしかしたら待っていたかもしれない風景が、一人きりの八神の目の前に広がる。孤独に慣れても悲しみは消えず、それはあの時から八神の財産だ。
 しかし八神の職業人として鍛えられた心身は、彼の感傷も裏切って職務に忠実だった。狼狽も、胸をひたす悲しみも、幻に惑わされたのもほんの数秒のこと――百年続くような悲しみも。顔を上げ、背後の気配に神経を研ぎ澄ます。
 足音も判別できないこの五月蠅い連結部にいながらも、八神は背後のドアに近づいてきたのが誰なのかを知る。足音からも余裕と威厳が満ちる、日本の若き指導者。
 懐の銃を確認しながら、視線は八方に走って怪しい人影がないかを確認する。あるいは狙う銃口、嫌な点滅をする赤い光、などなど。
 ない、と確信を持つことができれば、ドアの前からどいて彼が姿を現すのを待つ。
 ドアをスライドさせたのは財前で、彼は娘の塔子とSPの女性を先に通した。塔子は顔を赤くしている。SPが苦笑しながら目当てのドアに塔子を導く。
「花を摘みに」
 財前が肩をすくめて笑った。
 ドアが閉まると、連結部はまた下の暗さに閉じ込められる。車窓から射す光ばかり眩しくて、余計だ。
 財前は車両に戻らず、八神の隣にもたれた。
「どうした?」
「いいえ、何も問題は」
「やけに気にしているようだが」
 指が八神の胸の上を叩く。スーツ越しに、指は銃に触れた。
「必要になりそうか」
「そうならないことを祈りますが」
「北の大地では何でも起こりうるらしい」
 こんなに美しい景色が広がるのに、と財前は首を傾けて向日葵畑を眺めた。
「どこまで続くんだろうな」
 世界の終わりまで広がっていそうだ。生命力に溢れる黄色の花がどこまでも彼の進む世界に広がっている。財前とはそういう男だ。自らが進む世界を明るく切り拓く。
「八神」
 名前を呼ばれたのにハッとすると財前の指が鼻を摘んだ。
「総理…!」
「迷子みたいな顔をするな」
 笑顔が溢れ、指先が離れる。
「君が道に迷いそうだと言うのなら」
 指は、銃に触れ、鼻に触れた指は、そっとさりげない仕草で八神の指を掴んだ。
「私が導く。君の手を引いて。だから心配するな」
 八神はそれを握り返すこともできず、ぎこちなく掴まれるままにされながら答えた。
「もう迷うことはありません」
「本当か?」
 心臓を掴んでいた冷たい手がほどけて。
「あなたの背中が目の前にあるので」
 もう見失わない。明るい夏の日の下、世界で一番信じられる背中を追いかけて走る。
 心臓が熱い血を送り出す。動いている、まるであつく熱を放ちながらフル回転するエンジンのように。あったかもしれない光景が、本当にあった光景と一緒に車窓を流れ、妻と娘が笑顔で手を振る。
 いいや、君たちも一緒に連れて行くのだ。
「あなたの背中は広いですから」
「私も巨人じゃない。向日葵の方が背が高いだろう」
「いいえ、きっと見失いません」
 ようやく握りかえした指が軽く絡まって、財前の身体がわずかに密着した。壁に押しつけられるように、しかし軽いキスだった。
 掌がまだ胸の上に残る。銃に触れている。
「ホテルの警備体制に期待しよう」
 財前は笑顔でごく素直にそう言った。
「…そうですね」
 八神も、日焼けした手の離れた跡をそっと押さえる。
 SPに連れられてトイレから出てきた塔子は、今度は父のためにドアを開けた。
「では、頼む」
 ウィンクを残して財前の姿がドアの向こうに消える。それさえ真夏の光線のようだ。防弾の上から八神の心臓を貫く、この世で唯一の弾丸。撃たれた八神は壁にもたれかかり、天井を仰いで溜息をついた。


肉体と関係

 女…、男…、自分の身体は……。
 包帯の下の身体を、自分自身さえよく把握していない。この包帯をほどいた時、そこに肉体はあるのか。それは既に腐り落ちているのではないだろうか。それでも構わない、構うものか、そんなことはどうだっていいんだ。俺にはこれがある、キラードロイドが…。
 瞼を閉じると閃光のようにあの姿がひらめいた。冷たい憎悪に燃える瞳が、LBXを喰らい尽くす牙が。憎い憎いあの気配を追いかけて首をもたげる、尾を打ち鳴らす。これは俺そのものだと。
「アンタ、何考えてんのさ」
 キリトの声は再び彼の意識を肉体に引き摺り戻した。強制的、横暴なまでにそれを実感させられる肉体…少なくとも男根をねじ込むだけの穴はあるらしい肉体に。喉の奥で掠れる笑いを漏らすと再び弱い部分を抉られる。欲望にかき混ぜられて、きっと血も肉もぐちゃぐちゃに溶けているだろう。
 苦しい。おぞましい。そのおぞましさが相応で、感覚がげろりと裏返って快楽に変わる。カ、カ、カ、と漏れた笑いはそのまま悲鳴となった。
 楽しいか? 楽しいか、風摩キリト。俺は吐きそうなほど愉快で退屈だ。
 きっとこの若者はこのぐちゃぐちゃの穴に射精するに違いない。早く射精すればいい、出し尽くし、搾り尽くし、とっとと俺の上からどいてもらおう。
 引き攣る喉はもう声を作り出すことさえできなかった。女のような声さえ出ない。ああ、苦しい、気持ちが良い。そろそろ気を失うだろう。


温度と匂い

 暗く淀んだ眸だと、鏡を見なくても分かっていた。だからビショップは洗面台をひたひたと満たす光のない水面に向かいあい、両手で掬い上げた冷たい水で顔を洗った。水の匂いと冷たさと、しかし掌の、皮膚の下に残ったアラン・ウォーゼンのぬくもりが匂いが鼻腔を掠める。ぬくもりもどきの、それ。
 実際には自分がバスタブに張った湯のぬくもりで、粘膜に馴染む匂いは彼の肉体的な老いを否応なく感じさせるものだった。しかしビショップはぬるくなった自分の掌をもう一度顔に押しつけ、深く息を吸った。もう自分の肌の匂いしかしなかった。
 手を洗い、溜まっていた水を流すとついさっきの感情も行為も益体のない、と虚ろな気持ちになる。他人の裸を洗い、それを今日一日の最後の仕事として私室に戻ったビショップにはこれ以上為すべき行為もない。服を脱ぎ捨て、ベッドに転がるだけだ。シーツの海は冷たく、数日取り替えていない湿った匂いがする。気のせいだろう。ここは海の上だからそんな錯覚をするだけだ。
 持ち上げた左手をぱたりと落として、あのアヒル、と湯船に浮いた玩具を思い出す。命令されたから作った。首をもいで海に捨ててやろうかと一日に二度は思う。それよりあの得体の知れない男の包帯を全て剥ぎ取って…。
 そこまで考えてつま先がシーツを掻いた。眠りと覚醒の狭間で、夢のような思考をしていたらしい。感情に振り回されるのは本意ではなかった。眠る前くらい、ミイラ男のことなど捨て置け。子どもでもあるまいし、怖い怖いと夢に出てくることもないだろう。
 目覚めれば一日も自分の全てもアラン・ウォーゼンのために動き出す。だから寝る前に考えることもない。冷たい鉄の船の、揺れる小さな寝台はビショップを眠りに誘う。掌の熱は睡眠を求める肉体のもの。だが、それでもビショップは。
 両腕を枕にし、俯せになって眠る。


海のむこうのとおい国

 振り返ると誰もいない。知っている人は、誰も。誰も自分のことを知らない浜辺をユウヤは歩いている。夏の強い日射しが肌を焼く、その熱と痛みさえ心地良く感じながら。太陽が自分を照らすのが、自分は本当に自由でもうどこを歩いてもいいのだとライセンスを与えられた気分で。
 靴を脱ぐと裸足が静かに砂に沈む。乾いた砂の下は湿っていて、ユウヤは思わずしゃがみ込み掌を砂に潜らせる。砂の下はひんやりとしていて、重くて、静かだ。ユウヤはそのまま浜辺に横になり、砂に耳を押し当てた。波の音が響く。
 遠い太平洋の彼方の、彼のいるA国の岸から生まれた波の音が聞こえているのだと思えば、恩人であり友である面影が瞼の裏を掠めて砂の上から視線を持ち上げる。海鳥が太陽とユウヤの間にある空を羽ばたき、影が浜の上、ユウヤを軌道上に置いて何度も円を描いた。
 君の見下ろす影のようだと、ユウヤは砂の下に囁きかける。この振動が波となって太平洋を越えますように。


とおい記憶、遠いせなか

 目覚める前の、記憶の海を泳ぐユウヤは目覚めれば既に覚えてはいられない光景を味わうように漂った。現在では整然と並べられた書架のような記憶たち。一枚一枚の絵はガラスのようにほぼ透明で触れると懐かしいフロートカプセルの水の匂いがする。
 懐かしい。
 あの、水の匂い。
 何も考えない時間は苦痛と苦痛の間の安らぎだった。
「僕はね」
 夢の中でユウヤは呟く。
 一枚の記憶の板に手を触れると透明な表面は水のように溶けてユウヤの腕を呑み込む。記憶の中の自分の背中が見える。ユウヤの意識は過去の記憶と重なり合い、開いた瞼が記憶の光景を目の前に広げる。
 フロートカプセルのガラスの壁面に映った、いくつかの映像。それは自分に学習をさせるために映し出されたものだった。ユウヤはその中に海道ジンの背中を見た。
 ジンと、ジンのLBX、ジ・エンペラー。
 ジンのCCM操作の技術。
 ジンのバトル。
 失敗した実験の残骸の記憶だ。実験の初期段階でのユウヤを彼らは、海道ジンのバックアップとして機能させるつもりだった。
 しかし海道義光、加納義一の双方とも最初から理解していたし、そんなものは望んでいなかった。海道義光は人間こそが人間を教育するものだと経験から知っていたし、その為の力を海道ジンに注ぎ、育て上げた。また加納義一は科学の挑戦こそが到達させる人間の新たな段階を灰原ユウヤという肉体を使って手に入れようとしていたし、その為にはたかだか一人の少年のバックアップ機能など役不足にも程があるものだったろう。
 けれどもユウヤがその身に受けたものは今でも消えずに残っている。
 ジン。
 あれっきりもう会えなくなった、会えなくて寂しかった君が、目の前にいる。
 僕もLBXを持っているよ。
 僕もLBXでバトルをするんだよ。
 聞こえる、ジン君、僕はここにいるよ、君の背中にいるよ。
 ユウヤは手を伸ばす。
 ぱしゃん、と音がしてユウヤは記憶の板から抜け出した。全身が記憶で濡れていた。
「僕はね」
 ユウヤは呟く。
「君が目の前にいると思ってたんだ」

 瞼を開くと天井がぼやけて見えた。涙がこめかみから耳の側まで伝って濡れているのが、ひんやりとした感触に分かった。
「ユウヤ?」
 暗がりから声がする。鋼鉄とプラスチックでできた部屋、この天井、ダックシャトルの内部だ。そうだ、隣には。
「ジン君」
 呼ぶ声が自分でも思ってみないほど小さく、か細い。
「…起きたのか」
「君も。……僕が起こしてしまったのかな」
「いいや」
 夢を見て、起きた、と小さな声でジンが返事をした。
「僕も」
 ユウヤもそっと涙を拭いながら返事をする。
「夢を見ていたみたい」
 朝と呼ぶには早い、むしろ深夜と呼ぶに相応しい午前三時。二人はベッドから起き出して洗面台に向かう。照明の白い光に照らされて鏡に映った顔は眠いせいか少し疲れたような顔で、ユウヤの目の縁は赤くなっていた。
 ジンの気づいた眼差しにちょと笑い返して顔を洗う。水が涙の痕を洗い流す。清潔な水の匂いは、以前の自分が浸っていた液体の匂いとは違った。これが今の水の匂いなんだ。
 濡れた顔を上げると水に濡れた視界の中、ジンがタオルを差し出している。
「ありがとう」
 受け取って乾いたそれに顔を押しつける。ぬくもりがあるようで思わず息が漏れた。その時。
 明かりが、消えたのだろうか。タオルに覆われて白く光っていた視界が急に暗転する。肩を掴まれる力に抗わないまま、背中が壁に触れた。そして、タオル越しにジンの吐息を感じた。ぬくもりが、呼吸がタオルの向こうから伝わり、しかし隔てるそれを決して退けようとしない。タオルを持ったユウヤの手を、更に押さえる手。
 しかしユウヤは相手の手を押し返す。力はこちらの方が強い。挟まれていたタオルが床に落ちて、薄暗がりの中で唇を噛みしめたジンを目の前に見る。
「僕は…」
 ジンが呟き言葉を詰まらせるのを、ユウヤは引き継いだ。
「僕はね」
 押し返していた腕の力を抜き、手を握り合わせる。
「君の夢を見ていたのかもしれない」
「…泣いていた」
 ユウヤは首を横に振り、ジンがもたれかかるのを抱きとめた。
 背中に、触れる。
 すると本当に涙がこぼれてきて、温かなそれが頬を濡らすのに自然と微笑がこぼれた。



2012.8.27